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パウロ・ロベルト・ファルカン(Paulo Roberto Falcão、1953年10月16日 - )は、ブラジル出身の同国代表サッカー選手・サッカー日本代表元監督。

サッカーブラジル代表のMFとして活躍、特に全盛期はジーコ、トニーニョ・セレーゾ、ソクラテスとともに黄金のカルテットと称された。クラブチームではイタリアのASローマで長く活躍し、リーグ優勝に貢献した。「ローマの鷹=ファルカン」とも称された。

現役引退後、ハンス・オフトの後を継ぎサッカー日本代表監督を務めたが、成績不振のため、1年ともたず解任された。これにより、親日派のジーコとは対照的に日本嫌いになったと言われる。


■パウロ・ロベルト・ファルカンの監督評価

現役時代のファルカンは、ドトール(先生・博士)と称され事実整形外科医でもあるソクラテスに劣らず、その言動、振る舞いより理知的なサッカー選手として知られ、卓越した戦術眼により「走る指揮官」の異名をとった。そのことから現役引退後は、誰もが「名監督」になると信じて疑わなかった。

しかし、引退後のファルカンは、今日に至るまで「名監督」の評価を得ていない。それどころか「凡将」という評価が一般的であるとすら言ってよい。

しかし、ファルカンを「凡将」と単純に定義すべきかは疑問の余地がある。

1991年にセレソン・ブラジル代表監督に就任。カフーら若手選手を中心に代表招集し、コパアメリカに挑み、準優勝の成績を上げるが解任の憂き目に会う。この時、ファルカンが抜擢した選手の多くが、数年後、ブラジル代表の中心選手となっていくのだった。

「ドーハの悲劇」後、ハンス・オフトの後任として1994年、日本代表監督に就任する。この頃、日本サッカー協会には外国人指導者の情報・ルートはほとんど無かった。当時の強化委員長・川淵三郎もファルカンをよく知らないで起用した。テレ・サンターナには高額年俸を吹っ掛けられ、その他弱小国の日本に優秀な指導者が進んで来る筈もなく、名前だけでファルカンを起用した。世界から大きく遅れをとった当時の現状とも言えた。ファルカンは当然、4年後のフランスワールドカップまで指揮をしていくものと考え、オランダ2部エクセルシオールで実績を上げ帰国した小倉隆史はもちろんのこと、前園真聖、名塚善寛、岩本輝雄、山口敏弘ら、多くの若手選手を代表に抜擢する。

しかし、就任直後のキリン杯にフランス代表に惨敗、広島で行われたアジア大会準々決勝で韓国代表に敗れると日本サッカー協会に解任され「コミュニケーションに問題があった」として加茂周を新監督に任命する。

解任されたファルカンは、「アジア大会の結果で契約更新が決まるとは聞いていない。もしそうなら、若手でアジア大会に臨まない」と大いに不満を述べた。敗れた韓国戦は、およそホームとは思えない疑問が残る韓国優位のジャッジで、決勝点も不可解なジャッジでのPKであった。アジア大会に臨時代表スタッフに入ったセルジオ越後氏も、ファルカンの采配は妥当なものだったと弁護している。しかしながらその後もファルカンは、クラブチームの指揮をしているが目立った成績を残せていないのが実情である。


■パウロ・ロベルト・ファルカンの所属クラブ

インテルナシオナル(ブラジル)1963-80
ローマ(イタリア) 1980-85
ヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)1985-86
サンパウロ(ブラジル)1986-89
国際Aマッチ通算36試合9得点



Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
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