サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ベルリンの奇跡( -きせき)は、1936年のベルリンオリンピックのサッカー競技において、日本代表がスウェーデン代表を破った試合を指す日本国内での表現である。


■「ベルリンの奇跡」の試合経過

1936年8月4日、ベルリンのヘルタープラッツ・スタジアムにおいて、サッカー競技の1回戦として日本対スウェーデンの試合が開催された。

当時のスウェーデンはドイツ・イタリアと並ぶ優勝候補であった。これに対して、日本はオリンピックのサッカー競技には初参加であり、体格の面でも明らかに劣っていた。このため、下馬評ではスウェーデンが圧倒的有利とされた。

試合は前半にスウェーデンが2点を挙げ、優勢に試合を進めた。しかし後半に入るとスウェーデンが油断したことに加え、ショートパスを中心とする日本の戦術が機能しはじめた。後半4分に「シュートの名人」と呼ばれたセンターフォワード・川本泰三がゴールし反撃の口火を切ると、後半17分に右インサイドでゲームメイクを担ったオールラウンダー・右近徳太郎がゴールを挙げ、同点に追いついた。その後も日本の勢いは止まらず、後半40分に俊足右ウイング・松永行のゴールによって、ついに逆転した。終盤スウェーデンの猛攻に遭うもこれを耐えしのぎ、3対2のスコアで試合終了となった。

スウェーデンのラジオ放送の実況アナウンサー・Sven Jerringが「Japaner, Japaner, Japaner(日本人、日本人、また日本人)」と連呼したこの試合は、スウェーデンのスポーツ分野においても歴史的出来事のひとつとして記憶されている。


■「ベルリンの奇跡」の日本代表チーム

◇出場選手

▽ゴールキーパー(GK)
佐野理平(早稲田大学)

▽フルバック(FB)
堀江忠男(早稲田大学)
種田孝一(登録上はHB、東京帝国大学)
竹内悌三(東京帝国大学OB)

▽ハーフバック(HB)
立原元夫(早稲田大学)
金容植(普成専門学校)

▽フォワード(FW)
松永行(東京高等師範学校)
右近徳太郎(慶應義塾大学)
川本泰三(早稲田大学)
加茂健(兄、早稲田大学)
加茂正五(弟、早稲田大学)

◇控え選手
不破整(GK、第一早稲田大学高等学院)
鈴木保男(FB、早稲田大学)
笹野積次(HB、早稲田大学)
西邑昌一(FW、早稲田大学)
高橋豊二(FW、東京帝国大学)

◇スタッフ

▽監督
鈴木重義

▽コーチ
工藤孝一
竹腰重丸

▽マネージャー
小野卓爾


■「ベルリンの奇跡」の背景

◇選手選考について
ベルリンオリンピックの日本代表チームは、早稲田大学出身者を主軸に、ほぼ関東の大学出身者で占められた。これは当時の強豪校が主に関東に集中していたことに加え、関西の間で戦術に大きな違いがあったためとも言われている。

また当時は朝鮮半島が日本の植民地下にあったが、当地のサッカー水準は総じて日本より高く、個人の実力重視で選考した場合は朝鮮民族が多くを占めるものというのが朝鮮サッカー関係者の予想だった。しかし実際には、朝鮮民族選手は2名が選抜されるにとどまった。これを民族差別として、2選手に対して代表を辞退するような圧力もあったと言われているが、この中で金容植はオリンピック出場を優先して、代表チームに残った。金容植は攻守にわたって活躍し、奇跡の一端を担うことになった。

◇戦術について
当時の日本代表は2-3-5の2バックシステムを採用していたが、当時のヨーロッパでは3人のフルバックと2人のハーフバックがM字を描き、5人のフォワードがW字を描く、いわゆる「WMシステム」が採用されつつあった。現地での練習試合で、初めて対戦したWMシステムのチームに敗れたことから、監督の鈴木重義、コーチの竹腰重丸らは大会前に急遽WMシステムを導入して、スウェーデン戦に臨んだ。


■「ベルリンの奇跡」のその後の日本代表

スウェーデン戦の2日後に行われた準々決勝でイタリアと対戦するが、疲労の蓄積が響き 0 - 8 と大敗した。その後2試合の親善試合を行ったがいずれも敗れており、遠征中勝利したのは唯一このスウェーデン戦のみであった。

オリンピック後間もなく始まった第二次世界大戦では、多くの日本代表選手も兵役に駆り出され、戦火に倒れる選手もいた。同点ゴールを決めたFW右近徳太郎はブーゲンビル島で、逆転ゴールを決めたFW松永行はガダルカナル島でそれぞれ戦死。FB竹内悌三はシベリア抑留中に死去。またスウェーデン戦は控えメンバーだったFW高橋豊二は、1940年に海軍航空学校で訓練中に殉死している。

日本の1点目を挙げたFW川本泰三もシベリア抑留を余儀なくされたが、帰国後選手として復帰し、引退後は指導者の道へ。釜本邦茂ら後進の選手たちに影響を与えたほか、晩年は日本サッカー協会理事などを務めるなどサッカー界に携わり続けた。FB堀江忠男は帰国後新聞記者を経て、経済学者として母校・早稲田大学で教鞭を振るうと同時に、同大サッカー部で監督を務めた。HB金容植は戦後母国に戻り、韓国代表選手として1952年までプレー。引退後は指導者として国内チームの監督を歴任、「韓国サッカーの父」と呼ばれるまでになった。




Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://soccerbible.blog93.fc2.com/tb.php/335-1888ad60
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。