サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ルート・フリット(Ridi Dil "Ruud" Gullit、1962年9月1日 - )はオランダ・アムステルダム出身の元同国代表サッカー選手で、現役時代はオランダやイタリアのクラブでプレー。引退後はイングランドやオランダのクラブで指揮を執った。セリエA90年代最強のチーム「グランデミラン」の中核「オランダトリオ」の一人。


■ルート・フリットのプレースタイル

フリットは歴代のスタープレーヤーの、良い所だけを持った素晴らしいサッカー選手だった。フリットをサッカーの革命児と呼ぶ人は多い。ストライカーからリベロまで、ありとあらゆるポジションを見事にこなしてみせた。彼に近いプレーヤーといえば、フィリップ・コクーかパベル・ネドベドくらいのものである。

サッカーの革命児のプレーは、今見ても新鮮で、美しい。ピッチに映える一輪のチューリップ。その姿はオランダの象徴だった。


■ルート・フリットの呼称・表記について

オランダ語のGuの発音は日本語にはないものであり、強いてカタカナ表記すれば「フ」に近いことから、キャリア中期(ACミラン在籍時)まで日本では「フリット」と書かれた。しかし、現実の発音とはかけ離れたものであり、また「フリッター」のようであまり印象も良くないことから、本人はサッカー誌のインタビューで(イタリア語、英語などでの読みに準じる)「グーリット」とするように希望した。 なお、本稿では認知度の高い「フリット」を使用する。


■ルート・フリットのプロフィール

現役時代は一目見たら絶対に忘れない「ドレッドロックヘア」がトレードマーク(現在は短髪である)で、日本でもサッカーファンの中では広く認知されていた。また、オランダではレゲエミュージシャンとしての顔も持っている。スリナム人の父とオランダ人の母の混血児であり、黒人差別に反対の立場を取り続けている。

愛称はオランダ出身、独特の髪型などを小説の題名になぞらえた「黒いチューリップ」。


■ルート・フリットの現役時代

1979年、HFCハールレムでデビューを飾り、高い技術力を見せる。その活躍が認められ、1981年9月1日のスイス戦で代表デビューを飾る。1982年にはフェイエノールトへ移籍し、ヨハン・クライフとともにリーグ優勝に貢献する。

その後、PSVアイントホーフェンを経て、1987年に当時の史上最高額の移籍金でセリエA・ACミランへ移籍。マルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」としてACミランの黄金期を支え、数々のタイトルをもたらし自身もこの年バロンドールを受賞した。また、オランダ代表としてもEURO1988では優勝に貢献。この時代はまさにフリットの全盛期であった。しかし、1989-1990シーズンに膝を故障してしまう。この故障は引退時まで大きく引きずることになる。

1990年のイタリアW杯に出場した。欧州王者のとして優勝候補の一角にあげられていたが、フリット自身は膝の故障を抱えており、満足なプレーをすることができず、チームもベスト16で敗退した。

もともとシステムを重視するアリゴ・サッキ、ファビオ・カペッロの下で自由なプレーができず戦術が合わないことから、1993年、サンプドリアにレンタル移籍する。そこで、リベロのポジションを与えられ、自由奔放な本来のスタイルが復活し、サンプドリアは93-94シーズンをリーグ3位、コッパ・イタリア優勝と大躍進を遂げ、その立役者となる。特に古巣ACミラン戦においては全盛期に勝るとも劣らないパフォーマンスを見せる。

しかし、1994年のアメリカW杯はディック・アドフォカート監督との折り合いが悪く、クライフの代表監督就任もなくなったため、出場を辞退している。

1994-1995シーズン前にACミランに復帰するが、ポジションは再び束縛され不振に陥ったため、シーズン途中にサンプドリアに再び移籍したが、前年ような輝きを見せることはできなかった。


■ルート・フリットの指導者として

1995年、チェルシーへ移籍した。1995-1996シーズンを率いていたホドル監督がイングランド代表監督に就任することからその後任として現役のまま監督に就任する。監督1年目となった1996-1997シーズンは、ジャンルカ・ビアリ、ジャンフランコ・ゾラ、ロベルト・ディマッテオなどのトップ選手を加入させ、リーグは6位ながらも27年ぶりにFAカップをチームにもたらした。また、外国人としては史上初のFAカップ優勝監督ともなった。この年を最後に現役を退き監督専任となった。

しかし、翌1997-1998シーズン、チームは好調であったにもかかわらず監督を解任される。その後任には同じく選手兼監督としてジャンルカ・ビアリが就任した。チェルシーに久々にタイトルをもたらした功績は大きいものの、補強に多大な資金を費やし、チーム財政を悪化させたことが後にロマン・アブラモヴィッチのチーム買収に繋がることになる。また、この時代にイタリア選手が多数プレミアシップリーグに移籍したのもチェルシーの補強がきっかけである。

1998-1999シーズン開幕直後にニューカッスルの監督に就任するが、13位に低迷し、1年で辞任をする。この時のスローガン「セクシーフットボール」は監督としてのフリットの代名詞となる。

しばらく解説者をした後、2004-2005シーズン、フェイエノールトの監督に就任。小野伸二らの指導をしていたが、リーグ4位に低迷し、シーズン終了後に辞任した。


■ルート・フリットの選手経歴

1979年-1982年 - HFCハールレム(オランダ)
1982年-1985年 - フェイエノールト(オランダ)
1985年-1987年 - PSVアイントホーフェン(オランダ)
1987年-1993年 - ACミラン(イタリア)
1993年-1994年 - サンプドリア(イタリア)
1994年7月-12月 - ACミラン(イタリア)
1995年1月-6月 - サンプドリア(イタリア)
1995年-1997年 - チェルシー(イングランド)


■ルート・フリットの監督経歴

1996年-1998年途中 - チェルシー(イングランド)
1996年-1997年シーズンは選手兼任監督
1998年-1999年 - ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド)
2004年-2005年 - フェイエノールト(オランダ)


Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL

スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://soccerbible.blog93.fc2.com/tb.php/291-0306fe55
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。