サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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釜本 邦茂(かまもと くにしげ、1944年4月15日 - )は、京都府京都市右京区出身の元サッカー選手、元参議院議員。

現役時代のポジションはFW。日本人最高と言われた不世出のストライカー。1968年メキシコオリンピックでは 7 得点を挙げ、得点王に輝くと共に、日本代表の銅メダル獲得に大きく貢献した。1985年に引退した。その後、関西テレビのワイドショー番組シュートinサタデーのキャスターを経て、1991年に松下電器/ガンバ大阪の監督に就任。1995年から2001年まで参議院議員を 1 期務め、労働政務次官を務めた。現在は日本サッカー協会副会長。2005年第 1 回日本サッカー殿堂入り。2006年9月より京都文教大学客員教授(文化実践論)。


■釜本 邦茂のプレイスタイル

いわゆる典型的なセンターフォワード。右足から繰り出されるシュートは非常に強力で、そのレベルは恩師のクラマー曰く世界最高クラスであった。特に右45度からのシュートは正確無比。また、左足からのシュートも右足ほどではないが正確であり、跳躍力を活かしたヘディングシュートも美しかった(後に釜本は、自らのシュートについて「5割は右足。左足が3割で、頭が2割」と語っている)。すなわちどんな形からでもゴールを奪えたのである。三浦知良と並びその実績から、日本最高のエースストライカーだという声も多い。また、その日本人離れした圧倒的な得点能力は今でも、アジアの枠を超えて、世界レベルで見ても稀代のストライカーだという声も多い。彼のシュートを受けそこなった相手ゴールキーパーの指の間が裂けたというエピソードもあるほど、スピードのあるシュートを放った。メキシコシティオリンピックではその強烈なパワーで「サムライバズーカ」の異名をとった。

日本サッカー発展のため国内でプレーすることを選択したが、欧州クラブのスカウトがこぞって彼を獲得しようとしていた。

プレイスタイルとは言えないが「自分が活躍しない勝った試合よりも、自分が活躍して負けた試合の方が自分にとっては重要」と言い切るなど、フォワード向きの性格をしていた。


■釜本 邦茂の所属チーム

京都市立太秦小学校
京都市立蜂ヶ岡中学校
京都府立山城高等学校 1960-1963
早稲田大学 1963-1967
ヤンマーディーゼル 1967-1985(現・セレッソ大阪)

▽学生時代
京都市立太秦小学校でサッカーを始める。市立蜂ヶ岡中学校3年の時、主将として京阪神三都市大会に出場、同大会にて優勝を果たす。

1960年府立山城高校に入学、10月の熊本国体にて優勝。

1962年1月には全国高校サッカー選手権にて準優勝に輝く。この頃FIFAコーチ、デッドマール・クラマーに会い、薫陶を受ける。同年4月には日本ユース代表に選ばれ、第4回アジアユース大会に出場。

1963年に早稲田大学第二商学部入学。関東大学リーグで優勝を果たし、11得点で得点王。この年を含め4年連続得点王。日本ユース代表主将として第5回アジアユース選手権にも出場。

1964年1月、日立製作所(現・柏レイソル)を破り天皇杯優勝。3月、19歳にして日本代表入りし、東京オリンピック出場。1得点。

1966年12月、第5回アジア大会に出場し、3位獲得。

1967年1月、天皇杯で東洋工業(現・サンフレッチェ広島)を破り優勝。(以後、天皇杯での大学チームの優勝はない)


▽日本リーグ
1967年4月、ヤンマーディーゼルに入社。日本リーグ初得点はデビュー戦の対豊田自動織機戦の2得点。6月、外国プロチーム(ブラジル・パルメイラス)に初勝利。決勝ゴールをあげる。

1968年1月、西ドイツへサッカー留学、2カ月後、メキシコオリンピック代表チームに合流。10月、メキシコ五輪3位決定戦で地元メキシコを2-0で破り銅メダル。7得点で同五輪の得点王に。

1969年1月天皇杯で三菱(現・浦和レッズ)を破り、ヤンマー初優勝。決勝ゴールをあげる。6月日本代表合宿中に倒れ、ウイルス性肝炎で入院。50日後の8月5日退院。以後、4年間は試合と通院の生活。W杯予選は欠場。

1970年3月、日本代表に復帰。12月、第6回アジア大会で4位。

1971年、日本リーグで初優勝。

1972年7月、ムルデカ大会で15得点、得点王に。日本は3位。

1973年5月、西ドイツW杯予選に出場。

1976年3月、モントリオールオリンピック予選敗退。8月、ムルデカ大会で日本2位。

1977年3月、W杯予選で日本敗退。9月、ニューヨーク・コスモス戦を最後に日本代表を引退。

1978年2月、ヤンマー監督(兼選手)に就任。

1980年12月には世界選抜の選手として、ユニセフ慈善サッカー大会(スペイン)に出場。

1982年5月20日対マツダ(旧・東洋工業)戦で右足首アキレス腱断裂。8月11日、練習中に同じ個所を切る。

1983年11月3日、日本リーグ対読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)戦に1年6ヶ月ぶりに出場。(交代出場、無得点)

1984年2月13日、引退を発表。8月25日、国立霞ヶ丘陸上競技場で引退試合。(ヤンマー対日本リーグ選抜、観衆60,000人、ペレ・オベラートも出場)

2005年4月、日本サッカー協会選定の第1回サッカー殿堂掲額者として選定される。

▽通算成績
日本リーグ通算251試合出場202得点。得点王7回。
日本リーグ優勝:3回(1971、1975、1980)
天皇杯優勝:2回(1969、1975)

▽節目のゴール
1974年10月、対三菱戦で、リーグ通算100得点を達成。
1978年1月、対三菱戦でリーグ通算150得点を記録。
1980年9月7日、対ヤマハ(現・ジュビロ磐田)戦でハットトリックを達成。
1981年11月1日、本田技研戦で2得点。リーグ通算201得点目。(238試合)
1982年5月15日、日立戦で202得点目をあげる。


■釜本 邦茂の代表歴

▽出場大会
東京オリンピック(ベスト8)
アジア競技大会(1966,1970,1974,1978)
メキシコシティオリンピック(銅メダル)
ミュンヘンオリンピック予選
ワールドカップ西ドイツ大会予選
モントリオールオリンピック予選
ワールドカップアルゼンチン大会予選


■釜本 邦茂の指導者として

ヤンマーディーゼル監督 1978-1984
ガンバ大阪監督 1991-1994
1978年2月、ヤンマー監督に就任。選手兼任として活動し、引退後の1年間は監督に専念。

1985年2月、ヤンマー監督を辞任。

ヤンマー退団後はサッカー教室を運営し、大阪を中心に少年サッカーの指導に携わった。

1991年、Jリーグの発足と共に設立されたガンバ大阪(当時はパナソニックガンバ大阪)の監督に就任。

1994年、Jリーグのシーズン終了と同時に、監督としての契約を更新せず、ガンバ大阪を退団する(契約上の退任時期は1995年1月)。 監督としてのJリーグ成績は、2シーズンで80試合、31勝49敗。最高位は1993年ニコスステージ(2ndステージ)の6位(10チーム中)。

1996年、日本サッカー協会理事に就任。

1998年7月、日本サッカー協会副会長に就任。

1999年7月、同協会の2002年強化推進本部長に就任。日本代表のフィリップ・トルシエ監督を評価する立場となり、両者の対立や釜本によるトルシエ解任の意向などがしばしば報道される。

2000年7月、労働政務次官就任を理由として2002年強化推進本部長を辞任。その後、参議院選挙での落選後に日本サッカー協会副会長を辞任。

2004年7月、日本サッカー協会副会長に復帰。


■釜本 邦茂の政治家として

1995年7月23日、第17回参議院議員通常選挙で自由民主党から比例区で出馬し当選。 当選後は院内の厚生労働委員会に所属し、日本サッカー協会副会長を兼務しながら、2002年W杯の開催準備などに尽力。党内派閥としては清和政策研究会(会長三塚博~森喜朗~小泉純一郎)に所属する。

1998年、日本道路公団の関連会社で、高速道路用プリペイドカード「ハイウェイカード」販売に関する特別背任事件が発覚。一連の不正販売に釜本の妻が経営する会社の関与が明らかになる。

2000年7月4日、第2次森内閣の労働政務次官に任命される。

2000年12月6日、内閣改造に伴い労働政務次官を辞任する。

2001年7月29日、第19回参議院議員通常選挙で自由民主党から比例区で出馬し落選。







Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
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