サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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長沼 健(ながぬま けん、1930年9月5日 - )は、広島県広島市中区袋町出身の元サッカー選手・日本代表選手、元日本代表監督。1994年より日本サッカー協会会長を4年勤め、現在は同協会最高顧問のほか、日本フットサル連盟名誉会長、日本ハンディキャップサッカー連盟会長、日本体育協会副会長、埼玉スタジアム2002場長を務める。


■長沼 健の経歴

W杯の第1回大会が開催された1930年の生まれ。実家は広島の老舗電気工事業・長沼電業社。父親、実兄もサッカー選手で小学校時から自然にサッカーを始めた。1945年、15歳中学3年生の夏、原爆投下の日には、広島市内中心部にあった学校での防空当番が前夜にあり、当日前6時までいて、その後8キロ西北の疎開先、現在広島ビッグアーチがある付近・沼田(現・安佐南区沼田)まで自転車で帰る途中、家に着く直前被爆した。30分帰りが遅かったら直下だった。1週間後市内に入り地獄絵を見る。多くの知人・級友を亡くし、自らも白血球過多が現在も続き被爆者手帳を持つ。

終戦後、焼け野原となった町でグラウンドの整地、食糧調達、器材の作製などを自分達で行い、1個だけのボールを縫いながらサッカーに打ち込みボールを追った。戦争で中断されていた全国中等学校選手権(現全国高等学校サッカー選手権大会)が1947年に復活。長沼は広島高等師範附属中学(現広島大学附属高校)のエースFWとしてチームを優勝に導いた。チームは相手の虚を突くパスワークに抜群の冴えを見せ、ボールを両足で自由に蹴れるのはこのチームだけだったと言われている。特にFWの三人、のち“アジアの黒豹”と謳われた木村現、樽谷明、長沼の速攻は当時の中学生レベルでは止められなかった。4試合で21得点を叩き出し決勝戦7-1のスコアは、戦後最多得点、及び大会最多得点差記録として現在も残る。この大会の初戦で、のち長らく盟友となる東京都立五中学(現都立小石川高校)の岡野俊一郎と対戦している。翌・1948年国体でも優勝。

長沼らこの広大附属高校のメンバー8人が卒業後関西学院大学入りし、関学の黄金時代を築いた。1950年、このメンバーと鴇田正憲らOBを加えた全関学が1950年、全日本選手権大会(天皇杯の前身、翌1951年から天皇杯を争う大会となる)で慶應義塾大学を6-1で降して優勝した。鴇田・木村のサイドからのクロスが正確で、長沼らがゴール前に詰めると面白いように点が入った。関学卒業後はすぐに就職せず、家業の電気店をつぐために中央大学理工学部3年に編入し、4年次には主将を務めている。1953年、西ドイツドルトムントで開催された第3回国際学生週間(ユニバーシアードの前身)に初めて日本学生代表として岡野、平木隆三らと参加。約2ヶ月にわたってヨーロッパを転戦した。当時の蹴球協会には金はなく参加費用は自腹だった。この頃ドイツの街もまだ戦禍が生々しかったが、あちこちに見事な芝があった。日本には神戸と横浜の外国人クラブにしか芝のグラウンドは無かった。

1954年、日本が初めてワールドカップ予選に参加した第5回W杯スイス大会の日本代表(当時の名称は全日本)に選出されると、その初戦となった極東地区予選、3月7日雪の神宮競技場(現国立競技場)、対 韓国戦で記念すべきW杯予選における日本代表の第1号ゴールを決める。この頃日本サッカーの目標はオリンピックであり、長沼はワールドカップとは何かよく分からずやっていたと言う。この頃はまだそういう時代だった。

1955年、実家と付き合いがあった当時関東実業団リーグ2部に転落していた古河電工(現ジェフ市原)へ入団。会社からチーム強化を一任された。古河は他の企業よりもスポーツに関して理解が深かった。しかしこの頃社会人スポーツはまだ熱気がなく「スポーツは学生まで」という考えが日本では主流だった。社業が第一、毎日5時まで仕事をして練習となるが、自前のグラウンドはなく、ボールは蹴らず皇居の周りを何周も走るだけ。二重橋前の手入れの行き届いた芝生公園を見ながら「あそこで蹴れたら気持ちがいいだろうな」と思いながら走った。ボールを蹴るのは週末のみ、毎回違う郊外のグラウンドを借りてボールを蹴った。ここでもエースフォワードとして活躍し1956年、メルボルンオリンピック日本代表に選ばれたものの、下痢を発症し隔離病棟で静養中チームは1試合で敗退した。1958年東京アジア大会日本代表。1959年、28歳の若さで古河電工のプレイングマネージャーとなり翌1960年、古河電工を実業団チームとして初めて日本一に導く(天皇杯)。それまでの学生サッカーの時代から、社会人サッカーの時代の始まりだった。更に翌1961年は史上初の3冠(全日本(天皇杯)、実業団、都市対抗)を達成しこの年新設された、第一回"日本年間最優秀選手/フットボーラー・オブ・ザ・イヤー"を受賞した。人柄の良さから長沼のまわりには自然と人が集まってきたといわれ、長沼が関学、中大、古河電工と移るとともに日本サッカー界の勢力地図が塗り替えられていき、古河を強豪にしたことによって八重樫茂生、宮本征勝、川淵三郎、木之本興三、清雲栄純、岡田武史らのちの重要人物が古河入りすることになった。彼らは「長沼一家」と呼ばれた。

この頃古河の監督兼選手だった長沼は、日本代表入りを辞退し続けたといわれ、代表出場試合数は多くはない。1960年に来日したデットマール・クラマーが長沼の指導者としての能力に目を付け、強引に代表試合に出場させたといわれている(1961年11月28日、対・ユーゴスラビア代表)。1962年、この頃サッカーはまったく人気が無く日本代表(当時の名称は全日本)の監督といえば、ある程度の年配者が当たり前だったが、同郷で当時日本サッカー協会会長だった野津謙が、大英断を下し、まだ現役選手だった33歳で日本代表監督(コーチ・岡野俊一郎(32歳))に抜擢される。これは日本サッカー近代化のスタートだった。この後もクラマーの技術指導を請け、日本代表監督として1964年東京オリンピックの対・アルゼンチン戦での勝利は日本に空前のサッカーブームを起こし、1968年メキシコオリンピックでも銅メダル獲得の偉業を達成した。

またクラマーの提案を受け1965年から発足した日本リーグ(JSL)の創設にも平木や西村章一らと尽力。長沼はこの時もまだ現役選手だった。アマスポーツの全国リーグは初めてのケースで、他の競技団体からも大きな注目を浴びた。アイスホッケー、バスケットボール、バレーボールの全国リーグが翌年から追随した。JSL創成期の苦労は、現在とは比べ物にならない程過酷なもので、広島などへの遠隔地への試合では「われわれには夜行列車があります」と社業に差し支えると渋る会社と交渉。週末に移動し日曜に試合をこなし、夜行で帰り月曜の朝、東京駅に着くとそのまま丸の内の会社に出社し仕事をした。部員には「絶対に寝るな」と釘を刺したという。

1966年、日本代表を連れヨーロッパ遠征中、せっかくだから選手にワールドカップを見せてやろうとドーバーのインド人が経営する安宿に泊まり、ワールドカップイングランド大会を自身も初観戦。1970年、野津のお供でワールドカップメキシコ大会を視察。この時はロイヤルボックスで観戦し、当時の国際サッカー連盟(FIFA)会長・スタンリー・ラウスからワールドカップ日本招致の話を初めて聞く。1972年日本蹴球協会技術委員長、1974年同理事となり協会の法人化(財団法人日本サッカー協会に名称変更)にも奔走。代表監督は1976年まで歴代最長の11年間指揮を執った。この頃の代表監督は無報酬だった。監督を退任したこの年、医者と二足のワラジの野津謙では将来が望めないと、平井富三郎(元新日本製鐵社長)らとクーデターを起こし、恩人でもある野津をサッカー協会から追い出した。野津は人望があっただけにこの時も強い批判を浴びた。この年専務理事となり実質的に日本サッカーのリーダーとなる。古河の経理部門にいた小倉純二を協会の財務委員に抜擢。当時のサッカー協会は慢性的に金が無く自転車操業だったが1977年、電通から持ち込まれたペレの引退試合を国立競技場で開催。観衆6万5千人を集め7千万円の純益を出した。協会が手掛けた初めての大きな興行で、前年の日本サッカー後援会の設立と合わせ以降、日本サッカー協会は赤字体質から脱却した。Jリーグ発足直前には40億円の金があったといわれている。同年、全日本少年サッカー大会をスタートさせ、また全国高等学校サッカー選手権を国立競技場での決勝など首都圏開催へ移す。1978年ヨーロッパのクラブを習い、FIFAに先じて個人登録制度導入。この制度や日本体育協会にこれも先じて始めたコーチングスクール開催、のちのトレーニングセンター建設などでユース世代の指導がスムーズに行われるようになった。インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)日本開催実現にも奔走。1983年木之本のJSL事務局長抜擢に尽力。

1987年サッカー協会副会長就任。同年、エリザベス女王が名誉総裁を務める英国サッカー協会に倣い、高円宮憲仁親王を名誉総裁に迎える。1989年、FIFAに2002年ワールドカップ開催の意思を伝える。森健兒、石井義信、木之本興三らと、のち川淵が中心となって進めたプロ化推進では、難色を示す長老が多くこのままでは頓挫してしまうと判断、長沼は協会内にプロ化検討委員会の設置を提案し自ら委員長に就任、プロ化反対派に対する防波堤となり川淵らを強力にバックアップしJリーグを実現させた。トヨタカップで付き合いのあった豊田章一郎に熱弁を振るい、名古屋グランパスエイトから企業名を外させた事も極めて大きな意味があった。古河での出世のチャンスを拒み、長らくサッカー協会会長職も固辞したといわれ、日本のサッカー界にこの人が尽くした功績は計り知れず。関係者が皆「健さんの頼みは断れない」と口を揃える磊落型の親分肌で知られ1994年、64歳でようやく会長に就任。日本代表監督経験者としては初の会長就任となった。ハンス・オフト、ファルカンの招聘、そして1998年フランスW杯予選途中での加茂周監督更迭、岡田武史コーチの昇格を英断しジョホールバルの歓喜・日本サッカー悲願のW杯初出場をもたらした。また2002年日韓W杯開催には、世界30ヶ国、延べ75万キロ、地球19周を飛び回って尽力するなど、日本サッカーの歴史を変える局面に立ち会って来た。長沼の歴史はあまりにも長すぎた日本サッカーの苦悩と葛藤のクロニクルそのものである。

1998年にサッカー協会会長職を岡野に譲って同協会名誉会長となり、日韓W杯終了後に最高顧問となった。

1997年、南米サッカー連盟大勲位特別頚章。2004年、旭日中綬章。2005年、第1回日本サッカー殿堂入り。

現在も日本体育協会副会長、日本スポーツ少年団本部長、日本フットサル連盟会長、埼玉スタジアム2002の場長などを務めている。

フランスW杯予選前に、川淵に任命された加藤久強化委員長が、加茂監督の更迭・後任ネルシーニョを決定したにも関わらず、W杯誘致運動から帰国すると"鶴の一声"で加茂続投を決めてしまった。「加茂でフランスに行けなかったら辞任する」としたものの、加茂更迭時に自らは会長職にとどまった。更にネルシーニョが"日本サッカー協会には腐ったミカンがいる"と長沼を非難、物議を醸しマスメディアを大いに賑わせた。また日本単独開催を目指していたW杯が、政治的駆け引きの結果韓国との共催となった事も当時極めて強い批判を受けた。これら一連の出来事により、1997年から1998年にかけ、長沼はとくに若年のジャーナリストと、彼らを支持するファンからの厳しい批判に晒され、競技場で大きなブーイングを浴びる事もあった。

しかし、長沼にまつわるこうした一連の事態がマスメディアの注目を集め、国民の大きな関心を呼び、また日韓W杯大会も結果的に大きな成功を収めたことで、一世紀近くも冬の時代だったサッカーが、現在ようやく人気スポーツとして根付きつつあることを考えれば、長沼のこれまで下してきた決断は正しかったと評価する声もある。旧態依然とした日本サッカー界の象徴のように言われて来たが、戦後の日本サッカーの常に中心にいて、実は改革者だった、と近年増えたサッカー関連書籍やインターネットなどで評価されているようである。もちろん日本サッカーが今日あるのも、長年に渡る不遇の時代から多くの先人達が築いてきた土台があった事を忘れてはならない。


■長沼 健の所属チーム

▽選手歴
1946年-1949年 - 広島高等師範学校付属高校
1949年-1953年 - 関西学院大学
1953年-1955年 - 中央大学理工学部
1955年-1966年 - 古河電工

▽指導者歴
1962年-1976年 - 日本代表監督(一部現役時代と重複)
1972年-1974年 - 日本サッカー協会技術委員長
1974年-1976年 - 日本サッカー協会理事
1976年-1987年 - 日本サッカー協会専務理事
1987年-1994年 - 同 副会長
1994年-1998年 - 同 会長
1998年-2002年 - 同 名誉会長
2002年-      - 同 最高顧問


■長沼 健の出場大会

▽アマチュア時代
1947年 全国中等学校選手権(優勝)
1948年 国民体育大会(優勝)
1950年 全日本選手権大会(優勝)
1953年 ユニバーシアード
1954年 ワールドカップ予選

▽実業団時代
1956年 メルボルンオリンピック
1960年 天皇杯(優勝)

▽代表監督時代
1964年 東京オリンピック
1968年 メキシコオリンピック(銅メダル獲得)


■長沼 健の個人タイトル

1961年 日本年間最優秀選手
1997年 南米サッカー連盟大勲位特別頚章
2004年 旭日中綬章
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り。






Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
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