サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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ティエリ・ダニエル・アンリ(Thierry Daniel Henry , 1977年8月17日 - )は、フランス・パリ出身で、同国代表、アーセナルFC所属のサッカー選手。ポジションはFW。愛称は「ティティ」。

同じフランス代表・アーセナルのチームメイトであるウィリアム・ギャラスと生年月日が同じ。


■ティエリ・アンリのプレイスタイル

現役世界最高のフォワードと称される選手の一人。ドリブル、パス、シュートに加え、フリーキックも得意な万能ストライカーである。

特筆すべきは、一瞬にしてDFを置き去りにする瞬発力と長いリーチを生かした突破力、瞬時に最良のプレーを選択する判断力と創造力にある。若い頃はウイングとして起用されていたが、アーセナルFCへ移籍後、アーセン・ベンゲル監督にセンターフォワードにコンバートされてその才能が開花した。利き足の右足でのキックに自信を持っており(彼のキックのほとんどは右足インサイドである)、それを最大限に生かすため一度サイド(特に左サイド)に開いてから中央に切り込むプレーを得意とし、ゴール前で決定的なパスを出す能力も非凡。FKの時、1歩程度しか助走をつけないのが特徴である。

レ・ユリス(パリ郊外)出身であるが、西インド諸島のマルティニーク島をルーツに持つ。伯父が400mハードルのフランス王者であり、アスリートの系譜を受け継いでいるようだ。


■ティエリ・アンリの所属チーム

1994年-1998年 - ASモナコ(フランス)
1999年 - ユヴェントス(イタリア)
1999年8月 - アーセナル(イングランド)


■ティエリ・アンリの経歴

◇クラブチームでの実績

12歳から15歳頃まで、フランスサッカー学院(INF/クレールフォンテーヌ)でセンターフォワードとしてプレー。14歳の時に既にASモナコのスカウトの間では噂となっていたという。15歳でフランスU-15にも選出。パレソーなどで短期間プレーし、ASモナコのスカウトが視察した試合で7得点を挙げ実力をアピール。16歳の時、父アントワーヌが仮契約書にサインし遂に入団する。余談だが、アントワーヌはティエリの試合から仕事に遅れ失業した。

下部組織で得点を量産していたのを当時トップチームの指揮官であったアーセン・ベンゲルが注目。94-95シーズンにトップチームに昇格し、ウイングとして1994年8月31日に対ニース戦でトップリーグ(リーグ・アン)デビュー。このシーズンは8試合3得点。その後は着実な成長を遂げ、96-97シーズンには36試合9得点、UEFAカップで1得点を記録し徐々に頭角を表していった。

98-99シーズン半ばにユヴェントスに移籍したが、水が合わず、加えて不慣れな左ウイングバック起用されたため、わずか3得点に留まる。1999年8月、ベンゲルが監督を務めるアーセナルFCに移籍(ニコラ・アネルカをレアル・マドリードに約45億円で放出したバックグラウンドがある。アンリの移籍金はアネルカの約半分)。ニュータイプのフォワードの構想をしていたベンゲルが彼をウイングからセンターフォワードにコンバート。初年度こそ戸惑いを見せていたものの(最初のシュートは金網にたたき込んだ)、点を取る喜びを知り、アンリの才能が開花された。

圧倒的なスピードと美麗な足技に磨きをかけゴールを量産。常にリーグのトップスコアラーに君臨し続ける、名実ともに世界最強のストライカーとなった。ゴールに対して拘りを持ち、オウンゴールや不本意な形での味方の得点には喜びの表情を見せない。「何だって決まればいい、って考え方は好きじゃないんだ」(本人談)。


◇フランス代表としての実績

1996年の欧州U-19選手権、決勝の対スペイン戦にて決勝弾を挙げる活躍を見せて優勝に貢献。翌97年はワールドユースマレーシア大会に出場。のちにフル代表でも共に戦うニコラ・アネルカ、ダビド・トレゼゲらと「驚異の3トップ」を形成。アンリのプレースタイルといえば、このときはタッチライン際を徘徊し、切り込んでいくだけの単調なプレーに終わり、ここではむしろ評価はトレゼゲが上回った結果となった 1997年10月11日、対南アフリカ戦にてフル代表デビューを果たす。98年W杯には開催直前でトレゼゲと共に代表入りし、エースストライカー不在と言われた中で決勝のブラジル戦以外のすべての試合に出場、通算3得点を挙げ優勝に貢献した。その2年後のEURO2000でも3得点を挙げ、前人未到の「スーパー・ダブル」の立役者となった。

2002年の日韓W杯では、レギュラーシーズン終了直後ということもありコンディション不良で本来の力は影を潜めた。コンディション不良というよりはむしろ、自身が怪我気味だったのにも関わらず強行出場を繰り返した為、怪我が完治しないまま大会を迎えてしまうこととなり、グループリーグ2戦目となったウルグアイ戦ではスパイクを相手に向けてスライディングしたという警告だけで済みそうなのが不可解なレッドカードで退場となってしまい、そのまま3戦目のデンマーク戦にも出場できずに早々とフランスは姿を消した。その翌年、自国開催となったFIFAコンフェデレーションズカップでは一応の2大会連続優勝。この大会ではジブリル・シセと2トップを組むことが多かったが、控え組と交代だったため全試合は出場していない。日本戦は途中出場にとどまった。

2004年6月にポルトガルで行われたEURO2004では再び苦戦。初戦イングランド戦、2戦目クロアチア戦は辛勝、3戦目で自身はようやく大会初ゴール。なんとかグループリーグ1位で突破するが、決勝トーナメント一回戦にてアンゲロス・カリスアテスの一発により後々優勝国となったギリシャに敗退。フランスは2大会連続欧州王者とはならなかった。

2006年のドイツ大会では、グループリーグで2得点、トーナメントでは1得点、計3得点を挙げてチームの準優勝に貢献した。ちなみに決勝トーナメント準々決勝のブラジル戦で決めたゴールはジダンのアシストによるもので、ジダンのアシストでアンリがゴールを決めたのは1997年のフル代表デビュー以来初めてだった。

フランス代表ではもう1人のエースストライカーのダビド・トレゼゲがおり、世界屈指のストライカー同士のアンリとトレゼゲの2トップは常に大きな期待をかけられていた。しかしこの2トップは大きな大会で期待を裏切り続け、EURO2004を最後に組まれることが少なくなった。(2003年11月に行われたドイツとの試合ではジダンとのコンビネーションを含め素晴らしい結果残してので非常に悔やまれる結果である。) 万能型のアンリとペナルティーエリア内でどっしり構えて勝負する典型的なセンターフォワードのトレゼゲの2トップは、プレータイプとしては相性が非常に良好と思われたのだが、現実には非常に相性が悪かった。これは、トレゼゲのプレーエリアがほぼペナルティエリア内に限定されているのに対して、アンリは左サイドからペナルティエリアまで幅広く動くタイプで、さらには同じ左サイドの後方にジダンという絶対的なプレーヤーがいたため(チームとしてジダンに自由にプレーすることを認めていた。)、ジダンとトレゼゲの間に挟まれ必然的にアンリがプレーできる幅が狭くなってしまったことと、トレゼゲはポジションチェンジなどをすることがあまりないため、幅広く動き回って良い形でボールを受けることを引き出すタイプのアンリにとっては非常にやりづらかったことが原因である。 以後、代表戦では2トップを組むことが少なくなり、アンリの1トップがフランス代表では定着しつつあった。(1トップはジダンの守備の負担を軽減する苦肉の策でもあった)アンリとの2トップを組むのが多いのはルイ・サハである。ジダン引退後は彼との1トップを組むことが多くなるだろう。しばしば召集されるニコラ・アネルカとも組むこともあり、彼との相性が一番良いとも言われている。


■ティエリ・アンリのタイトル

1998年 ワールドカップ優勝
2000年 欧州選手権優勝
2002年・2004年・2005年・2006年 FAプレミアリーグ得点王


■ティエリ・アンリのトリビア

▽彼の趣味の一つはバスケットボールで、NBAの熱狂的なファンでもある。
▽ルノーのテレビCMにも出演していた。
▽ナイキ社と共同で行っている反人種差別キャンペーン「STAND UP SPEAK UP」の発起人でもある。
▽ナイキ社とはユベントス時代の1999年シーズンから契約を交わしていたようだが、2006年ワールドカップ終了後にリーボックに変更した。
▽ウィニングイレブンの熱狂的プレイヤーで、バカンス期でさえ、ずっとプレイしていることもあるという。




Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
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