サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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野津 謙(のづ ゆずる、明治32年(1899年)3月12日 -昭和58年(1983年)8月27日)は、医師(小児科医)、医学博士で元サッカー選手、サッカー指導者、第4代日本蹴球協会(日本サッカー協会(JFA))会長。元国際サッカー連盟(FIFA)理事。日本サッカー近代化推進者。1923年東京帝国大学医学部卒。1934年ハーバード大学公衆衛生学部卒。


■野津謙の生涯

広島県広島市生まれ。父親も開業医だった。サッカー部(蹴球部)創部間もない広島一中(現・広島県立国泰寺高校)時代にサッカーを始め、大正5年(1916年)上京し第一高等学校(一高)でサッカー部を作り、更に進学した東京帝国大学でもサッカー部(帝大蹴球団、東京大学ア式蹴球部)を作る。当初はボート競技が主でサッカーはかたわらにしていたが、大正10年(1921年)、上海で行われた第5回極東選手権競技大会に日本代表選手として参加するも全敗に終わった悔しさから、サッカーに打ち込むようになった。またこの年の大日本蹴球協会(日本サッカー協会)の創立にも参画した。

東京帝大のサッカー部をいかに強くするか、また当時はマイナーなスポーツであったサッカーをいかに発展させるか思案した野津は、官立の旧制高校による全国大会をやれば、旧制高校のレベルアップが図られ、そうした選手たちが最終的に東京帝大に進学し、東京帝大サッカー部が強くなると考えた。この開催に学業を放り出してまで奔走し、当時スポーツ行政の主務官庁だった内務省など各方面と交渉、大正13年(1923年)東京帝大主催により、第1回全国高等学校(旧制)ア式蹴球大会の開催にこぎつけた。以降この大会は学制改革により旧制高校制度が廃止されるまで25年間続き、野津のもくろみ通り、竹腰重丸や岡野俊一郎ら優秀な人材が東京帝大に集まり黄金時代を形成、更に大学サッカー界の活性化にも大きく貢献し「大学サッカー」の時代を創ることとなった。

1923年卒業後、同大学大学院で血清研究のち小児科教室副手。昭和3年(1928年)アムステルダムオリンピック、昭和7年(1932年)ロサンゼルスオリンピックに日本選手団・本部役員として連続参加。この間欧州の医業も見学。またアムステルダム五輪期間中、当時アムステルダムに事務所のあった国際蹴球連盟(FIFA)を訪れ大日本蹴球協会のFIFA加盟を申請。昭和5年(1930年)承認。昭和4年(1929年)大日本体育協会専務理事。昭和6年(1931年)ロックフェラーフェローに選ばれハーバード大学公衆衛生部留学、小児衛生を専攻し昭和9年(1934年)同大学卒。帰国後、米国に於ける研鑽を活用し、日本の立ち遅れた予防医学の充実に尽力。当時は薬物中心の医学が主流だった。昭和10年(1935年)、東京都中央保健所学校衛生部長に就任し、小児結核の早期発見と治療への道を開くなど学校保健の研究を重ねた。当時は「結核」という言葉を聞くだけでも恐れられた時代だった。昭和13年(1938年)、厚生省体育官。日独防共協定が結ばれた昭和11年(1936年)には、学術的立場から国家施策を検討しようと同志らと「日独同志会(大日本同志会)」を結成。この関係で戦中は、大政翼賛会国民生活指導副部長、またその傘下である大日本産業報国会(産報)中央本部厚生局保健部長に就任。産報基本体操などを策定し、産業人の作業能率増進や結核予防運動に取り組んだ。 

戦後は弘前大学の前身の一つである青森医学専門学校設立などに尽力。昭和22年(1947年)、神奈川県川崎市溝の口に野津診療所を開業。昭和30年(1955年)、高橋龍太郎がプロ野球・高橋ユニオンズのオーナーとなり会長を辞退したため、第4代日本蹴球協会(日本サッカー協会)会長に推挙され就任。サッカー選手出身として初めての選出だった。当時のアマチュアスポーツ団体のトップは政財界の有名人の飾り・名誉職が多かったため「キャプテン会長」と呼ばれた。以降10期26年間の長きに渡り会長を務める。昭和33年(1958年)、アジアサッカー連盟(AFC)副会長。昭和37年(1962年)、アジア競技大会(ジャカルタ)日本代表選手団団長。日本代表を欧州に初めて50日間の長期遠征をさせたり、B代表を編成したりするが東京オリンピック(1964年)をひかえて代表チームは、東京アジア大会(1958年)からローマ五輪(1960年)予選と不振が続く。前途に一筋の光明をも見出せない寒々とした時代、野津は外国のプロコーチ招聘を画策。内部の反対を押し切ってドイツに渡り、直接交渉(医師のため独語が堪能)しデットマール・クラマーを招聘した。親交のあった西ドイツサッカー協会会長の推薦があったとは言え、当時のクラマーは西部サッカー連盟(デュイスブルグスポーツシューレ)の一青少年指導コーチに過ぎなかった。更に昭和39年(1964年)、同郷で33歳と若い長沼健を日本代表監督(コーチ・岡野俊一郎(32歳))に抜擢、クラマーの技術指導を請けたスタッフ、選手らによって昭和43年(1968年)メキシコオリンピックに於いて銅メダル獲得という偉業を達成した。昭和40年(1965年)、日本のサッカー強化にはリーグ戦を通じて試合数を増やすべきとクラマーの提案を受け、現在のJリーグの前身、日本サッカーリーグ(JSL)をスタートさせる。

メキシコ五輪後、小野卓爾専務理事らと次の目標をワールドカップ出場とし、その実現のためプロ化を標榜。野津はプロ野球経営で実績のある読売新聞社を訪れ、読売グループの天皇・正力松太郎にプロサッカーチームの設立を依頼した。正力の亡くなる前年の事だった。この時、野津は正力の問いに「5年後にはプロ化がスタートすると思ってください」と答えた。

昭和44年(1969年)FIFA理事就任。昭和45年(1970年)それまで決勝戦だけ、それも一部地域のみNHKでテレビ中継だった全国高等学校サッカー選手権大会を憂い「若い世代でサッカーを普及させるためテレビ放映をやって欲しい」と日本テレビに要請。当時同局スポーツディレクターだった坂田信久(のち東京ヴェルディ1969社長)らの奔走で同大会は、昭和51年(1976年)からの首都圏開催などの改革を経て、現在の“冬の風物詩”として定着したものである。また昭和45年(1970年)のワールドカップを視察し、ペレを生で見た野津は、日本でワールドカップを開催できないか と考え、当時のFIFA会長サー・スタンリー・ラウスと相談するが昭和51年(1976年)、直系の子分とも言うべき長沼らがクーデターを起こし、野津は会長の座を追われた(名誉会長)。10数年前自らが抜擢した若手に今度は自分が追われる結果となった。

野津はワールドカップの日本開催を昭和61年(1986年)に考えていた。この大会はメキシコで行われマラドーナが伝説のプレイを魅せた。あのまま野津が会長だったら日本のプロ化も10年早かった、という声もある。

サッカー以外のスポーツに於ける大きな業績では、西ドイツスポーツユーゲント(ドイツスポーツ少年団)を習い、石井光次郎や竹田恒徳らと東京オリンピック二年前の1962年、スポーツ少年団を創設し、その立ち上げと発展に大きな尽力があった。その施設造りの課程で補助金を日本船舶振興会・笹川良一に依頼。B&G財団は、これをきっかけに設立された。

野津は医師(小児科医)としても、日本に於ける公衆衛生、予防衛生面での先駆者、また保健所活動の産みの親ともいわれ大きな業績を残している。国際学校保健協会副会長、日本良導絡自律神経学会会長などを務め、東京オリンピックでの体操選手などに良導絡治療を導入した。その他色盲研究などでも知られる。尚、野津在任中の日本サッカー協会は名ばかりで、慢性的にお金が無く、野津の医師としての信用でお金を借りる事がしばしばあったという。

1964年、藍綬褒章。1969年、勲三等瑞宝章。1970年、英国ナイト勲章などを受けた。






Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
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