Archive : 2007-05

釜本 邦茂

釜本 邦茂(かまもと くにしげ、1944年4月15日 - )は、京都府京都市右京区出身の元サッカー選手、元参議院議員。

現役時代のポジションはFW。日本人最高と言われた不世出のストライカー。1968年メキシコオリンピックでは 7 得点を挙げ、得点王に輝くと共に、日本代表の銅メダル獲得に大きく貢献した。1985年に引退した。その後、関西テレビのワイドショー番組シュートinサタデーのキャスターを経て、1991年に松下電器/ガンバ大阪の監督に就任。1995年から2001年まで参議院議員を 1 期務め、労働政務次官を務めた。現在は日本サッカー協会副会長。2005年第 1 回日本サッカー殿堂入り。2006年9月より京都文教大学客員教授(文化実践論)。


■釜本 邦茂のプレイスタイル

いわゆる典型的なセンターフォワード。右足から繰り出されるシュートは非常に強力で、そのレベルは恩師のクラマー曰く世界最高クラスであった。特に右45度からのシュートは正確無比。また、左足からのシュートも右足ほどではないが正確であり、跳躍力を活かしたヘディングシュートも美しかった(後に釜本は、自らのシュートについて「5割は右足。左足が3割で、頭が2割」と語っている)。すなわちどんな形からでもゴールを奪えたのである。三浦知良と並びその実績から、日本最高のエースストライカーだという声も多い。また、その日本人離れした圧倒的な得点能力は今でも、アジアの枠を超えて、世界レベルで見ても稀代のストライカーだという声も多い。彼のシュートを受けそこなった相手ゴールキーパーの指の間が裂けたというエピソードもあるほど、スピードのあるシュートを放った。メキシコシティオリンピックではその強烈なパワーで「サムライバズーカ」の異名をとった。

日本サッカー発展のため国内でプレーすることを選択したが、欧州クラブのスカウトがこぞって彼を獲得しようとしていた。

プレイスタイルとは言えないが「自分が活躍しない勝った試合よりも、自分が活躍して負けた試合の方が自分にとっては重要」と言い切るなど、フォワード向きの性格をしていた。


■釜本 邦茂の所属チーム

京都市立太秦小学校
京都市立蜂ヶ岡中学校
京都府立山城高等学校 1960-1963
早稲田大学 1963-1967
ヤンマーディーゼル 1967-1985(現・セレッソ大阪)

▽学生時代
京都市立太秦小学校でサッカーを始める。市立蜂ヶ岡中学校3年の時、主将として京阪神三都市大会に出場、同大会にて優勝を果たす。

1960年府立山城高校に入学、10月の熊本国体にて優勝。

1962年1月には全国高校サッカー選手権にて準優勝に輝く。この頃FIFAコーチ、デッドマール・クラマーに会い、薫陶を受ける。同年4月には日本ユース代表に選ばれ、第4回アジアユース大会に出場。

1963年に早稲田大学第二商学部入学。関東大学リーグで優勝を果たし、11得点で得点王。この年を含め4年連続得点王。日本ユース代表主将として第5回アジアユース選手権にも出場。

1964年1月、日立製作所(現・柏レイソル)を破り天皇杯優勝。3月、19歳にして日本代表入りし、東京オリンピック出場。1得点。

1966年12月、第5回アジア大会に出場し、3位獲得。

1967年1月、天皇杯で東洋工業(現・サンフレッチェ広島)を破り優勝。(以後、天皇杯での大学チームの優勝はない)


▽日本リーグ
1967年4月、ヤンマーディーゼルに入社。日本リーグ初得点はデビュー戦の対豊田自動織機戦の2得点。6月、外国プロチーム(ブラジル・パルメイラス)に初勝利。決勝ゴールをあげる。

1968年1月、西ドイツへサッカー留学、2カ月後、メキシコオリンピック代表チームに合流。10月、メキシコ五輪3位決定戦で地元メキシコを2-0で破り銅メダル。7得点で同五輪の得点王に。

1969年1月天皇杯で三菱(現・浦和レッズ)を破り、ヤンマー初優勝。決勝ゴールをあげる。6月日本代表合宿中に倒れ、ウイルス性肝炎で入院。50日後の8月5日退院。以後、4年間は試合と通院の生活。W杯予選は欠場。

1970年3月、日本代表に復帰。12月、第6回アジア大会で4位。

1971年、日本リーグで初優勝。

1972年7月、ムルデカ大会で15得点、得点王に。日本は3位。

1973年5月、西ドイツW杯予選に出場。

1976年3月、モントリオールオリンピック予選敗退。8月、ムルデカ大会で日本2位。

1977年3月、W杯予選で日本敗退。9月、ニューヨーク・コスモス戦を最後に日本代表を引退。

1978年2月、ヤンマー監督(兼選手)に就任。

1980年12月には世界選抜の選手として、ユニセフ慈善サッカー大会(スペイン)に出場。

1982年5月20日対マツダ(旧・東洋工業)戦で右足首アキレス腱断裂。8月11日、練習中に同じ個所を切る。

1983年11月3日、日本リーグ対読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)戦に1年6ヶ月ぶりに出場。(交代出場、無得点)

1984年2月13日、引退を発表。8月25日、国立霞ヶ丘陸上競技場で引退試合。(ヤンマー対日本リーグ選抜、観衆60,000人、ペレ・オベラートも出場)

2005年4月、日本サッカー協会選定の第1回サッカー殿堂掲額者として選定される。

▽通算成績
日本リーグ通算251試合出場202得点。得点王7回。
日本リーグ優勝:3回(1971、1975、1980)
天皇杯優勝:2回(1969、1975)

▽節目のゴール
1974年10月、対三菱戦で、リーグ通算100得点を達成。
1978年1月、対三菱戦でリーグ通算150得点を記録。
1980年9月7日、対ヤマハ(現・ジュビロ磐田)戦でハットトリックを達成。
1981年11月1日、本田技研戦で2得点。リーグ通算201得点目。(238試合)
1982年5月15日、日立戦で202得点目をあげる。


■釜本 邦茂の代表歴

▽出場大会
東京オリンピック(ベスト8)
アジア競技大会(1966,1970,1974,1978)
メキシコシティオリンピック(銅メダル)
ミュンヘンオリンピック予選
ワールドカップ西ドイツ大会予選
モントリオールオリンピック予選
ワールドカップアルゼンチン大会予選


■釜本 邦茂の指導者として

ヤンマーディーゼル監督 1978-1984
ガンバ大阪監督 1991-1994
1978年2月、ヤンマー監督に就任。選手兼任として活動し、引退後の1年間は監督に専念。

1985年2月、ヤンマー監督を辞任。

ヤンマー退団後はサッカー教室を運営し、大阪を中心に少年サッカーの指導に携わった。

1991年、Jリーグの発足と共に設立されたガンバ大阪(当時はパナソニックガンバ大阪)の監督に就任。

1994年、Jリーグのシーズン終了と同時に、監督としての契約を更新せず、ガンバ大阪を退団する(契約上の退任時期は1995年1月)。 監督としてのJリーグ成績は、2シーズンで80試合、31勝49敗。最高位は1993年ニコスステージ(2ndステージ)の6位(10チーム中)。

1996年、日本サッカー協会理事に就任。

1998年7月、日本サッカー協会副会長に就任。

1999年7月、同協会の2002年強化推進本部長に就任。日本代表のフィリップ・トルシエ監督を評価する立場となり、両者の対立や釜本によるトルシエ解任の意向などがしばしば報道される。

2000年7月、労働政務次官就任を理由として2002年強化推進本部長を辞任。その後、参議院選挙での落選後に日本サッカー協会副会長を辞任。

2004年7月、日本サッカー協会副会長に復帰。


■釜本 邦茂の政治家として

1995年7月23日、第17回参議院議員通常選挙で自由民主党から比例区で出馬し当選。 当選後は院内の厚生労働委員会に所属し、日本サッカー協会副会長を兼務しながら、2002年W杯の開催準備などに尽力。党内派閥としては清和政策研究会(会長三塚博〜森喜朗〜小泉純一郎)に所属する。

1998年、日本道路公団の関連会社で、高速道路用プリペイドカード「ハイウェイカード」販売に関する特別背任事件が発覚。一連の不正販売に釜本の妻が経営する会社の関与が明らかになる。

2000年7月4日、第2次森内閣の労働政務次官に任命される。

2000年12月6日、内閣改造に伴い労働政務次官を辞任する。

2001年7月29日、第19回参議院議員通常選挙で自由民主党から比例区で出馬し落選。







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賀川太郎

賀川太郎(かがわ たろう、1922年8月9日-1990年)は兵庫県神戸市出身の元サッカー選手。

神戸一中(現・県立神戸高校)、神戸経済大学(現・神戸大学)を経て、1948年に田辺製薬サッカー部に入団。全日本実業団選手権で6連覇を含む7回の優勝を遂げた、田辺製薬の黄金期を支えた一人だった。同時期の天皇杯全日本サッカー選手権大会には大阪クラブの選手として出場し、1951年から3年連続で準優勝している。

日本代表としてもワールドカップ・スイス大会予選など、国際Aマッチ5試合に出場した。また、日本代表初の国際Aマッチである1951年3月7日のイラン戦(アジア競技大会)の先発メンバーの1人でもある。

2006年に第2回日本サッカー殿堂入りした。サッカーライターの賀川浩は実弟である。


■賀川太郎の所属チーム

神戸一中
神戸経済大学
田辺製薬 1948-?
大阪サッカークラブ






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小城 得達

小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は、日本の元サッカー選手。広島県広島市出身。選手時代はフォワード、その後ミッドフィールダーもフルバック(ディフェンダー)もこなしたオールラウンドプレーヤーだった。

東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)において第1回日本サッカーリーグ (JSL) から4連覇を達成したチームの中心選手として活躍。また日本代表でもメキシコシティオリンピック銅メダル獲得に貢献。昭和40年代(1960年半ば〜1970年半ば)を代表する名選手の1人である。


■小城 得達の経歴

サッカーの盛んな広島に生まれ、広島大学附属小学校のときに、当然のようにボールを蹴り、サッカーに打ち込んだ。付属中学に入ると野球部に入る。ちょうどプロ野球が2リーグになり郷土に初の市民球団・広島東洋カープが誕生した頃、広島の子供達はほとんどが野球をやった。しかし1958年、進学校でもあった広大付属高校に進むとサッカー部へ入った。理由は付属高校には野球部が無かったからだった(なお現在も硬式野球部は無い)。当時の広島は実業団の東洋工業も、高校サッカー出場校も全国大会で決勝を狙える「サッカー王国」だった。同高の2年先輩に丹羽洋介、1年先輩に桑田隆幸、野村尊敬、同級に桑原楽之、溝手顕正、船本幸路ら。舟入高校の今西和男(後に東洋工業)と山陽高校の宮本輝紀(後に八幡製鉄)は2学年上、修道高校の森孝慈(後に三菱重工、現浦和レッズ)は1学年下だった。

1年生の時、ハーフバック(HB, 今で言うミッドフィールダー)で丹羽、桑田、桑原らと全国高校選手権に出場して準優勝(山城高校に 1 - 2 )、国体も準優勝(浦和市立に 0 - 1 )、3年時はベスト8(秋田商業に 0 - 1 )。小城が2年の時、ソ連の強豪チーム、ロコモティフ・モスクワが全広島と広島市民球場で対戦し小城や前述選手らが出場。この試合は17,000人もの観衆が詰め掛けた。1961年、第3回アジアユースサッカー日本代表にも桑原とともに選出された。

同年中央大学に進み、翌1962年、2年の時、同郷の野村六彦、岡光龍三、桑原らと天皇杯で中大の初優勝をもたらした。決勝の相手は長沼健、平木隆三、川淵三郎、宮本征勝ら日本代表を揃え3連覇を狙った古河電工だった。この大会での働きで小城は日本代表候補となった。負けん気の強さと地道な努力で、フィジカル・トレーニングを真剣に取り組み強靭な体を作り上げた。1963年、東京オリンピック前年の招待試合・対西ドイツ戦で先制ゴールを挙げ代表に定着した。大学では既にゲームメークの才を見せ、正確にロングボールを蹴った。

1964年、日本サッカーの命運がかかった東京オリンピック、面目を保つ唯一の白星となった対アルゼンチン戦で決勝ゴールを決めベスト8進出に貢献。この歴史的勝利は日本に空前のサッカーブームを巻き起こした。翌1965年、プロ野球以外では初の全国リーグ、日本サッカーリーグ (JSL) がスタート。中大を卒業した小城は故郷の広島に戻り、東洋工業に入団。攻守の軸ハーフバックとして力を発揮した。小沢通宏と松本育夫以外は、下村幸男監督を始め全員広島出身者という東洋工業は、強い結束力と縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、その記念すべき第1回大会を12勝2分け無敗で優勝。小城は攻守の要・リンクマンとして大活躍、年間最優秀選手(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)に選ばれた。東洋工業は更に翌年第2回大会にかけて23連勝、小城はこの年にはリーグ得点王を獲得するなどチームは無敵を誇り、1968年までリーグ4連覇の金字塔を樹立し、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。更に3度の天皇杯制覇(1965年、1967年、1969年)、黄金時代を築いた。ベテラン守備陣の引退で三菱重工にJSL5連覇を阻まれた1970年には、下村監督にスイーパー(リベロ)にコンバートされると、再びリーグ優勝に導き2度目の年間最優秀選手を獲得。JSL通算57得点は歴代13位。

1968年のメキシコシティオリンピックで、日本は酸素の薄い高地・メキシコに合わせた省エネ作戦を行った。4DFの後ろにスイーパーを置いて5人ないし6人で守り、釜本邦茂(ヤンマー、現・セレッソ大阪)、杉山隆一(三菱重工)コンビの速攻を生かす作戦で、小城はセンターバックとして銅メダル獲得に貢献した。相手エースストライカーの密着マークではデットマール・クラマーから「トイレに行ってもついていけ」と無茶を言われたらしい。攻撃面でも前線へ送るロングフィードは質が高かった。なお、小城は東京、メキシコシティのオリンピック2大会で全試合フル出場を果たしている。

当時の小城は気性の激しい選手として知られ、「釜本がキレたら小城が抑えるが、小城がキレたら誰も抑えられない」という逸話が残っている。

その後1974年までの長きに渡り日本代表選手として活躍。代表戦の出場数は歴代2位の213を数えた。うち国際Aマッチは62試合出場で11得点。Cマッチまで合わせると39得点で歴代6位、これはメキシコ五輪世代では釜本、宮本輝に次ぐ数字である。1977年に選手キャリアを終え、東洋工業の監督に就任。その後、サッカーを離れ東洋工業にそのまま勤務した。定年退職後は再びサッカー界に戻り、現在は広島県サッカー協会会長と日本サッカーリーグマッチコミッサリーを務めている。

2006年、日本サッカー殿堂入り。


■小城 得達の所属チーム

1961 - 1964 : 中央大学
1965 - 1976 : 東洋工業






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岡野俊一郎

岡野俊一郎(おかの しゅんいちろう、1931年8月28日-)は、東京都出身の日本の元サッカー選手・サッカー監督。日本サッカー協会の元会長であり、現在は名誉会長である。実家は和菓子の老舗「岡埜栄泉」。


■岡野俊一郎の経歴

1949年、東京都立小石川高等学校を卒業し、東京大学理科II類に入学。サッカー部に入部。
1953年、全日本大学サッカー選手権大会で優勝。
1957年、東京大学文学部心理学科卒業。
1961年、AFCユース選手権にユース日本代表監督として参加。
1962年、日本代表コーチとなる。(当時の監督は長沼健)
1964年、東京オリンピックで日本代表がベスト8の快挙を成し遂げる。
1968年、メキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得。
1970年、日本代表監督に就任。(〜1971年)
1974年、日本サッカー協会の理事に就任。日本オリンピック委員会(JOC)の常任理事にも就任。
1987年、日本サッカー協会副会長に就任。
1990年、国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任。
1995年、ワールドカップ組織委員会委員に就任。
1998年、日本サッカー協会会長に就任。
2002年、東アジアサッカー連盟初代会長に就任。日本サッカー協会名誉会長に就任。
2003年、日本サッカーミュージアム初代館長に就任。
2005年 日本サッカー殿堂当年第1回受賞者に選ばれる


■東京オリンピック・メキシコオリンピックでの活躍

岡野俊一郎は、プレイヤーとしての経験は高校(戦前の学制では中学にあたる)・大学での経験しかないが、長年日本代表に参加し、コーチとしての戦績は華々しい(東京五輪:ベスト8、メキシコ五輪:3位)。これについては彼の東大時代の人脈が大いに生きている。

当時の日本代表は、1960年からのデッドマール・クラマーによる技術指導の影響により、一定の技術水準(とはいっても、欧州・南米の一流国から見れば下手であるが)は得ていたが、戦術や敵の情報に関しては不十分であった。しかし、岡野は東京大学在学時の友人に商社勤務の者が大勢おり、海外勤務の友人から海外のサッカーのビデオや雑誌を入手し、敵の戦術解析、モダンサッカーの戦術研究を熱心に行なった。

当時の監督の長沼は、ベンチで隣に岡野を座らせるために、選手登録を一名抹消(ベンチに入れる人数には制限があり、コーチ陣・選手合わせて一定の数にしなければならない)したほどである。クラマーの指導、選手たちの努力もあったが、岡野の研究も日本の快挙に大きく貢献したと言える。

当時メダル獲得の期待が全くかけられていなかったサッカーは、メキシコへ派遣できる選手の登録人数を削減されてしまった。これに最も強く反対した一人が当時コーチであった岡野俊一郎であったが、JOCの決定は覆せない。そこで、選手が故障した場合を考えて、もしもの時の「最後の一人」として選手登録をしたのだった。結果として(日本側登録では)「コーチ」でありながら銅メダル獲得という珍しい事になってしまったのである。






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ワールドカップの軌跡

■第1回開催国 1930 ウルグアイ  

▽優勝 ウルグアイ

ウルグアイ建国100周年を記念した第1回大会。ただ遥か海の向こう、南米への渡航に欧州からの参加はフランスを始めとした4ヶ国に止まった。


■第2回開催国 1934 イタリア

▽優勝 イタリア

独裁者ムッソーリーニの要請によりイタリアで開催。


■第3回開催国 1938 フランス

▽優勝 イタリア

この翌年、第2次世界大戦が勃発。W杯も時代のうねりと共に中断を余儀なくされた。


■第4回開催国 1950 ブラジル

▽優勝 ウルグアイ

ついにサッカー熱狂国ブラジルで開催。これに先駆けブラジルは世界最大のサッカースタジアム“マラカナン”を設立。


■第5回開催国 1954 スイス

▽優勝 西ドイツ

マジック・マジャールの時代だったが結果は西ドイツ優勝。


■第6回開催国 1958 スウェーデン

▽優勝 ブラジル

かの有名なペレ登場。この大会はまさに彼のために用意されたステージだった。そのハイライトとなった準決勝フランス戦。見事ハットトリックを達成。


■第7回開催国 1962 チリ

▽優勝 ブラジル

大地震の傷跡の癒えないチリでの開催。不安な空気が伝わったかのようにこの大会では非常に荒れたゲームが多かった。


■第8回開催国 1966 イングランド

▽優勝 イングランド

イングランド・サッカー協会100周年を記念して行なわれた大会だが、疑惑のゴール、ペレの負傷退場など純粋に楽しめなくなってくる。


■第9回開催国 1970 メキシコ

▽優勝 ブラジル

サッカーファン憧れのアステカ・スタジアムにて。ブラジル全勝で完全優勝、ジュール・リメ杯永久保持権授与。


■第10回開催国 1974 西ドイツ

▽優勝 西ドイツ

記念すべき10回目はサッカー革命期となった大会。旋風を巻き起こしたのはオランダ、ポーランド、そして西ドイツ。


■第11回開催国 1978 アルゼンチン

▽優勝 アルゼンチン

攻撃サッカーでアルゼンチンが初優勝。紙吹雪が有名に。


■第12回開催国 1982 スペイン

▽優勝 イタリア

サッカー黄金時代への幕開けとなる非常に白熱した大会。。参加24カ国、10年に一人の天才と言われるマラドーナの姿も。


■第13回開催国 1986 メキシコ

▽優勝 アルゼンチン
天才マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会だった。


■第14回開催国 1990 イタリア

▽優勝 西ドイツ

カメルーンがアフリカ勢初のベスト8。ベッケンバウアーが監督として優勝を勝ち取った。


■第15回開催国 1994 アメリカ

▽優勝 ブラジル
W杯決勝史上初の引き分け。PKによりブラジル勝利。4度目の栄冠を手にする。


■第16回開催国 1998 フランス

▽優勝 フランス
ジダンらの活躍で地元フランスが初優勝。日本が初出場も3戦全敗。


■第17回開催国 2002 日本・韓国(日韓

▽優勝 ブラジル

21世紀最初の大会ははじめてのアジア開催。日本、韓国がそろって予選リーグを突破。アルゼンチン、フランスの予選敗退など番狂わせの多い大会


■第18回開催国 2006 ドイツ

▽優勝 イタリア

東西ドイツの統一後はじめてのドイツ開催。ベッケンバウワーが大会組織委員長になり、トラブルも少なく美しいワールドカップになった。ヨーロッパ中心に強豪国が順当に勝ち上がった大会。


■第19回開催国 2010 南アフリカ

▽優勝 ???

はじめてのアフリカ開催。アジアにオーストラリアが加わり、厳しい予選が予想される。






世界のサッカー史

■1940年代

1940年といえば、伝説のクラブチーム”グランデ・トリノ(偉大なるトリノ)”。第2次世界大戦をはさんで5回もリーグ優勝を成し遂げた。1945年、第2次世界大戦が終結、翌1946年には 英国4協会がFIFAに復帰する。


■1950年代

第4回W杯で、ウルグアイが開催国ブラジルに勝ち優勝、そこからハンガリーの連勝記録が始まる。マジック・マジャールことハンガリーは、1950年から1954年まで4年間、29試合負けなしの驚異的な記録を作ったのだ。1952年のヘルシンキ五輪では、5試合で29得点2失点の圧倒的な強さで金メダルを獲得。その中心選手だったプスカシュを獲得したクラブチーム、レアル・マドリーがその後栄華を極めていく。1954年にはAFC(アジアサッカー連盟)とUEFA(欧州サッカー連盟)が相次いで設立される。この年、日本がオリンピック初出場。1955年にはチャンピオンカップがはじまり、翌年にはCAF(アフリカサッカー連盟)設立。欧州選手権も始まる。1958年のW杯スェーデン大会ではブラジルが初優勝。またこの年、ミュンヘンの悲劇が起こる。


■1960年代

1960年には欧州カップウィナーズ・カップ、南米クラブ選手権(リベールタドーレスカップ)、インターコンチネンタル杯(後のトヨタカップ)など相次いで大会が始まる。そして、レアル・マドリーの黄金時代に終止符を打つチームが現れた。「ポルトガルの巨人」ことベンフィカである。1964年には東京五輪が開かれ、日本は強豪アルゼンチンを破り、ベスト8まで進む。翌年には日本サッカーリーグも発足。66年にはCFC(オセアニアサッカー連盟)が設立される。68年にはNASL(北米サッカーリーグ)発足。1969年には、W杯予選の結果をめぐり、ホンジュラスとエル・サルバドルが戦争に突入するという悲しい出来事も。


■1970年代

1970年代はアメリカにサッカー黄金時代が訪れる。NASL(北米サッカーリーグ)は、ペレ、クライフ、ベッケンパウアーをはじめとする世界的なスーパースターを高額な年俸で集め、人気を博していったのだ。1977年には第1回ワールドユース選手権(U-20)がチュニジアで開催され78年にはキリンカップがはじまる。



■1980年代

80年、16年間の空白を経て外国人選手輸入禁止措置が解かれると、それまでドイツ、スペイン、イングランドなどに拡散していた選手たちはイタリアへと向かった。各チームは移籍市場に巨額な資金をつぎ込むようになり、ジーコ、マラドーナといった豪華な顔ぶれがピッチを飾ることになった。こうした才能の独占は、イタリア勢の3大カップ席巻を強烈に後押ししていく。85年にはヘイゼルの悲劇と呼ばれるフーリガン事件も問題に。


■1990年代

1990年代のヨーロッパのキーワードは「ビッグマネー」。巨額なテレビマネーがサッカー界に大きな影響を与える時代に。チャンピオンズカップがリーグ戦へ移行していき、試合数も増加。また、ボスマン判決によりEU圏内の移籍の自由が認められ、選手の移籍は活発化、ビッククラブは大量の外国人を抱え込むことに。時代はビッククラブの時代に入り、そのあおりを受けて、90年代の3つのワールドカップには新しさが欠けた低調な大会になった。

91年、FIFA年間最優秀選手賞創設(第一回はマテウスが受賞)、92年にはアパルトヘイト撤退により南アフリカがFIFA復帰。しかし一方では、ユーゴスラビアがボスニア内戦に対する制裁でFIFAとUEFAにより国際試合禁止処分を受ける。

しかしなんといっても、90年代といえば日本が1954年のスイスから通算12度目の挑戦で初めてワールドカップに出場した歴史的な時代といえるだろう。


■2000年代

2000年に入り、サッカー戦術が浸透し「グローバル化」が一層進展した。サッカースタイルは、南米とヨーロッパ、アジアの境界がなくなり、各国の実力差が拮抗する時代になった。2004年のチャンピオンズリーグでのポルトガルのチーム、ポルトの優勝、EURO2004のギリシャの優勝がそれを象徴している。

2002年、アジアではじめてのワールドカップが日韓共催で開催され、日本、韓国ともに決勝トーナメントに進出する快挙を成し遂げた。巨額なテレビマネーとヨーロッパ・チャンピオンズリーグの影響で、巨額投資が災いして破産するクラブや、汚職事件が頻発した。2006年のドイツワールドカップでは、イタリアが優勝したが、同時にセリエAのユベントスを中心とする汚職事件で大きな混乱が発生した。

日本代表も2006年ドイツワールドカップで、2敗1分という期待はずれの結果に、大きな転機を迎えている。





日本のサッカー年表

■1921
大日本蹴球協会創立

■1929
国際サッカー連盟(FIFA)に加盟

■1936
ベルリン五輪にて、3−2でスウェーデンに勝利

■1951
第1回アジア大会 ニューデリーで開催 3位入賞

■1954
第5回ワールドカップ スイス大会 極東地区予選敗退AFC(アジア・サッカー連盟)創立、日本10月に加盟

■1956
メルボルン五輪参加 1回戦敗退

■1958
第6回ワールドカップ スウェーデン大会 予選不参加

■1960
第7回ワールドカップ チリ大会 アジア地区予選敗退

■1964
東京五輪参加 ベスト8入り

■1965
日本サッカーリーグ(JSL)開幕

■1966
第8回ワールドカップ イングランド大会 予選不参加

■1967
メキシコ五輪 東京で開催 日本首位で本大会出場権獲得

■1968
メキシコ五輪参加 銅メダル獲得

■1969
第9回ワールドカップ メキシコ大会 アジア地区予選敗退

■1973
第10回ワールドカップ 西独大会 アジア地区予選敗退

■1977
第11回ワールドカップ アルゼンチン大会 アジア地区予選敗退奥寺康彦(当時25歳、古川電工所属)がFCケルンへ。日本人プロ第一号誕生。

■1979
日本女子サッカー連盟、正式に発足。

■1980
第12回ワールドカップ スペイン大会 アジア地区予選敗退

■1984
ロサンゼルス五輪 予選惨敗

■1985
第13回ワールドカップ メキシコ大会 アジア地区予選突破韓国に破れ本大会出場ならず

■1988
ソウル五輪 予選で中国に破れる。日本オリンピック委員会(JOC)に加盟

■1989
第14回ワールドカップ イタリア大会 予選敗退。第10回アジアカップ(広島)開催 優勝

■1993
第13回ワールドカップ アメリカ大会 アジア地区予選一次突破。最終予選『ドーハの悲劇』。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)開幕

■1994
第12回アジア大会開催(広島) ベスト8入り

■1996
第25回アトランタオリンピック。日本はブラジルを1−0で破るも1次予選敗退『マイアミの奇跡』。2002年ワールドカップ、日韓共催が決定

■1997
第14回ワールドカップ フランス大会 アジア地区一次予選突破。最終予選 イランをVゴールでくだし、初の本戦出場を決める『ジョホールバルの歓喜』

■1998
FIFAワールドカップ’98出場 岡田監督のもと日本は3戦全敗でグループリーグ敗退

■1999
Jリーグ1・2部制(J1・J2)導入。第3回FIFA女子ワールドカップ出場。ワールドユース、ナイジェリア大会で小野など黄金世代で臨んだ日本代表が準優勝

■2000
第12回アジアカップ優勝 シドニー五輪参加 ベスト8入り

■2001
FIFAコンフェデレーションズカップ 韓国/日本大会 準優勝

■2002
第15回日韓ワールドカップ開催 トルシエ監督の元 グループリーグを突破。日本はベスト16

■2003
第4回FIFA女子ワールドカップ出場 予選リーグ敗退

■2004
第13回アジアカップ 中国開催のアジアカップ 決勝で中国を破り優勝。アテネオリンピックに、日本代表は男女ともに出場。男子は予選リーグ敗退 女子はベスト8

■2005
Jリーグワンシーズン制へ移行。日本女子サッカーリーグの愛称が「なでしこリーグ」

■2006
第16回ドイツワールドカップ開催 日本は1分2敗でグループリーグ敗退。ワールドカップ後 中田英寿選手が衝撃的な現役引退を表明





FIFA誕生までのサッカー

1.近代サッカー以前

民族ボールゲーム

世界各地において、古代から神事や祭事に際し、様々な競技が行われていた。「投げる」「捕らえる」「打つ」「的を射る・通す」など手を基本とする競技ばかりでなく、「大幅な動き」や「蹴る」など、脚や足の動作を伴うものも存在した。「民俗ボールゲーム(球技)」はこれらとボールなどが、結びついたものをさす。

中世ヨーロッパの球技
中世ヨーロッパの各地では、街や村などの地域社会とのつながりの強い行事としての球技が、街路や野原、さらに川などを使い行われていた。これらの球技は『ストリート・フットボール』や『マス・フットボール』と称されていた。


2.近代サッカーの誕生

1863年・FA設立とルールの統一

19世紀後半になって、当時の上級階層の子弟が通う、公認私立中学校(パブリック・スクール) では、各学校ごとの実状に合わせたルールで、フットボールが行われていた。 1963年10月、ロンドンとその郊外クラブの代表者が集まり、『フットボール・アソシエイション=FA』を設立し、12月にはルールが統一された。このルールによる競技、「アソシエイション・フットボール」は、単に「フットボール」で世界各地で通用し、これを省略した「サッカー」という競技名を用いているのは、現在では、アメリカや日本など一部にしかすぎない。なお、イタリアは全く関係のない、『カルチョ』を使い続けている唯一の国である。


3.世界へ拡がるサッカー

イギリスに生まれた近代サッカーは、イギリスの留学生や、海外在住のイギリス人などのネットワークによって世界各地へと伝藩していった。その勢いとスピードの速さには驚くべきものがある。それらは、サッカークラブの創設・国内リーグ戦の開始・サッカー協会の組織化などである。


4.国際サッカー連盟(FIFA)の誕生

2004年に100歳を迎えた巨人

世界のサッカーを統括しているのが、国際サッカー連盟(FIFA=Federation Interna-tionale de Football Association) である。サッカーが世界各国に伝わっていく過程で、国を越えた組織の必要性を感じた、フランス人ロベール・ゲランの提唱により、1904年5月に結成された。しかし、設立時に参加したのは、オランダ・スイス・スウェーデン・スペイン・デンマーク・フランス・ベルギーの7カ国に過ぎず、イギリス・イタリア・ドイツなどは参加しなかった。現在、加盟する国と地域サッカー協会の総数は204に達している。この204の協会は、各大陸ごとのサッカー連盟に所属するかたちで、FIFAに統括されている。したがって、街角のサッカークラブでも、サッカー協会に加盟した時点で、FIFAにつながるのが、サッカーの仕組みなのである。2004年に、創設100周年を迎えた。その直前の2002年日韓大会は、巨大化し、多くの課題を抱えるFIFAにとって、大きな節目の大会でもあった。


FIFAについてもっと詳しく↓
FIFA(国際サッカー連盟)について




FIFA(国際サッカー連盟)

国際サッカー連盟 (フランス語 : Fédération Internationale de Football Association)は、サッカーの国際統括団体。略称はFIFA(フィファ)。本部はスイスのチューリッヒにおかれている。現在の会長はジョセフ・ゼップ・ブラッター(スイス)。FIFAワールドカップの主催がもっとも大きな任務となっている。

FIFAの傘下には、以下の6つの大陸連盟がある。


■国際サッカー連盟(FIFA)

◇アジアサッカー連盟(AFC)
◇アフリカサッカー連盟(CAF)
◇欧州サッカー連盟(UEFA)
◇オセアニアサッカー連盟(OFC)
◇北中米カリブ海サッカー連盟(CONCACAF)
◇南米サッカー連盟(CONMEBOL)

各国のサッカー協会は、これらの大陸連盟を通じてFIFAに加盟している。

イギリス内の4協会(イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの各協会)は、FIFAより早く発足していたことから、特権的な地位が与えられている。例えば、7人いるFIFA副会長の1人は、この4協会から選ばれることになっている。また、サッカーのルールや重要事項に関しては、FIFAとこの4協会で構成する国際サッカー評議会が決定することになっている。


■FIFAの歴史

1904年5月21日、オランダ・スイス・スウェーデン・スペイン・ドイツ・デンマーク・フランス・ベルギーの8カ国で創立。初代会長は、ロベール・ゲラン(フランス)。欧州以外では南アフリカが1909年に加盟したのが最初で、その後加盟国を増やし、現在、世界で207協会が加盟する(主権を持った独立国だけでなく、地域(たとえば中国の特別行政区である香港や、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国を構成するイングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズはそれぞれ別々にFIFAに加盟している)ごとの加盟が認められるため、国際連合加盟国数を上回る)。日本サッカー協会は1929年に加盟。


■FIFAランキング

FIFAは毎月、各国のナショナルチームのランキングであるFIFAランキングを発表している。これまでに二度の制度改正を経ており、主観的要素を完全に排した、国際Aマッチ(各国のベストの代表メンバーによって組まれたチームどうしによる試合)の結果のみに基づいて編まれるランキングとしてはかなり公平なものになっている。


■FIFAの主催する主な大会

FIFAワールドカップ
FIFAコンフェデレーションズカップ
FIFA U-20ワールドカップ
FIFA U-17ワールドカップ
FIFA女子ワールドカップ
FIFA U-20女子ワールドカップ
FIFAクラブワールドカップ
FIFAフットサルワールドカップ
FIFAビーチサッカーワールドカップ

2006年に「FIFAコンフェデレーションズカップ」を除く世界大会の名称が「FIFA ワールドカップ」に統一された。


◇クリーンスタジアム

これらのFIFA主催大会の期間中は、公式パートナー・サプライヤー以外の企業名は全て排除される事となっている。そのため使用されるすべての会場は大会期間中のみ通常の広告看板は全て目隠しされ、FIFA管理エリア内は公式パートナーの広告のみに制限される。この状態を「クリーンスタジアム」という。またこのルールはネーミング・ライツを採用しているスタジアム名にも適用され、同じく一時的な名称変更が行われる。

例:
日産スタジアム→横浜国際総合競技場
AOLアレナ→FIFAワールドカップスタジアム・ハンブルク(ドイツ)
アリアンツ・アレナ→FIFAワールドカップスタジアム・ミュンヘン(ドイツ)


■FIFAによる表彰

FIFA最優秀選手賞
FIFA 100


■FIFA歴代会長一覧

ロベール・ゲラン(フランス) 1904年 - 1906年
ダニエル・ウールフォール(イギリス) 1906年 - 1918年
ジュール・リメ(フランス) 1921年 - 1954年
ルドルフ・ジルドライヤー(ベルギー) 1954年 - 1955年
アーサー・ドルリー(イギリス) 1956年 - 1961年
スタンリー・ラウス(イギリス) 1961年 - 1974年
ジョアン・アベランジェ(ブラジル) 1974年 - 1998年
ジョセフ・ゼップ・ブラッター(スイス) 1998年 -




サッカーの歴史

■日本のサッカー年表


■世界のサッカー史


■ワールドカップの軌跡


■日本サッカー殿堂


■FIFA誕生までのサッカー









ジョージ・ウェア

ジョージ・ウェア(George Manneh Oppong Ousman Weah、1966年10月1日 - )は、リベリア・モンロビア出身の元同国代表サッカー選手。

バロンドールの規定が改定されて最初の年である1995年にFIFA最優秀選手と欧州最優秀選手を受賞。GK以外ならほとんどのポジションをこなす。人間離れした身体能力と決定力を誇り、ミラン時代のラツィオ戦では一人スルーパスからゴールを決めたことも有名。中でも語り草なのは、96~97シーズンの開幕戦で自陣ペナルティエリア付近から約80メートルを相手ゴール前まで単独でドリブル突破した上で決めたゴールであろう。翌日の地元紙は「サンシーロにUFO出現」の見出しを掲げた。所属クラブでの得点数はそれほど多くはなかったが、印象的なゴールが多い。


■ジョージ・ウェアの経歴

モンロビア郊外のシャンティタウンにて14人兄弟の3番目として生まれる。 幼い時に父親を失い、祖母に育てられた彼の最初の夢はモンロヴィアのテレフォンオペレーターになることだった。

15歳の時に当時3部リーグ所属の地元のクラブ、ヤング・サバイバーズと契約するとゴールキーパーとしてキャリアをスタート。 すぐに得点をする事へ楽しさを覚え、フォワードへ転向、30試合に出場し31得点を記録。チームを2部リーグに昇格させる。 その後1部リーグのクラブを経て、1986年にはリベリアで最高のチームであったインビンシブル・イレブンへ移籍。 このクラブではキャプテンを務め得点王にもなる活躍を見せ、カメルーンのスカウトの目にとまり1987年に国外デビューを果たす。 1シーズンカメルーンで過ごしたウェアはその後フランスのASモナコへ移籍しそのポテンシャルを開花させ、1991年にフランスカップをもたらすと、翌年にはチームを欧州カップ・ウィナーズカップの決勝に導いた。 その後移籍したパリSGでもチームをリーグ優勝に導くと、1995年には再びフランスカップをチームにもたらす。

こうしてフランスで数々の成功を収めたウェアは1995年、アフリカ人として初のバロンドールを受賞し、同年にFIFA選出の世界年間最優秀選手賞も受賞。最後に自身3度目(89年、94年、95年)となるアフリカ年間最優秀選手賞と、この年の個人タイトルを総なめにしたのであった。 マルコ・ファン・バステンの後釜として加入したACミランでは数多くのゴールをあげた。驚異的な身体能力を誇り、「リベリアの怪人」と呼ばれた。 その後膝の怪我等も有り、99/00シーズン途中にチェルシーに移籍。以降マンチェスター・シティ、マルセイユ、アル・ジャジーラと渡り歩き2002/2003シーズンをもって現役引退した。

2005年、リベリアの大統領候補として立候補するも、元世界銀行職員、国連開発計画アフリカ局長で“鉄の女”とも言われるエレン・ジョンソン・サーリーフに僅差で敗れた。


■ジョージ・ウェアの所属クラブ

ヤング・サバイバーズ(リベリア)1981-1983
ボンラン・カンパニー(リベリア)1983-
マイティ・バロール(リベリア)1984
インビンシブル・イレブン(リベリア)1985-1987
トネール・ヤウンデ(カメルーン)1987-1988
ASモナコ(フランス)1988-1992
パリ・サンジェルマン(フランス)1992-1995
ACミラン(イタリア)1995-2000
チェルシーFC(イングランド)2000
マンチェスター・シティ(イングランド)2000-2001
オリンピック・マルセイユ(フランス)2000-2001
アル・ジャジーラ(UAE)2001-2003






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オーガスティン・オコチャ

オーガスティン・オコチャ(Augustine Azuka Okocha、1973年8月14日 - )は、ナイジェリア・エヌグ出身の同国代表サッカー選手(MF)。

ニックネームはジェイジェイ(Jay-Jay)。ナイジェリア代表の中心選手。高速ドリブルと変幻自在のトリックプレーでDFを圧倒する。またプレイスキックと強烈なミドルシュートも武器。

1993年のカールスルーエSC戦にてオコチャは、ドリブルでDFをかき回し、オリバー・カーンからゴールを奪取。このときオコチャは最優秀ゴール賞を獲得している。

日本のストリートブランド『A BATHING APE』が好きで、チームメイトの中田にお土産としてねだることもあるとか。


1990年 地元エヌグのレンジャース・インターナショナルにてデビュー
1991年 ボルシア・ノインキルヘンに所属
1993年 ナイジェリア代表デビュー
1993年 アイントラハト・フランクフルトに所属(アイントラハト・フランクフルトの4年間、通算18ゴールを記録する。)
1993年 カールスルーエ戦での勝利で年間最優秀ゴール賞獲得。
1996年 アトランタオリンピックに出場。金メダルを獲得。
2004年 FIFA 100に選出。


■オーガスティン・オコチャの経歴

エヌグ・レンジャーズ(ナイジェリア) 1990-1991
ボルシア・ノインキルヘン(ドイツ) 1991-1992
アイントラハト・フランクフルト(ドイツ) 1992-1996
フェネルバフチェ(トルコ) 1996-1998
パリ・サンジェルマン(フランス) 1998-2002
ボルトン・ワンダラーズ(イングランド) 2002-2006
カタールSC(カタール) 2006-






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エル・ハッジ・ディウフ

エル・ハッジ・ディウフ(El-Hadji Diouf、1981年1月15日-)は、セネガルのサッカー選手。

「セネガルのクライフ」の異名を取る、味方を活かすプレイに長けたフォワード。2002年ワールドカップ日韓大会ではセネガル代表の決勝トーナメント進出に貢献した。

2001年、2002年のアフリカ年間最優秀選手賞に輝き、2004年にはペレ選出のFIFA 100にも名を連ねた。


■エル・ハッジ・ディウフの所属クラブ

FCソショー(フランス)1998-1999
スタッド・レンヌ(フランス)1999-2000
RCランス(フランス)2000-2002
リヴァプールFC(イングランド)2002-2004
ボルトン・ワンダラーズ(イングランド)2004-


■エル・ハッジ・ディウフの代表歴

セネガル代表(2000年-)
2002年 アフリカネイションズカップ(準優勝)
2002年 FIFAワールドカップ(ベスト16)


■エル・ハッジ・ディウフの個人タイトル

2001年 アフリカ年間最優秀選手賞
2002年 アフリカ年間最優秀選手賞
2004年 FIFA 100






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ロジェ・ミラ

ロジェ・ミラ(Roger Milla、本名Albert Roger Miller、1952年5月20日 - )は、カメルーン・ヤウンデ出身の元同国代表サッカー選手(FW)。アフリカサッカーが注目され始めた頃の、偉大なるサッカー選手の一人として知られる。

幼少時は鉄道員である父に連れられ、頻繁に転居。13歳の時、カメルーンのドゥアラにあるクラブと契約し、プロサッカー選手としてスタートを踏んだ。18歳の時、別のドゥアラのクラブで初めてのリーグ制覇を成し遂げた。1976年、トネール・ヤウンデ(en:Tonnerre Yaoundé)に移籍したミラは、そこでアフリカゴールデンボール賞を獲得。

1977年、フランスのヴァランシエンヌFCに移籍したが、控え選手のまま2年間を過ごした。1979年にはモナコに移籍したが、ここでもベンチと故障者リスト入りの往復であった。翌年はバスティアへ移籍するも、目立った活躍を見せることはなかった。

1984年にサンテティエンヌへ移籍し、ようやくレギュラーの地位を獲得。その後、1986年から1989年までモンペリエでスター選手として活躍した後に引退、コーチとしてクラブに残った。

フランスでプレーしている間、1978年にはカメルーン代表に初めて選出され、1982年のスペインW杯に出場したが、初戦のペルー戦で素晴らしいゴールを決めたものの反則により惜しくも取り消され無得点の引分けに終わった。この時のカメルーンは3引分けの3位と1次リーグで敗退したものの健闘した。2年後の1984年にはロサンゼルスオリンピックに出場した(1勝2敗の3位で一次リーグ敗退)。1987年に代表チームから退き、その後インド洋のレユニオンに居を構え、引退生活を送るところだった。

しかし1990年、ミラはカメルーン大統領ポール・ビヤから電話で代表復帰の要請を受け、現役復帰を決断。「不屈のライオン」の一員としてイタリアへ向かい、イタリアW杯でのミラは、大会を盛り上げたスター選手の一人となった。

開幕戦である前回王者のアルゼンチン戦では2人の退場者を出しながらも1-0で勝利(ミラは得点無し)、2戦目のルーマニア戦では2得点を挙げて勝利(2-1)に貢献した。決勝ラウンド1回戦でもコロンビアから延長後半で2得点を挙げ、準々決勝進出を果たした。準々決勝ではイングランドに途中までリードしながら延長戦の末惜しくも敗れた(ミラは得点無し)が、「不屈のライオン」の躍進は世界に衝撃を与えた。

ミラはこの大会中4ゴールを挙げ、今日ではすっかりお馴染みとなったコーナーポストを囲んでの歓喜の踊りと共に、世界中のサッカーファンに鮮烈な印象を残した。今日のアフリカチームの躍進は周知のことだが、その嚆矢となったのは紛れもなくこの時の「不屈のライオン」であり、ミラであった。

ミラは4年後の1994年、再びアメリカW杯のピッチに立った。この時、ミラは既に42歳になっていた。ミラは高齢の為に前回大会に比べ出場時間が極端に減った。その為か、この大会でのカメルーン代表は一転していいところなく1分け2敗の成績に終わり一次リーグで姿を消した。(アフリカ代表チームにありがちなボーナスを巡っての対立や、ミラだけが特別視されることへの周りの選手の反感もあったと言われてはいる。)特に最終戦となったロシア戦ではオレグ・サレンコのワールドカップ記録となった1試合5得点を含む1-6で惨敗。しかし、この試合でカメルーン唯一のゴールを決めたのは、後半から投入された直後のミラだった。この時のミラは42歳1か月8日であり、ワールドカップにおける最年長ゴールとして名を刻んでいる。

現在は、カメルーンの特別親善大使を務めている。2004年には、FIFA 100(国際サッカー連盟の100周年記念として、ペレによって選ばれた125人の「最も偉大なサッカー選手」)の一人として選ばれた。


■ロジェ・ミラの所属クラブ

レクトール・ドゥアラ(カメルーン)1965-1970
レパード・ドゥアラ(カメルーン)1970-1972
トネール・ヤウンデ(カメルーン)1972-1977
ヴァランシエンヌFC(フランス)1978-1979
ASモナコ(フランス)1979-1980
SCバスティア(フランス)1980-1984
ASサンテティエンヌ(フランス)1984-1986
モンペリエHSC(フランス)1986-1989
サンピエロワーゼ(レユニオン)1989-1990






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FIFA 100 アフリカ(5ヶ国 5名)

■ガーナ(1)
アベディ・ペレ

■カメルーン(1)
ロジェ・ミラ

■セネガル(1)
エル・ハッジ・ディウフ

■ナイジェリア(1)
ジェイジェイ・オコチャ

■リベリア(1)
ジョージ・ウェア









ゲオルゲ・ハジ

ゲオルゲ・ハジ (Gheorghe Hagi、1965年2月5日 - )は、ルーマニア出身のサッカー選手。

「東欧のマラドーナ」と呼ばれた。 彼が世界的に有名になるきっかけとなったのが、1994年ワールドカップでのルーマニアの躍進だった。ハジは背番号10、キャプテンとしてルーマニア攻撃陣の核となり予選リーグから破竹の快進撃を続けた。

ハジの左足から放たれるボールは美しい軌跡を描き、常にハイライトシーンを演出、奇跡的なゴールも生んだ。予選リーグ、バルデラマ、アスプリージャ、バレンシア、リンコーンらを擁し優勝候補の一角だったコロンビアを奈落の底に沈めた。ルーマニアの3点全てに絡み、特に2点目の相手GKのポジションミスを突いた左サイドからの30mのロングシュートは度肝を抜いた。ボール扱いにおいては大会屈指の実力を持ち、パス、シュート、トラップとまさに「東欧のマラドーナ」と呼ぶに相応しい活躍をみせた。(本人はそう呼ばれるのを好んでいないらしい。)

チームは惜しくも準々決勝で敗れたが、酷暑で各国が消極的な試合をする中、相手チームは電光石火のカウンターアタックでヒヤリとしたことだろう。ハジは大会後にFCバルセロナに移籍し、同じくワールドカップで活躍したストイチコフやロマーリオなどとクライフ監督のもとドリームチームの一員となったが、出場機会は少なく本領を発揮できなかった。

むしろ1996年から2001年まで在籍したトルコのガラタサライでの活躍の方が有名。 1996年当時、トルコサッカー界は2006年現在と違いヨーロッパの弱小国家のひとつであり、ワールドカップ出場は夢のまた夢であり、クラブシーンにおいても大会本戦出場はおろか予備予選で勝つ事すらもままならない状況であった。そんな中、彼はクラブ関係者からの強い要請とバルサでの出場機会激減を期に移籍してくる。彼はチームのキャプテンとしてだけでなく「サッカー選手としての心得」「プロとしての心得」をガラダサライの選手たちに植え付けて行って、後のトルコサッカー界隆盛の礎を築く。2000年のUEFAカップ優勝を成し遂げた。


しかし選手として最も世界を沸かせたのは、94年のW.Cであろう。プレイスタイルとしては、典型的な10番司令塔タイプで、その短気な性格からよくカードをもらう事もあり、天才肌な選手といえる。 そのポジションでは現役中トップクラスを維持し続けた。2001年、現役引退。

2004年3月、ペレが選んだ『偉大なサッカー選手100人』で同国から唯一選定された。


■ゲオルゲ・ハジの所属クラブ

1982年-'83年 - ファルル・コンスタンツァ(ルーマニア)18試合17得点
1983年-'86年 - スポルトゥル・ストゥデンツェスク(ルーマニア)108試合58得点
1986年-'90年 - ステアウア・ブカレスト(ルーマニア)97試合76得点
1990年-'92年 - レアルマドリード(スペイン)64試合19得点
1992年-'94年 - ブレッシア(イタリア)60試合14得点
1994年-'96年 - FCバルセロナ(スペイン)36試合7得点
1996年-2001年 - ガラタサライ(トルコ) 167試合78得点






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ルイス・フィーゴ

ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ(Luís Filipe Madeira Caeiro "FIGO", 1972年11月4日 - )はポルトガル・リスボン出身の元同国代表、サウジ・プレミアリーグ・アル・イテハド所属のサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー(主にサイドアタッカー)。家族は元モデルのスウェーデン人のヘレンさんとの間に3女。


■ルイス・フィーゴ

稀代のドリブラー。ドリブルはスピードに乗った状態から相手のタイミングを外し抜き去っていく。鋭いカーブのかかった正確なセンタリングを上げ、プレースキックも得意とする。ポルトガル代表では大舞台でなかなか運に恵まれないが、リーガ・エスパニョーラでは指折りのクラッキであった。

ポルトガルの強豪クラブ、スポルティング・リスボンでキャリアをスタート。ポルトガルのFIFAワールドユース選手権V2時の主力メンバーであり、ルイ・コスタ、パウロ・ソウザ、フェルナンド・コウト、ジョアン・ピント等と共にポルトガルの将来を担うであろう「ゴールデン・ジェネレーション(黄金の世代)」と呼ばれた。

1995年にスペインのバルセロナへ移籍。その破壊力抜群の突破力とチャンスメイクで右サイドを支配し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、ドリームチーム(1988年-1996年のヨハン・クライフ監督時代)以降のバルセロナのシンボルとして絶大な人気を得る。また自身も2000年の欧州年間最優秀選手を受賞。

2000年にバルセロナからライバルチーム、レアル・マドリードへ電撃移籍。これに反発したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという大変な騒動にまで発展した。過去にもミカエル・ラウドルップやベルント・シュスターなどバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいた。しかしフィーゴは移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と嘘の発言をし、また、移籍の理由が年俸が多いという理由のみであり、バルセロナのソシオの信頼を踏みにじったまさしく裏切りといえる移籍であった。そのためマドリードを去った今も尚、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないとするバルセロニスタが圧倒的である。

また、バルセロナのホームスタジアム、カンプ・ノウに初めて乗り込んだ試合ではフィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうとすればスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして、約10分間試合が中断されるなど荒れに荒れた。結果は2-0でバルセロナが勝利し、試合後には宿敵レアル・マドリードと裏切り者のフィーゴを倒したという事もあり、ほとんどのバルセロナの選手がフィーゴに声をかけに行くシーンが印象的であった。

伝統的なライバル間の移籍という大きなプレッシャーの中、レアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。尚、フィーゴ以降のレアル・マドリードはスター獲得でのクラブ強化に重点を置いている。また同チーム在籍中にはリーガ通算100アシストという記録も成し遂げている。

2004-2005シーズンは当時チームの監督であったルシェンブルゴとの確執により出場機会が減少し、2005-2006シーズンからはインテルでプレーしている。レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたがその能力は未だ健在で、セリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍している。

2006 FIFAワールドカップ予選においてポルトガル代表に復帰。 ポルトガル代表は快進撃を続け、無敗で予選通過。40年ぶりのベスト4進出に貢献した。 FIFAワールドカップ2006ドイツ大会リーグ初戦のアンゴラ戦では得意のドリブルから絶妙なアシストを見せた。 その後ドイツとの3位決定戦を最後に代表から引退したものの、今後も別の形で代表に携わっていきたいと語っている。

2006年12月にサウジ・プレミアリーグの強豪アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰された。当初インテル側は移籍を否定していたが、1月の初め、8月にアル・イテハドへ移籍することが正式に発表された。


ちなみにフィーゴの好物は寿司。バルセロナに日本食屋を出店したほど。来日するたびにいつも寿司を食べている。 語学にも堪能で、母国語、英語、スペイン語、スウェーデン語、イタリア語などが扱える。 真面目そうだが、一度だけ浮気をしたことがある。


■ルイス・フィーゴの所属チーム

1989年-1995年 - スポルティング・リスボン(ポルトガル)
1995年-2000年 - バルセロナ(スペイン)
2000年-2005年 - レアル・マドリード(スペイン)
2005年-2006年 - インテル(イタリア)
2007年-      - アル・イテハド(サウジアラビア)


■ルイス・フィーゴのタイトル

◆クラブ

▽スポルティング・リスボン時代
ポルトガルカップ優勝 1回(1994/95)

▽FCバルセロナ時代
UEFAカップウィナーズカップ優勝 1回(1996/97)
UEFAスーパーカップ優勝 1回(1997)
スペインリーグ1部優勝 2回(1997/98、1998/99)
コパ・デル・レイ優勝 2回(1996/97、1997/98)
スペインスーパーカップ 2回(1995、1997)

▽レアル・マドリード時代
UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(2001/02)
UEFAスーパーカップ優勝 1回(2002)
トヨタカップ優勝 1回(2002)
スペインリーグ1部優勝 2回(2000/01、2002/03)
スペインスーパーカップ 2回(2001、2003)

▽インテル時代
セリエA優勝 1回(2005/2006)


◆個人
欧州年間最優秀選手 1回(2000年)
FIFA最優秀選手 1回(2001年)







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マヌエル・ルイ・コスタ

ルイ・マヌエル・セーザル・コスタ(Rui Manuel César Costa, 1972年3月29日 - )は、ポルトガル・リスボン出身の元同国代表、ベンフィカ所属のサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー(トップ下)。ポルトガルが生んだファンタジスタ。


■マヌエル・ルイ・コスタの来歴

1991年地元開催のワールドユースで優勝を果たし、ルイス・フィーゴらとともにポルトガルサッカー黄金世代の筆頭となる。

1991年、ベンフィカでプロデビュー。1993年のスイス戦でA代表デビューを果たす。1994年にはイタリアセリエAのフィオレンティーナに移籍し、ガブリエル・バティストゥータとのコンビでさらなる高みへ上る。ポルトガル代表のエースとしても成長し、1996年の欧州選手権ではベスト8、2000年の欧州選手権ではベスト4へチームを導く。

2001年にはイタリアの名門・ACミランへ移籍。2002年日韓ワールドカップで念願のW杯出場を果たすも、怪我からコンディションを崩しており本大会では3試合で途中交代、途中出場、出場なしと大きな活躍を見せることは出来ないまま大会を去った。EURO2004を最後にポルトガル代表を引退した。33歳となっても華麗なプレーで観客を楽しませていたが、ブラジル代表のカカの活躍により出場が減り、05-06シーズンをもってミラノを去り、古巣ベンフィカに復帰することとなる。

ペレが選んだ偉大なサッカー選手100人、『FIFA 100』に選ばれた。


■マヌエル・ルイ・コスタのプレイスタイル

高度のテクニックをベースに攻撃を操る天才的なパサー。常に敵との間合いを意識した緩急を織り交ぜたドリブルで敵陣の隙間を縫うようにボールを進め、DFがチェックにいこうとした瞬間に鋭いスルーパスを放つ。姿勢の良いボールキープでピッチ全体の視野を確保、両腕を広げるようにして進む独特のドリブルと鋭いグラウンダーパスで見る者を魅了している。 シュートでは、ゴールに叩き込むというより、パスの特徴をそのままにした狙った位置にパスを出すような打ち方をすることがある。


■マヌエル・ルイ・コスタの所属チーム

ベンフィカ 1991-1994
フィオレンティーナ 1994-2001
ACミラン 2001-2006
ベンフィカ 2006-





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エウゼビオ

エウゼビオ(Eusébio da Silva Ferreira , 1942年1月25日-) はモザンビーク・ロレンソマルケス(現在のマプト)出身、ポルトガル国籍のサッカー選手。ポジションはFW。愛称は『黒豹』。


爆発的な加速力を誇り、屈強で柔軟な身体から放たれる強烈なシュートでゴールを量産した。シュートの際、軸足をボールの前に大きく踏み出すエウゼビオのシュートフォームは釜本邦茂に強い影響を与えた。

1942年、当時ポルトガル領だったモザンビークで生まれ、1957-60年までスポルティング・マルケスに所属。1960年、ジョゼ・カルロス・バウエルに見出され、ベンフィカのスカウトによってにポルトガルへ連れて来られ、直後に契約。ベンフィカ在籍中の15シーズンでリーグ優勝10回、カップ優勝5回、得点王7回(1963-64、64-65、65-66、66-67、67-68、69-70、72-73)、ゴールデン・ブーツを1969-70(42得点)、72-73(40得点)の2度獲得、1965年にはバロンドールも受賞した。

1961年10月8日にはルクセンブルク戦でポルトガル代表デビューを果たす。1966年イングランドワールドカップ準々決勝・北朝鮮戦ではサッカー史に残る驚愕のプレーをやってのける。前半24分までに0-3とリードされるが前半27分、42分に得点を決め、後半56分に同点ゴール、直後の59分にはPKを決め1人で4連続得点を叩き出し試合をひっくり返してしまった。試合は更に1点を追加したポルトガルが5-3で大逆転勝利を収めた。最終順位は3位、自身も6試合出場9得点で得点王になった。その後1975年のロードアイランド・オセアナース(USA)を皮切りに北中米のクラブを渡り歩き、1978年現役を引退した。

人格的にも非常に優れた人物で、試合終了後には相手チームを称えることを忘れず、他の選手からも愛された。


■エウゼビオの所属チーム

1957-60年 スポルティング・マルケス(モザンビーク)
1960-75年 ベンフィカ (ポルトガル)
1975-75年 ロードアイランド・オセアナース(USA)
1975-75年 ボストン・ミニュトメン(USA)
1975-76年 CFモンテレイ(メキシコ)
1976-76年 トロント・メトロス・クロアチア(カナダ)
1976-77年 ベイラメール(ポルトガル)
1977-77年 ラスベガス・クイックシルバー(USA)
1977-77年 ウニオン・トマール(ポルトガル)
1977-78年 ニュージャージー・アメリカンズ(USA)


■エウゼビオのポルトガル代表としての経歴

デビュー戦 対ルクセンブルク戦 (1961年10月8日、1962 サッカー・ワールドカップ予選、於:ルクセンブルク)
出場試合数64試合、ゴール数41得点





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ズビグニェフ・ボニエク

ズビクニェフ・カジミエシ・ボニエク(Zbigniew Kazimierz Boniek、1956年3月3日 -)は、ポーランド・ブィドゴシュチュ出身の元同国代表サッカー選手(FW、MF)。

プロデビューしてからDFからFWへ転身。しかし、「ポーランド史上最高の選手」という評価の通り、自国を3度のW杯出場(うち1度は3位進出)に導いた。また、ユヴェントスでコンビを組んだミシェル・プラティニとの連携プレーは、異次元の輝きを放ち、1983-1984シーズンのセリエA優勝、そして、翌1984-1985シーズンのUEFAチャンピオンズカップ優勝(ヘイゼルの悲劇を参照)に多大なる貢献を果たした。


■ズビグニェフ・ボニエクの選手経歴

ザビシャ・ビドゴシチ (ポーランド) 1971-1975
ビジェフ・ウッチ (ポーランド) 1975-1982
ユヴェントス (イタリア) 1982-1985
ローマ (イタリア) 1985-1988







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ジャン・マリー・プファフ

ジャン・マリー・プファフ(Jean-Marie Pfaff, 1954年12月4日 - )は、ベルギー・ブリュッセル出身の同国の80年代を代表するサッカー選手(GK)。

代表レベルではEURO1980において決勝に進出。これは今のところ、同国サッカー史上において、最も優勝に近づいた出来事である。また1986年のメキシコW杯でもチームをベスト4に導くなど、エンツォ・シーフォとともにベルギーサッカー史に無くてはならない活躍を見せる。

クラブレベルでは弱小クラブであったべべレンを1978-1979シーズンのリーグ制覇に導く。82年のW杯後にドイツの名門、バイエルン・ミュンヘンに鳴り物入りで入団。ゼップ・マイヤーの後継者として、このドイツの名門のゴール・マウスを任されると、その期待を裏切らぬ活躍を見せ、多くの勝利に貢献した。 晩年にはリエージュ(ベルギー)、トラブゾンシュポル(トルコ)と渡り歩いて、36歳で現役を引退した。

プレースタイルは、俊敏性に長け、判断よくゴールを飛び出し、ハイボールにも強い。最後列から味方を鼓舞し、自軍の士気を高める、指揮官タイプともいえる。

▽ポジション GK
▽身長/体重 180cm/80kg
▽代表歴 62試合0得点
▽代表デビュー 1976/5/22(対オランダ)


■ジャン・マリー・プファフの所属クラブ

KSKベベレン(ベルギー)1970-1982
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)1982-1988
リールセSK(ベルギー)1988-1989
トラブゾンスポール(トルコ)1989-1991







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フリスト・ストイチコフ

フリスト・ストイチコフ(Христо Стоичков, Hristo Stoichkov, 1966年2月8日 -)はブルガリア出身の元同国代表サッカー選手(FW)、現リーガ・エスパニョーラ・セルタ・デ・ビーゴ監督。


■フリスト・ストイチコフの経歴

少年時代は陸上選手として活躍し、100m走でブルガリアのチャンピオンになったこともある。 1976年に地元のサッカークラブ、マリツァ・プロフディフに入り、ヘブロス・ハルマンを経て1985年に国内最強のクラブであるCSKAソフィアに移籍。1989年-1991年のシーズンには38得点を挙げ、ヨーロッパのリーグでの最多得点者に与えられるゴールデンブーツ賞を受賞した。

その後バルセロナに移籍、1991年-1992年のシーズンにはUEFAチャンピオンズカップの優勝に大きく貢献した。 また1992年のトヨタカップではサンパウロに敗れはしたものの、先制点となる20m弾丸シュートを決めた。1994年にはバロンドールを受賞している。

現役時代終盤にはJリーグ(柏レイソル)やアメリカMLSでプレー。なお、バロンドール受賞者唯一のJリーガーである。 2003年に引退。

2004年7月から2007年4月までブルガリア代表の監督を務めたが、成績不振により辞任。同月にセルタ・デ・ビーゴの監督に就任した。


■フリスト・ストイチコフのブルガリア代表

1994年に開かれたアメリカ・ワールドカップでは、今まで5回出場しながら1勝もあげることのできなかったブルガリアをクラシミール・バラコフと共にベスト4に導いた。この大会ではベスト4を懸けたドイツ戦での試合を決めたフリーキックを含め6ゴールを挙げこの大会の得点王に輝いた。

国際Aマッチには83試合に出場し、37得点を挙げた。


■フリスト・ストイチコフの評価

スピードと力強さを兼ね備え、左足での正確なプレースキックなど高い技術を持ち左右どちらのサイドでもプレー出来、また正確なインステップキックでのシュート力・決定力の高さは抜群だった。 サッカー史上最高のウインガーの一人。 左足のつま先で軽くタッチしながら左半身で持ち、軽やかに抜いていくドリブルは分かっていても止められない事で有名だった。

また、「ブルガリアサッカー史上最高の選手」といわれるほど高い評価を得ている。2004年3月にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』にブルガリアから唯一選出された。

その一方で、気性の激しい性格から敵・味方双方に怒鳴り散らしたり、審判に執拗に食い下がって抗議する場面もしばしばみられ、CSKAソフィア時代には無期限出場停止処分を受けたこともある。バルセロナにおいては、抗議の域を超えて審判の足を踏みつけ、2ヶ月間の出場停止処分を受けた。またインタビューではよく大口を叩くことで知られ、物議を醸すこともあった。

バルセロナでキャリアのピークを迎えたためライバルのレアル・マドリーの事を嫌悪しており、マドリーに対する批判をたびたび公言している。(その為バルサファンからは引退した今でも人気がある)


■フリスト・ストイチコフの経歴

マリツァ・プロフディフ(ブルガリア)1976年-1984年
ヘブロス・ハルマンリ(ブルガリア)1984年-1985年
CSKAソフィア(ブルガリア)1985年-1990年
FCバルセロナ(スペイン)1990年-1995年
パルマAC(イタリア)1995年-1996年
FCバルセロナ(スペイン)1996年-1998年
CSKAソフィア(ブルガリア)1998年
アル・ナスル(サウジアラビア)1998年
柏レイソル(日本)1998年-1999年
シカゴ・ファイアー(アメリカ合衆国)2000年-2003年
D.C. ユナイテッド(アメリカ合衆国)2003


■フリスト・ストイチコフの指導者経歴

ブルガリア代表 2004年7月-2007年4月
セルタ・デ・ビーゴ(スペイン) 2007年4月-


■その他のエピソード

大相撲の琴欧洲は彼のファン。 自身が“角界のベッカム”とあだ名されていることについて、「僕はベッカムよりストイチコフのほうが好きだ」という旨の返答をした。







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ロベール・ピレス

ロベール・エマニュエル・ピレス(Robert Emmanuel Pirès、1973年10月29日 - )は、フランス・ランス出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。2006-07シーズン現在はスペイン、リーガ・エスパニョーラのビジャレアルCFに所属する。フランス代表にも長く名を連ねる。

高いキープ力を持つ巧みなドリブルと、得点感覚に優れたサイドアタッカー。派手さはあまりないが一つ一つのプレーを正確に行い、シュートやパスの精度も高い。左右問わずにプレーできるほか、中央(セントラルミッドフィールダー)もこなすユーティリティー性も持ち合わせる。

ポルトガル人の父親とスペイン人の母親の間に生まれるが、本人は生まれも育ちもフランスで、3ヶ国語を自在に操る。


■ロベール・ピレスの経歴

8歳で入団した地元のクラブ・サンタンヌで1983年、11歳以下のジュニア全国大会で優勝し、人生最初の優勝カップを手にする。その後スタッド・ランス=シャンパーニュのフォーメーションセンターを経て、1992年にFCメッツとプロ選手契約。1993年4月、デイヴィジョン1(現在のリーグ・アン)デビュー。程なくチームの司令塔として頭角を現し、フォワードのシリル・プジェとのコンビは当時「PPガンマンズ」と呼ばれ、爆発的な攻撃力を誇った。

1996年にフランスリーグカップで優勝。その活躍によりフランス代表に招集され、1996年8月31