サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona, 1960年10月30日 - )はアルゼンチン出身のサッカー選手。身長166cm、体重の変動は激しく、現役時代は60kg台で、最も体重があった時で150kg台であったといわれる。

不世出の天才レフティー。サッカーの歴史上ペレとともに別格のプレーヤーとされる。現役時代は神の子、カーリーヘアの天才児とよばれた。なお日本での神の子という愛称は海外での愛称 "el pibe de oro (the golden boy)" の訳語だと思われるが、神の子をそのまま逆訳した "son of God" という語はキリスト教社会ではイエス・キリストのことを直接指し、ヨーロッパや南米でマラドーナの愛称として使われることはほとんどない。


■ディエゴ・マラドーナの略歴

8歳の時にアルヘンティノス・ジュニアーズに入団。1976年、15歳で対ジェレス・デ・コルドバ戦でトップチームの公式戦に初出場する。そのわずか4ヶ月後の1977年2月27日にはアルゼンチン代表に選ばれ対ハンガリー戦に出場した。しかし翌1978年の、母国アルゼンチンで開かれたワールドカップには年齢を理由に代表チームには選ばれなかった。その翌年に日本で開催された第2回ワールドユースでは、W杯不出場の鬱憤を晴らすような活躍でアルゼンチンを優勝に導く。

1981年にアルゼンチンの名門でありマラドーナ自身も熱狂的なサポーターであるボカ・ジュニアーズに移籍した。翌シーズンにはスペインのFCバルセロナ、1984年にはナポリに移籍する。ヨーロッパでもマラドーナのプレーは人々を魅了し、ナポリではサポーターから「ナポリの王」と呼ばれ愛された。彼が入団を決めた直後から、ナポリのシーズンシートが瞬く間に売れ、莫大な移籍金および給料を払ってもなお、数年後にこれまた超大物のカレカを獲得出来るほどナポリの財政は潤った。

また、アルゼンチン代表でも1986年メキシコワールドカップ、準々決勝イングランド戦において、『神の手』ゴール(ゴールする際に手でボールを叩いていた(反則)にもかかわらず審判がゴールを認めた)や『5人抜きドリブル』はサッカー史上に残るプレーとなり、チームも優勝したことから『マラドーナのための大会』と呼ばれた(後述)。

しかし、1990年イタリアワールドカップはマラドーナにとって不幸な大会となった。準決勝でアルゼンチンはイタリアとナポリで対戦、マラドーナの活躍で同点に追いつき、PK戦でアルゼンチンが勝利した。この試合の後マラドーナとナポリサポーターの関係は悪化し翌年セビージャに移籍した。

1994年アメリカワールドカップでは大会途中に薬物使用で大会を追放された。この件で一度日本への入国を拒否されていたため、2002年のワールドカップではアルゼンチン政府代表という肩書きで日本に入国した。

2003年、見る影もないほどの極度の肥満と薬物の影響か一時危篤状態となったが、一命を取り留めた。2004年には20歳のキューバ人女性との婚約を発表した。また胃の切除手術を行い、ダイエットにも成功している。

2006年、ドイツW杯では、アルゼンチン代表のサポーターとして、ユニフォームを頭上で振り回しながら娘と一緒に応援する姿が放送されている。ドイツW杯終了後、アルゼンチン代表の次期代表監督候補として名前が挙がっている。

現在経済危機に陥ったアルゼンチンでは、マラドーナを復活と再生のシンボルとして崇めている。


■ディエゴ・マラドーナのプレイスタイル

スピード、テクニックの全てが超一流。特にドリブルは、小柄ながら下半身のしっかりした地をはうようなフォームで、ボールを持っているときはどんなにつっかけられようとボールを持ち続けるなど、足に吸い付くという表現がふさわしい。なおマラドーナ自身は、体が小さいことから接触プレーでは不利なので、相手が届かない所にボールをコントロールしてドリブル突破していこうと考えて練習を積んできたことで、技術が身についたのだろうと語っている。

30メートルを3.9秒で走るスピードを生かした、強引ともいえるドリブルは相手チームにとって脅威となったため、相手DFがあからさまなファールでボールを奪おうとする事も多かった。90年W杯では、マラドーナを止めるためにボールでなく体めがけてのチャージを繰り返してきたカメルーンのようなチームもでるほどで、これがバックチャージの禁止などの一要因になった。

キックの精度も非常に高く、左足から繰り出すシュートはスピード、タイミング、コースともに絶妙なものだった。それでいて、1990年イタリアW杯、ブラジル戦でDFを四人引き連れてクラウディオ・カニージャに出したラストパスのように絶妙のアシストを出せる選手でもあった。

傑出したボールキープ力と得点能力を持っており、彼のプレーの出来が当時の(超一流チームだった)アルゼンチン代表やクラブの成績にも反映された。


■「神の手」ゴールと5人抜き

数々の名プレーを残しているマラドーナであるが、中でも「伝説の5人抜き」と「『神の手』ゴール」は最も有名である。1986年メキシコW杯6月22日、準々決勝イングランド戦の後半4分、イングランドDFがGKへバックパスを送った瞬間、マラドーナがペナルティーエリア内に走り込んだ。焦ったGKとマラドーナとの競り合いになったが、マラドーナはボールを素早く左手で叩き、ボールはそのままゴールインした。GKはマラドーナのハンドを主張したが、審判はマラドーナのゴールを認め、後にマラドーナがこのプレーを「あれは神の手と、マラドーナの頭から生まれたゴールだ」と発言した事から、「神の手ゴール」という呼称で巷間に知られるようになった。

さらに、それから僅か4分後、センターライン付近でボールを奪ったマラドーナは、そこから右サイド寄りに猛然とドリブルを始めた。次々とイングランド選手が躱されていき、そのまま驚異的なスピードでペナルティエリアに進入。そして5人目、GKのピーター・シルトンをも躱して、マラドーナはそのまま無人のゴールにボールを蹴り込んだ。このゴールは「伝説の5人抜き」(単に「5人抜き」とも)と呼ばれ、マラドーナのプレースタイルを象徴する物として知られている。

以上の2つのゴールは、「マラドーナの大会」と言われた'86年大会の象徴的なシーンとして、サッカーファンのみならず、サッカーを知らない人々にもマラドーナの名を知らしめる物となった。

なお86年メキシコW杯を評してイングランド記者が第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンの有名な「人民の人民による人民のための」という言葉にかけて「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」と評した。この言い回しは日本で広まり「マラドーナの大会」、「マラドーナのための大会」という言葉とともに日本でよく使われるようになったが海外ではそれほどよく使われる言い回しではない。


■ディエゴ・マラドーナのその他

▽実弟のウーゴ・エルナン・マラドーナは、PJMフューチャーズ(現サガン鳥栖)・Jリーグのアビスパ福岡・コンサドーレ札幌でもプレーしていた。

▽ナポリ時代に愛人との間にもうけた隠し子ディエゴ・マラドーナ・ジュニアも、イタリアU16に参加するなど活躍。

▽長女の名前は『ダルマ』と言い、試合を一緒に観戦する姿が良く見られる。

▽スパイク契約はずっとプーマであった。日本においても、彼の影響でプーマのスパイクを使用する選手が多かった。

▽ラモン・ディアスとは犬猿の仲といわれている。

▽ピーター・シルトンの引退試合に自分を呼んでくれなかったことを恨んでいるらしい。

▽2005年に放送された『10番の夜』というテレビ番組のMCとして活躍。同番組は最高視聴率34.9%を記録し常時視聴率が30%を超えるなど人気番組となり、日本(GYAOなど、日本語版サイト)を含む各国でも放送される。また同番組上にて神の手はハンドだったと自らコメントしている。自分に駆け寄ってこないチームメイトに自分から抱きつき、祝福するふりをしろと言った所、チームメイトは『これって万引きだよね』と発言し動揺していたらしい。

▽マラドーナの生き様を歌った「神の手」(La mano de Dios)という歌もあり、アルゼンチンではこの曲も非常に人気が高い。前述の『10番の夜』の第1回放送ではマラドーナ自身がこれを歌って登場した。

▽政治的発言も多いことで知られる。2005年にアルゼンチンのマル・デル・プラタで米州機構の会議が行われた際には、同市のサッカー場で行われた反ブッシュ集会に参加し、ベネズエラ大統領であるウーゴ・チャベスの演説のあとに「ブッシュを倒そう!」と発言


■ディエゴ・マラドーナの所属チーム

1974年-1980年 アルヘンチノス・ジュニアーズ(アルゼンチン) 166試合 116得点
1981年-1982年 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン) 40試合 28得点
1982年-1984年 FCバルセロナ(スペイン) 58試合 38得点
1984年-1991年 ナポリ(イタリア) 259試合 115得点
1992年-1993年 セビージャ(スペイン) 29試合 7得点
1993年 ニューウェルズ・オールドボーイズ(アルゼンチン) -試合 -得点
1995年-1996年 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン) 31試合 7得点


■ディエゴ・マラドーナの獲得タイトル

▽代表
ワールドカップ優勝(1986年)

▽クラブ
UEFAカップ優勝(1988年-1989年)

▽個人
世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌) 1回(1986)
南米年間最優秀選手(エル・ムンド紙) 6回(1979,1980,1986,1989,1990,1992)




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