サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - )は日本の山梨県甲府市出身で元同国代表、イタリア・セリエAなどに在籍した元サッカー選手。2006年7月3日、自身のウェブサイトにて現役引退を表明。その引退メールは大きな反響を呼んだ。


■中田 英寿のプレイスタイル

▽ウイング、トップ下、ボランチなど、中盤ならどこでもこなすことができるが、本人はトップ下でのプレーを好んでいる。相手ディフェンスを切り裂くラストパスが最大の武器で、そのスピードとコースの正確性からキラーパスと称される。フィジカルの強さ、ボディバランスの良さにも定評があり、少々のタックルでは倒れず、相手との体の入れ方が上手で簡単にはボールを失わない。特に、視野の広さ、想像性には優れたものがあり、これが中田の正確なパスを大きく支えていた。戦術理解・状況分析と修正・コーチング・スペースメイキングなど、目に見えないプレーのクオリティの高さも特徴でチームを引率しながら攻撃を組み立てることができる。また、インサイドから出されるスピードと正確性の両方を兼ね備えたパスは、世界でも数人しか出来ない高レベルのプレーであった。プレー以外でも、悪質なファールを受けても不満を言わず、選手同士の口論を止めに入るなど冷静で紳士的であった。

▽日本代表では、トルシエ監督時代(1999年-2000年)3-5-2のトップ下で司令塔としてプレー。ジーコジャパン初期(2002年)には4-4-2の2列目で中村俊輔と並んでプレー。2005年6月、ボランチ小野伸二の離脱により、小笠原満男が2列目、中田は3列目から攻守に関わるオールラウンダーのボランチとしてゲームメイクすることが多くなった。チームメイトからは「中田は銀行。中田に預けておけば安心」と賞賛された。また、近年は中村俊輔や小笠原満男に譲ることが多かったが、コーナーキックやフリーキックの名手であり、2001年のコンフェデレーション杯の豪州戦のFKなど主に鋭く曲がるボールや壁の下を抜け、地を這うような低い弾道のボールを蹴る。


■中田 英寿の個人タイトル

1997年 Jリーグベスト11アワード
1997年 AFC Player of the year
1997年 内閣総理大臣賞/プロスポーツ賞
1998年 AFC Player of the Year
1998年 AFC All Star Team
1998年 セリエA 外国人選手MVP
1999年 AFC All Star Team
2004年 FIFA 100に選出
2006年 イタリア連帯の星勲章受章
2006年 カヴァリエーレ勲位(ナイト)


■中田 英寿の出場大会

1992年 U-16アジアユース
1993年 第72回高校選手権 (2回戦敗退)
1993年 U-17世界選手権(ベスト8)
1994年 U-19アジアユース
1995年 ワールドユース(ベスト8)
1996年 アトランタオリンピック(グループリーグ敗退)
1998年 フランス ワールドカップ(グループリーグ敗退)
2000年 シドニーオリンピック(ベスト16)
2001年 コンフェデレーションズカップ(準優勝)
2002年 日韓ワールドカップ(ベスト16)
2003年 コンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
2005年 コンフェデレーションズカップ(グループリーグ敗退)
2006年 ドイツワールドカップ(グループリーグ敗退)


■中田 英寿の人物紹介

小学3年、8歳でサッカーを始める。幼少期から高校まではFWとしてプレー。 甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15(15歳以下日本代表)に選出され、アジアユース選手権(U-16)で世界への第一歩を踏み出す。以後は全ての年代別世界大会(U-17世界選手権、ワールドユース、アトランタオリンピック、シドニーオリンピック)に出場し、存在感を見せる。

韮崎高校時代、2年時に高校選手権に出場、一人だけ圧倒的な存在感を放った中田は1995年、Jリーグ全12クラブ中11クラブからオファーを受け、ベルマーレ平塚に入団。翌年にゲームメイク能力を買われてトップ下にコンバートされる。

各年代の日本代表において主力として戦ってきた中田は、1997年、前園真聖の離脱により日韓親善試合で日本代表デビュー。ワールドカップ・アジア最終予選で苦しむ日本代表をワールドカップ初出場へと導く原動力となっていく。

1998年、弱冠20歳で日本代表選手としてのポジションを不動のものとし、日本初出場となるフランスワールドカップではチームの核としてグループリーグの全3試合にフル出場。そのプレーは海外のクラブに認められ、11クラブからオファーを受ける。後に21歳の若さでイタリアのセリエA・ペルージャに移籍した。

開幕戦でユヴェントス相手に2ゴールを奪い、セリエAでの鮮烈なデビューを飾ると、このシーズンはリーグ戦合計10得点を挙げる活躍をし、ミッドフィルダーとして、当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立てた。

1999-2000シーズン途中に名門・ASローマに移籍。これは当時監督であったファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初は中盤の底であるボランチで起用されることが多かったが、フランチェスコ・トッティが欠場した時などは、本来のトップ下で出場した。そしてトップ下で出場した試合では高いパフォーマンスを発揮したが、生粋のローマ育ちであり、チームの象徴的存在になりつつあったトッティとポジションが同じであったため、トッティが復帰すると再びボランチとして起用された。しかし、シーズン半ばから途中出場が多くなり、トッティの交代としてトップ下でプレーした。このような状況下でも、腐らずに与えられた時間の中で質の高いプレーを見せてトッティにプレッシャーをかけ続け、出場時間を徐々に増やしていった。中でも2000-2001シーズン終盤の第29節ユヴェントス戦での途中出場ながら引き分けに持ち込んだ試合の活躍は、ロマニスタに称えられ、語り草となっている。(この試合をきっかけに、ローマは一時は遠ざかりかけた優勝を再び手繰り寄せることができたのである。) ローマはその年セリエA優勝。中田は日本人で初めてスクデットを握った人物となった。

2001年にはアジア人最高額の移籍金となる32億円でパルマに移籍。レンツォ・ウリヴィエリ監督の信頼の下トップ下でプレーしたが、高いパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリ監督の退任後は指揮官が次々と変わり、出場機会も減っていった。その後2002-03シーズンから指揮を執ったチェーザレ・プランデッリ監督は、中田をレギュラーとして起用したが、与えたポジションはトップ下ではなく、右サイドハーフであった。プランデッリによるアドリアーノとアドリアン・ムトゥを生かす徹底したチーム戦術はトリデンテと呼ばれ奏功したが、中田の動きを厳しく制約したため、確執が生まれた。

2002年、記念すべき地元開催の日韓ワールドカップで決勝トーナメントに進出。中田は25歳で精神的にもチームを牽引する中心選手として全4試合を戦った。予選リーグのチュニジア戦では、ヘディングによるワールドカップ初ゴールを記録している。

2003-04シーズンの冬のマーケットで、中田に甚大な信頼を寄せるカルロ・マッツォーネ監督率いるボローニャに半年のレンタル移籍。センターハーフを任されかつての輝きを取り戻す。セリエAと日本代表戦の過密日程でグロインペインを発症するもセリエA残留に貢献した。マッツォーネは中田の完全移籍を熱望したがレンタル元のパルマ側が要求した高額の移籍金をボローニャ側が払えず断念した。2004-05シーズン前にフィオレンティーナへ完全移籍したが、今まで大きな故障をしてこなかった中田は、回復の目算を見誤り思ったようなプレーが出来ず、現地ファンから酷評されることとなる。また、パルマ時代に確執があったプランデッリが2005-06シーズンより新監督として就任。新シーズンの構想から外れていった。

2005年、28歳で7年間住んだイタリアを離れ、イギリスのFAプレミアリーグ・ボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦でフリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。しかし、チームがロングボール主体のサッカーであったことから彼本来のプレーがあまり出来ず、加えて日本代表戦の度に長距離移動・フル出場を重ねていったためにコンディションが落ちるなどでサム・アラダイス監督の信頼をなかなか得られなかった。主にリーグ戦の途中出場とカップ戦に出場していたが、そこでのパスを繋ぐサッカーが徐々に認められ、リーグ戦の終盤には5試合連続してスターティングメンバーとなってチームの勝利に貢献、ドイツワールドカップに向けての試合勘に対する不安視を払拭した。

2006年6月、29歳で自身3大会連続、3度目となるドイツワールドカップのグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントへの進出を阻まれたが、第2戦のクロアチア戦では灼熱の試合の中で抜群の運動量を見せ、引き分けながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれる。また、グループリーグ敗退国のベストイレブンにも選出された。

2006年7月3日、自身の公式HP上で現役引退を電撃表明。 サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし貢献もしたい」と語っている。 世界中を回って見聞を広げ、その上で自分は何ができるのか―新しい自分の可能性を探して世界各国を旅している。


■中田 英寿の所属チーム

1986年-1988年 - 北新サッカースポーツ少年団
1989年-1991年 - 甲府北中学校
1992年-1994年 - 山梨県立韮崎高等学校
1995年-1998年 - ベルマーレ平塚
1998年-2000年 - ACペルージャ
2000年-2001年 - ASローマ
2001年-2003年 - ACパルマ
2004年1月-7月 - ボローニャ
2004年-2005年 - フィオレンティーナ
2005年-2006年 - ボルトン・ワンダラーズ


■中田 英寿の経歴

▽1995年3月25日 - プロデビュー(Jリーグ)- ジェフユナイテッド市原戦(市原臨海競技場)
▽1995年5月3日 - プロ初ゴール(Jリーグ)- 鹿島アントラーズ戦(平塚競技場)
▽1997年5月21日 - A代表初出場(ワールドカップ日韓共催記念試合)- 韓国代表戦(国立競技場)
▽1997年6月22日 - A代表初ゴール(ワールドカップ・アジア一次予選)- マカオ代表戦(国立競技場)

■中田 英寿の逸話

◆サッカー選手として

▽8年に及ぶ欧州でのプレー、様々な世界選抜試合、チャリティーマッチに出場し、社交的な性格もあって世界のスーパースター選手との交流がある。ドイツワールドカップでは、対ブラジル戦、試合前の入場通路でロナウド、ロナウジーニョ、カカらと談笑。また、試合後倒れている中田を元同僚のアドリアーノが慰めるシーンが見られた。

▽2001年のコンフェデレーションズカップは、日程と所属クラブASローマの優勝決定試合が重なったため、代表監督トルシエとの話し合いで「日本代表として準決勝までは同行。決勝には不参加」という条件で参加。準決勝では激しい雨の中、チームを決勝に導くフリーキックを叩き込んだ。その後決勝には参加せずイタリアに戻り、スクデット獲得の瞬間に居合わせた。[2]

▽プランデッリ(ACパルマ時代)の元では中盤の右サイドで起用され無尽蔵の運動量を示した。しかし中田が自分のスタイル(中盤で自由に動く)に戻ることを選択。ポジションを失うこととなったため、出場機会を求めて中田に甚大な信頼を寄せるマッツォーネの元にレンタル移籍。ボローニャのセリエA残留にその力を発揮し期待に応えたが、年俸が高額なため完全移籍には至らなかった。

▽サッカーに対する紳士な態度とそのひたむきさから、他チームに移籍後も古巣との試合では相手サポーターからも拍手が送られる。

▽2006年10月、フィリピンのスラム街を訪れ、そこに住む子供たちとともにサッカーを楽しんだ。


◆実業家として

▽2005年ニューヨークにビルを購入。ここを拠点に世界を旅したいと語っている。

▽その購入したビルのリフォームを手がけるのは建築における世界的権威、安藤忠雄である。

▽出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府のJ1昇格を祝福。スポンサーも紹介している。また、山梨県にユニフォームを贈呈するなど、故郷への思いが伺える。

▽個人的親交のあった「株式会社モック」の山田納生房代表取締役社長兼CEOと、なでしこリーグのスポンサー契約の橋渡し役となった。

▽2003年7月9日より、菓子メーカー株式会社東ハトの非常勤の執行役員CBO(Chief Branding Officer=チーフ・ブランディング・オフィサー)に就任。

▽2006年7月、非常勤執行役員を務める東ハトが山崎製パンに買収されたが、山崎製パン側より「買収後も継続して起用していく」との回答があった。


◆個人として

▽高校生の時からセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強をしており、今ではほとんどの訛りも分かる程イタリア語を身につけている。また、イタリアにいるころから英語の家庭教師に付き、英語のインタビューには英語で応対していたが、プレミアリーグへの移籍会見で初めて全て英語で応答している姿が放映され、いつの間に英語も習得したのかと驚かれた。さらに、映画『GOAL!』の主演男優とはスペイン語で話している映像も見られたが、スペイン語やポルトガル語・フランス語も簡単な会話が出来、ますます語学力を広げている。

▽彼が日本に帰国するたびに「成コレ」と呼ばれるファッションがファンやマスコミの注目を集めていた。

▽98年フランスワールドカップ時の一連の出来事(朝日新聞が「『君が代』ダサい」と中田が発言したと報じたが中田側は「歪められた」と否定。これにより右翼から家族を巻き込んだ嫌がらせを受ける)を契機に「真実を伝えない」として、マスコミとの軋轢が絶えなくなった。そのため一時期は日本における生放送以外でのメディア出演は一切拒否する姿勢をとり、自身のホームページで情報・メールを発信。スポーツ選手のホームページの先駆けとなった。ワールドカップ日韓大会終了時あたりからは録画放送へも出演するようになった。さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画作成していた。

▽メディアとの接触を極力避けるため無愛想な男に映るが、年下の者から声を掛けると心得ており年上から可愛がられる一面を持ち世界各国に人脈があり友人がいる。

▽右翼団体からの圧力を警戒し、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードが付いていた事がある。その中の一人は、2001年のK-1 JAPANで優勝した経験を持つニコラス・ペタス選手であった。

▽韮崎高校時代、「サッカーしか知らない人間になりたくない」とメディアのインタビューで答えたことがあり、30歳ぐらいには引退して他の道に進むのではないかという青写真をそのころから持っていた。

▽引退後、アジアの孤児院などを訪問して子ども達の心に触れたことで「結婚はしたくないが子どもは欲しい」と語った。

▽野菜は形が残っていると食べられず、中国の孤児院で子ども達と一緒に作った餃子も食べるマネをしてしのいだそうだ。


■中田 英寿の略歴

▽1991年4月・14歳中学3年 - 甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15に選出される
▽1992年5月・15歳高校1年 - U-17アジアユース選手権出場
▽1993年8月・16歳高校2年 - U-17世界選手権 3試合中2試合出場、ベスト8
▽1994年1月・16歳高校2年 - 全国高等学校サッカー選手権大会出場、2回戦敗退
▽1994年9月・17歳高校3年 - U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
▽1994年・18歳高校3年 - 山梨県立韮崎高等学校時代、Jリーグ12チーム中11チームから獲得オファーを受ける
▽1995年12月・18歳高校3年 - ベルマーレ平塚と仮契約を交わす
▽1995年2月・18歳高校3年 - 東京ドームカップ・対ジュニオール戦に途中出場、プロデビューとなる
▽1995年4月・18歳 - U-20 FIFAワールドユース選手権 全4試合出場、ベスト8
▽1996年7月・19歳 - アトランタオリンピック(U-23)3試合中2試合出場、2勝1敗でグループリーグ敗退(初戦のブラジルに対する勝利は『マイアミの奇跡』と呼ばれている)
▽1997年5月・20歳 - ワールドカップ日韓共催記念試合でA代表デビュー
▽1997年11月・19歳 - フランスワールドカップアジア地区最終予選でイラン戦に3-2の逆転勝利、全得点をアシスト。第3代表に決定する(ジョホールバルの歓喜) 
▽1997年12月・20歳 - 『ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合』の世界選抜対欧州選抜に、世界選抜として出場
▽1998年6月・21歳 - フランスワールドカップの全3試合にフル出場、3戦全敗
▽1998年7月・21歳 - セリエA・ACペルージャに移籍
▽1998年9月・21歳 - シーズン開幕戦(ユヴェントス戦)で2得点を挙げる
▽2000年1月・22歳 - ASローマに移籍
▽2000年9月・23歳 - シドニーオリンピック ベスト8
▽2001年6月・24歳 - コンフェデレーションズカップ5試合中4試合出場。豪戦では豪雨を計算に入れ地を這うFKでゴールをあげ決勝戦に導く
▽2001年6月・24歳 - ASローマで日本人として初めてセリエA優勝
▽2001年7月・24歳 - ACパルマに移籍。イタリア杯優勝
▽2002年6月・25歳 - 日韓ワールドカップ ベスト16、1得点を挙げる
▽2002年12月・25歳 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』に、世界選抜として出場
▽2003年1月・25歳 - ボローニャに期限付き移籍
▽2003年6月・26歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝2敗でグループリーグ敗退
▽2003年12月・26歳 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』にロナウドチームで出場
▽2004年7月・27歳 - フィオレンティーナへ完全移籍
▽2005年6月・28歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝1分1敗でグループリーグ敗退
▽2005年8月・28歳 - イングランド・FAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズへ1年契約の期限付き移籍
▽2006年6月・29歳 - ドイツワールドカップに出場、1分2敗でグループリーグ敗退

▽2006年7月・29歳 - 引退を表明



Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
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