サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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メッシーナ(F.C. Messina Peloro s.r.l.)は、イタリア・メッシーナを本拠地とするサッカークラブチーム。

メッシーナはメッシーナ海峡を挟んでレッジョ・ディ・カラブリアと向き合っており、レッジーナとの一戦はローカルダービーとして盛り上がりを見せる。

2004-2005シーズンにセリエAに昇格。柳沢敦が在籍していたことで日本でも馴染みの深いクラブチーム。2006-2007シーズン、チーム2人目の日本人選手として小笠原満男が在籍中である。

2005-2006シーズン終盤に騒がれたセリエAの八百長問題で、メガクラブの処分後にレッジーナと共に疑いがかけられたが、処分は下されなかった(レッジーナは減点)。


■FCメッシーナの過去の成績

2000-2001 セリエC1 2位 昇格
2001-2002 セリエB 12位
2002-2003 セリエB 13位
2003-2004 セリエB 3位 昇格
2004-2005 セリエA 7位
2005-2006 セリエA 18位 







Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
SSラツィオ(Società Sportiva Lazio s.p.a) は、イタリア・ローマ市(ラツィオ州)を本拠地とするサッカークラブチーム。

前身は、イタリア人将校ルイジ・ビビアレッリが創立した「ソシエタ・ポデスティカ・ラツィオ(ラツィオ競歩協会)」。

ASローマとは同じスタディオ・オリンピコを本拠地とするが、ASローマは主としてローマ市内での人気が高く、SSラツィオは広くラツィオ州に支持者を持つ。この2チームのダービーマッチは「ローマデルビー」として盛り上がりをみせ、熱狂的なサポーター同士の暴力沙汰や器物損壊などの騒動も少なくない。

2006年7月14日、セリエAの八百長問題に関連して「セリエB降格および勝ち点-7点からのリーグ戦開始」との判決が下される。

2006年7月25日、控訴審判決においてセリエA残留、2006-2007シーズンの勝ち点-11でのシーズン開始と2005-2006シーズンの勝ち点-30点の判決が下された。この事件についてはカルチョ・スキャンダルの項を参考のこと。


■SSラツィオの過去の成績

1999-2000 セリエA 優勝
2000-2001 セリエA 3位
2001-2002 セリエA 6位
2002-2003 セリエA 4位
2003-2004 セリエA 6位
2004-2005 セリエA 10位
2005-2006 セリエA 6位






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ACシエナ(Associazione Calcio Siena s.p.a)は、イタリア・シエナを本拠地とするサッカークラブチーム。

長らくセリエCに所属していたが、2000-2001シーズンにセリエBに昇格。2003-2004シーズンにはセリエAに昇格した。

エンブレムのデザインがユヴェントスと似ている。





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カリアリ・カルチョ(Cagliari Calcio s.p.a.)は、イタリア・カリアリ(サルデーニャ島)を本拠地とするサッカークラブチーム。

1969-1970シーズンにセリエAで優勝。しかし近年はセリエAとセリエBを行き来するシーズンが続いている。なお、しばしば「カリャーリ」などと表記されることもある。


■カリアリ・カルチョの過去の成績

2000-2001 セリエB 11位
2001-2002 セリエB 12位
2002-2003 セリエB 8位
2003-2004 セリエB 優勝 昇格
2004-2005 セリエA 10位
2005-2006 セリエA 16位







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レッジーナ(Reggina Calcio 1914 s.p.a)は、イタリア・レッジョ・ディ・カラブリアを本拠地とするサッカークラブチーム。

レッジョ・ディ・カラブリアはメッシーナ海峡を挟んでメッシーナと向き合っており、FCメッシーナとの一戦はローカルダービーとして盛り上がりを見せる。

日本人選手では、2002年より2005年まで中村俊輔が所属していた。


■レッジーナの過去の成績

2000-2001 セリエA 15位 降格
2001-2002 セリエB 3位 昇格
2002-2003 セリエA 14位
2003-2004 セリエA 13位
2004-2005 セリエA 10位
2005-2006 セリエA 14位








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サンプドリア(Unione Calcio Sampdoria s.p.a)は、イタリア・ジェノヴァを本拠地とするサッカークラブチーム。

1946年にサンピエルダレネーゼとアンドレア・ドリアが合併して誕生。1980年代にはセリエAを代表するチームに成長し、1990年/1991年シーズンにはセリエA優勝を果たした。しかしその後は資金難により1998年/1999年シーズンにはセリエBに降格。一方で若手の育成には定評がある。

なお、2003年/2004年シーズンには日本の柳沢敦が所属していた。


■サンプドリアの過去の成績

2000-2001 セリエB 5位
2001-2002 セリエB 10位
2002-2003 セリエB 優勝 昇格
2003-2004 セリエA 8位
2004-2005 セリエA 5位
2005-2006 セリエA 14位






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ウディネーゼ(Udinese Calcio s.p.a)は、イタリア・ウディネに本拠地を置くサッカークラブチーム。

現在はセリエAに所属。近年はセリエAの中でも中位と健闘し、1997-1998シーズンは3位、2004-2005シーズンは4位という成績をおさめ、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。

かつては前日本代表監督・ジーコも在籍していた。


■ウディネーゼの過去の成績

1997-1998 セリエA 3位
2004-2005 セリエA 4位
2005-2006 セリエA 10位






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アスコリ・カルチョ(Ascoli Calcio 1898)は、イタリア・アスコリに本拠地を置くサッカークラブチーム。

1898年創設。当時の名称は「カンディド・アウグスト・ベッキ」であった。1905年に「アスコリ・ビゴル」に改称。1944-1945シーズンにアスコリの数チームが合併したのを経て、1973-1974シーズンにセリエAに初昇格。

以後低迷した時期もあったが、2004-2005シーズンはセリエB6位の成績を修めてトリノとのプレーオフに臨んだが敗退。しかしジェノアのセリエC1降格(八百長に対する制裁措置)、トリノのセリエA昇格見送り、ペルージャのセリエC1降格によって久々の昇格を果たした。


■アスコリ・カルチョの過去の成績

2004-2005 セリエB 6位
2005-2006 セリエA 11位




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ACFフィオレンティーナ(ACF Fiorentina SpA 以前の名称はAssociazione Calcio Fiorentina)は、イタリアのトスカーナ州フィレンツェを本拠地とするサッカークラブチーム。クラブカラーからヴィオラ(イタリア語で「紫」)の愛称で呼ばれる。


■フィオレンティーナの沿革

1925年創設。チーム名称は「フィレンツェの」あるいは「フィレンツェ人」を表す形容詞である。

全盛期にはリーグ戦、コッパ・イタリアなど公式戦で優勝する名門クラブだったが、1990年代後半における慢性的な赤字経営で親会社が破綻。2002年に4部リーグ(セリエC2)に強制降格させられた。その後チームは一度解散し、新チーム「フロレンティア・ヴィオラ」を結成(フロレンティアはフィレンツェの古称である)。スポンサー「フィオレンティーナ1926フロレンティナ」の下でセリエA復帰を目指した。2003年に「フィオレンティーナ」の商標権を買収し、2003-2004シーズンからフィオレンティーナのチーム名が復活。その年度の2部リーグ(セリエB)6位に入り、プレーオフでACペルージャを下し2年ぶりの1部リーグ(セリエA)復帰を決定した。2004-2005シーズンには中田英寿が在籍していた。

ユヴェントス、ACミラン、ラツィオと同様に、セリエAの八百長問題に関わったとして、2006年7月14日に「セリエB降格および勝ち点-12点からのリーグ戦開始」との判決が下される。同年7月25日の控訴審判決において、セリエA残留で2006-2007シーズンは-19点からのスタート、2005-2006シーズンの勝ち点-30点の判決が下った(カルチョ・スキャンダルの項を参照)。この判決を不服とした一部サポーターがフーリガン化し、フィレンツェ周辺の鉄道を一時不法占拠する事態ににまで発展した。


■フィオレンティーナの過去の成績

2000-2001 セリエA 9位
2001-2002 セリエA 17位 クラブの破産によりセリエC2(4部)まで降格
2002-2003 セリエC2 優勝 特例措置によりセリエBまで昇格
2003-2004 セリエB 6位 プレーオフを勝ち抜き昇格
2004-2005 セリエA 16位
2005-2006 セリエA 4位







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エンポリFC(Empoli Football Club 1920)は、イタリア・エンポリに本拠地を置くサッカークラブチーム。

1921年に創立。リーグ、カップともに優勝経験は無くセリエAとセリエBを行き来するシーズンが続く。

2004-2005シーズンはセリエB2位の成績を修め、セリエA昇格を果たした。


■エンポリFCの過去の成績

2001-2002 セリエB 4位 昇格
2002-2003 セリエA 12位
2003-2004 セリエA 16位 降格
2004-2005 セリエB 2位 昇格
2005-2006 セリエA 10位



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パルマ・フットボール・クラブ(Parma Football Club SpA, 昔はParma Associazione Calcio s.p.a.)は、イタリアのエミリア=ロマーニャ州パルマ市を本拠地とするサッカークラブチーム。

ニックネームはクロチャーティ(十字軍戦士)とジャッロブルー(黄色&青)。略称はパルマ、パルマFC。


■パルマFCの歴史

1913年7月27日、パルマ近郊に生まれた音楽家ジュゼッペ・ヴェルディの名を取り、ヴェルディ・フットボール・クラブ(Verdi Football Club)として誕生。1968年には、Parma Associazione Calcio s.p.a.(パルマAC)に改称。1990年代に入って地元パルマの食品会社パルマラットがオーナーになり、1990年、セリエA昇格を果たした。以後、何度もリーグの優勝争いに絡み、国内および国際タイトルを獲得するほどの強豪クラブに躍進、「ミラクル・パルマ」と呼ばれるようになる。

しかし2003年にパルマラットは破産、クラブは破産管財人の管理下に置かれることとなった。2004年に現在の名前に改称。

その後、2005年に前レアル・マドリード会長ロレンソ・サンスがクラブの買収を試みるも、資金不足が露呈し買収は不成立。その後は売却先にスイスの起業家であるガエターノ・バレンツァや、セリエC1のチームの一つカルペネドロのオーナーであるトンマーゾ・ギラルディなどの名前が挙がるが、交渉は難航。クラブは競売にかけられ、ようやく2007年1月24日にギラルディへ譲渡されることとなった。


■パルマFCの過去の成績

1994-1995 セリエA 3位
1995-1996 セリエA 6位
1996-1997 セリエA 2位
1997-1998 セリエA 6位
1998-1999 セリエA 4位
1999-2000 セリエA 5位
2000-2001 セリエA 4位
2001-2002 セリエA 10位
2002-2003 セリエA 5位
2003-2004 セリエA 5位
2004-2005 セリエA 16位
2005-2006 セリエA 11位



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リヴォルノ・カルチョ(Associazione Sportiva Livorno Calcio)は、イタリア・リヴォルノを本拠地とするサッカークラブチーム。

2004-2005シーズンからセリエAに昇格した。


■リヴォルノ・カルチョの過去の成績

2000-2001 セリエC1 3位
2001-2002 セリエC1 1位
2002-2003 セリエB 9位
2003-2004 セリエB 3位
2004-2005 セリエA 8位
2005-2006 セリエA 9位 



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パレルモ(Unione Sportiva Città di Palermo)は、イタリア・パレルモ(シチリア島)を本拠地とするサッカークラブチーム。

長らくセリエCやセリエBに所属していたが、2004-2005シーズンにセリエAに昇格を果たす。


■パレルモの過去の成績

2003-2004 セリエB 1位
2004-2005 セリエA 6位
2005-2006 セリエA 8位


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ミュンヘンの悲劇(Munich air disaster)は、1958年2月6日、ドイツ・ミュンヘンのリーム空港(現在のミュンヘン国際空港とは異なる)で起こった航空事故のこと。乗員・乗客43名のうち、23名が死亡した。イングランドフットボールリーグのチーム、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機であり、主力選手の命が多く失われたことから人々に長く記憶されている。


■「ミュンヘンの悲劇」の背景

1955年から開始されたヨーロッパのクラブ選手権であるチャンピオンズカップに初めてイングランド代表として乗り込んだのが、当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドだった。しかしこの参戦は孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会の警告を無視したもので、国内リーグの日程を調整してもらうこともできず、強行日程を強いられることとなっていた。

準々決勝に進出したマンチェスター・ユナイテッドはユーゴスラビアの強豪、レッドスター・ベオグラードと対戦。ホームで2-1と勝利したのち、2月5日(水曜日)に敵地・ベオグラードに乗り込み3-3の引き分け、総計5-4で準決勝進出を果たす。現代でこそ当たり前になった水曜・土曜の連戦だが、まだ飛行機の事情も良くなく、移動に労力を費やしていたこの時代に共産圏の国で試合をしてまた帰ってくるというのは信じがたい強行軍であった。また、土曜日にはブラックバーン・ローヴァーズとの上位直接対決が控えており、帰国を焦っていた事情もあった。更に、この時期は欧州全土を寒波が襲っていたという。


■「ミュンヘンの悲劇」事故とその原因

英国欧州航空(BEA)のチャーター機・BE609便は選手の一人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発した。当時のプロペラ機はブリテン島まで無着陸飛行する能力がなく、ミュンヘンに給油のために立ち寄った。給油後、2度離陸を試みるがエンジン出力が上がらず中止。不安に駆られた乗客の中には当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にもこれは犠牲者を増す結果となってしまった。午後3時4分、3度目の離陸を試みる。しかし離陸に必要な速度に達せず、機体は空港の端のフェンスを突き破り空き家に側面から激突して止まった。機体は大破し、多くの乗客の命が失われた。乗客のうち乳児一人は生存した選手であるハリー・グレッグが爆発の危険を顧みず命がけで助け出した。

原因については当初、翼の上に付着した雪または氷が影響したこと、またこのことについて操縦士が判断を怠ったためとされた。しかし後の事故調査委員会の調査で、離陸前の写真から翼に異常はなかったことが判明。更に操縦士の証言を元に実験を行うなどして検証した結果、滑走路に積もったシャーベット状の雪または氷が機を失速させたことが明らかとなり、操縦士の責任ではないことが明らかとなった。この事故で得られた経験はこれ以降、世界中の常識となった。しかし、機長のJames Thainは二度と操縦桿を握ることなく、54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏を営み暮らしたという。


■マンチェスター・ユナイテッドのその後

「ミュンヘンの悲劇」祈念碑8名の死者のほか、2名が再起不能であり、当然チームは大きな打撃を受けた。チャンピオンズカップの準決勝も控え選手中心で臨むが敗退。しかし、奇跡的に生還した監督マット・バスビーと、その後精神的打撃からも立ち直ったボビー・チャールトンが中心となってクラブを再建。若手選手の目覚しい成長もあり、マンチェスター・ユナイテッドはFAカップとフットボールリーグを制覇。ミュンヘンでの事故から10年後の1968年には、悲願のチャンピオンズカップを奪取し、イングランドのクラブとして初めてヨーロッパ制覇を成し遂げた。

これらの歴史的な背景から、マンチェスター・ユナイテッドはイングランドリーグを代表するクラブとして世界中のフットボールファンに認知され、長年名門クラブとして活動を続けているのは周知の事実であろう。

マンチェスター・ユナイテッドのホームスタジアム、オールド・トラフォードの一角には、事故の犠牲者を追悼する祈念碑が掲げられている。




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スペルガの悲劇(伊:Tragedia di Superga)とは、1949年5月4日、イタリア・トリノ郊外の丘陵地、通称「スペルガの丘」で起きた航空機墜落事故のこと。乗員・乗客31名全員が死亡し、この中にはイタリアのプロサッカークラブ、ACトリノの選手18名と監督以下スタッフ5名が含まれていた。


■「スペルガの悲劇」背景・概要

当時のACトリノはイタリアのトップリーグ、セリエAの強豪クラブとして名を馳せ、ファンからは "Grande Torino" (偉大なるトリノ)と称えられていた。1948年から始まったシーズンもエースのヴァレンティーノ・マッツォーラを中心に好調を維持し、リーグ5連覇も目の前という状況にあった。

1949年5月4日、クラブ一行はポルトガル・リスボンで行なわれたベンフィカとの親善試合を終え、アリタリア航空のフィアットG.212型機(3発レシプロ機、機体記号I-ELCE)でトリノへの帰路に就いた。この時トリノ周辺の天候は激しい雷雨で、視界不良の状態にあった。ACトリノの面々を乗せた飛行機はコントロールを誤り、トリノ郊外にある丘陵地の上に建つスペルガ聖堂の外壁に激突し大破した。事故機で原型をとどめていたのは尾翼附近だけであった。この事故でマッツォーラを含むACトリノの選手18名と、監督・コーチおよびクラブのフロントら5名、そして乗員ほか8名の計31名全員が死亡した。

ACトリノの主力メンバーであったサウロ・トマ (Sauro Tomà) は負傷を理由に遠征に帯同しておらず、また当時イタリアに亡命していたハンガリー人フォワード、ラディスラオ・クバラが同じ親善試合に参加するため行動を共にする予定であったが、息子の病気を理由に急遽辞退し、それぞれ難を逃れている。


■「スペルガの悲劇」事故後

この時のACトリノのメンバーの大半はイタリア代表にも名を連ねる選手達であり、彼らを失ったことはイタリアサッカー界全体にとって大きな損失であった。葬儀はイギリス人監督のレスリー・リーブスリー (Leslie Lievesley) を含むクラブの犠牲者全員を悼む国葬としている。

優勝目前でトップチームを丸ごと失ったACトリノは、リーグ戦の残りの4試合をユースチームで戦うことになったが、"Grande Torino" に敬意を表した相手クラブも同様にユースチームで対抗。結局このシーズンはそのままACトリノがスクデットを獲得した。ACトリノはその後、クラブの建て直しが上手くいかずに成績も低迷。次のスクデット獲得までに実に27年を要した。そしてさらに、この1976年を最後にクラブは優勝から遠ざかり、2部リーグ(セリエB)を行き来するエレベーターチームとなっている。ちなみに同クラブは2006年から、クラブ名を「Torino Football Club」(トリノFC)に改称している。

また、事故の翌年に行なわれた第4回ワールドカップブラジル大会に参加したイタリア代表は、チームの再建が間に合わずグループリーグで敗退した(事故の痛ましい記憶から、ブラジルまでの移動に海路を選択したこともチームの不調に少なからず影響したと思われる)。

30歳でこの世を去った "Grande Torino" のエース、ヴァレンティーノ・マッツォーラには、事故当時まだ6歳の幼い愛息子・アレッサンドロがいた。少年はその後父と同じ道を歩み、ミラノの強豪クラブ・インテルに入団。1960~70年代のイタリアを代表するスタープレイヤー、サンドロ・マッツォーラとなった。




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サッカー戦争(西:Guerra del Fútbol、1969年)とは、サッカーの試合での遺恨がきっかけとなって、エルサルバドルとホンジュラスとの間で勃発した戦争。

また、レシプロ戦闘機同士の空中戦や撃墜が起こった最後の戦争としても知られている。


■「サッカー戦争」開戦に至る経緯

1960年代におけるエルサルバドルとホンジュラスとの間の外交関係は、国境線問題や、約30万人にもおよぶエルサルバドル系農民のホンジュラス国内不法滞在問題などを巡り、悪化の一途を辿っていた。このため、充分に戦争が起こり得るだけの火種が既にくすぶっていたのであり、「サッカーが原因となった『史上最も馬鹿らしい戦争』」という巷間に流布しているイメージは、実のところ必ずしも適切なものとは言えない。

ただし、くすぶっていた火種を一気に燃え上がらせる油を注いだのは、間違いなくサッカーである。1969年6月27日、メキシコシティで行われたサッカー・ワールドカップメキシコ大会の予選準決勝プレーオフ「エルサルバドル対ホンジュラス戦」は、3-2でエルサルバドルの勝利に終わった。

これを契機に激化したホンジュラス国内の反エルサルバドル感情を背景として、試合終了後、ホンジュラス政府は国内に居住する全てのエルサルバドル人不法入国者を対象に強制送還を開始した。これに対し、エルサルバドル政府はホンジュラス政府を公式に非難、両国の国交は断絶した。


■サッカー戦争の展開

メキシコシティでの試合から約2週間後の7月10日、エルサルバドル空軍のグッドイヤー FG-1D コルセア(チャンス・ヴォート F4Uのライセンス生産機)とノースアメリカン P-51D マスタングの混成編隊は、ホンジュラスの首都テグシガルパ郊外の空軍基地を空襲し、戦端が開かれた。ホンジュラス空軍の主力はチャンス・ヴォート F4U-5 コルセア。両国空軍のF4Uコルセア戦闘機同士が激しい空中戦を繰り広げ(ホンジュラス側がエルサルバドル側を3機撃墜。レシプロ機によるレシプロ機の撃墜は、これ以降は2007年2月末までのところ、世界的にも発生していない)、空爆の応酬が続く中、エルサルバドル側はさらに7月14日、陸軍歩兵部隊(兵力約12,000人)を投入し、ホンジュラス領内に侵攻した。


■サッカー戦争の終結

この戦争による双方の死者は合計数千人にものぼった。米州機構(OAS)が調停に乗り出した結果、7月29日にエルサルバドル陸軍が撤退を完了し、停戦が成立した。しかし両国関係の修復にはさらに10年以上の歳月を要した。1980年10月30日、両国はようやく平和条約を締結した。同年11月のワールドカップ地区予選決勝で、12年ぶりのサッカー対戦が実現した。試合は0-0の引き分けに終わり、両国揃って2年後のワールドカップ・スペイン大会への出場を果たした。


■「サッカー戦争」その後

戦争の主因の1つである国境問題に関しては、平和条約締結後に国際司法裁判所に付託した。国際司法裁判所は、1992年9月11日に新たな国境線の案を提示。両国はこれを受け入れることを表明したが、実際の作業は難航した。

2006年4月18日、両国の国境地帯に位置する街で式典が開催された。出席したエルサルバドル大統領エリアス・アントニオ・サカ・ゴンサレス(Elías Antonio Saca González)とホンジュラス大統領ホセ・マヌエル・セラヤ・ロサレス(José Manuel Zelaya Rosales)は、国境線375kmを画定する文書に署名した。これにより、国境問題は終結した。





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ロッテルダムの奇跡(ロッテルダムのきせき)とは、2000年7月2日、オランダ・ロッテルダムのフェイエノールト・スタディオンで行われたユーロ2000の決勝戦で、フランス代表がイタリア代表に延長ゴールデンゴールで逆転勝ちし、劇的な優勝を決めたことを指すフランスでの通称である。イタリアでは「ロッテルダムの悲劇」と呼ばれる。


■「ロッテルダムの奇跡」試合経過

後半10分にデルベッキオのゴールでイタリアが先制する。その後フランスは何度もチャンスがあったがイタリアの堅い守備に阻まれてきた。そのままロスタイムに突入、イタリアは優勝を確信し、フランスは諦めムードが漂う中、ヴィルトールが奇跡の同点ゴールを決めた。

試合は延長戦に突入するが、イタリアは土壇場で追いつかれたことによる引きずりで守備が乱れ、延長前半13分にダビド・トレゼゲがゴールデンゴールを決めフランスの優勝が決まった。自国開催の1998 FIFAワールドカップに続くビッグタイトルを獲得した。




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ヤウンデの悲劇(ヤウンデのひげき)は、2006年FIFAワールドカップドイツ大会アフリカ予選にて、カメルーン代表が本戦出場を逃した事件。

アフリカ予選では、各組1位だけが本戦出場できることになっていた。

アフリカ予選第3組は、最終戦を残して、カメルーンは2位コートジボワールに勝ち点1差の1位であり、カメルーンのヤウンデで開催される3位エジプト(本戦出場の可能性なし)との最終戦に勝てば、同日同時刻にスーダンで行われるコートジボワール対5位スーダン(本戦出場の可能性なし)の結果如何に関わらず本戦出場できる状況にあった。

2005年10月8日の最終戦、カメルーンは前半に先制し、本戦出場権を引き寄せたが、後半にエジプトが同点に追いついた。この時点で2位コートジボワールがスーダンをリードしているという情報が入っており、カメルーンは最終戦を引き分けると2位に転落し本戦出場できないことになった。何としても勝たねばならないカメルーンは猛攻を続け、後半ロスタイム、やっとPKを得た。

この時点で、カメルーンイレブンも、国民も、エジプト戦の勝利と、本戦出場を確信した。

しかし、PKを蹴ったDFピエール・ウォメがボールをゴールポストに当ててしまい、ノーゴール。この試合は1-1の引き分けで終わり、他方コートジボワールがスーダンに3-1で勝利したため、カメルーンは出場権を逃した。




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メルボルンの悲劇(メルボルンのひげき)は、FIFAワールドカップフランス大会予選のプレーオフで、オーストラリア代表がイラン代表に敗れ出場を逃したことを指す通称。


■「メルボルンの悲劇」経過

世界で最後(32番目)の出場権を争い、まずイランのテヘランで行われた第1戦は 1 - 1 で引き分ける。

続くオーストラリアのメルボルンで行われた第2戦で、オーストラリアはイランを 2 - 0 とリードし、出場権を手中に収めたかに見えた。しかし、残り15分から2失点し同点に追いつかれた。

トータルスコアはオーストラリア3 - 3イランで並んだが、アウェイゴールルールによりオーストラリアのアウェイゴール数1点に対し、イランはアウェイゴール数2点のため、イランが2度目のワールドカップ出場を決めた。


■「メルボルンの悲劇」その後

オーストラリアは日本/韓国大会でもプレーオフでウルグアイに敗れた。ドイツ大会のプレーオフでは、名将フース・ヒディンク監督を擁し再びウルグアイと対戦、そのウルグアイに初戦アウエーで 0 - 1 で敗れるが、第2戦のホームで 1 - 0 で合計 1 - 1 で延長戦でも決着が付かず、(大陸間プレーオフ初の)PK戦の末 (4-2) 勝利。ヒディンク監督の采配もあり雪辱を果たし、8大会ぶり2度目のワールドカップ出場を決めた。その後チームは本大会グループリーグを突破しベスト16に進出したが、決勝トーナメント1回戦でこの大会で優勝したイタリアと対戦し、後半ロスタイムにPKを与えこれをトッティに決められ 1 - 0 で惜敗した。




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ミラノの奇跡は、2005年1月9日にジュゼッペ・メアッッアで行われた2004-2005シーズンのセリエA第18節で、インテル・ミラノがサンプドリアに0-2の状態から試合終了間際に大逆転、3-2で勝利しシーズン無敗記録を継続させた試合のことである。


■「ミラノの奇跡」試合内容

試合は前半44分にサンプドリアがトネットのゴールで先制すると、さらに後半37分にはインテルの守備のミスからクトゥゾフがカウンターを決めて0-2とし、インテルの今シーズン初の黒星を付ける上で大きく前進する。今シーズンこういう場面を何度も追いついてきたインテルだが、後半32分にチームの柱であるアドリアーノを交代したことにより、サポータの不安が募り一斉に家路に着きはじめる。

しかし後半43分にレコバのパスにこの試合で初めてペナルティボックス付近で前を向いた マルティンスが反応しゴールを決めて1点を返し1-2とする。

さらに後半46分にはマルティンスのオーバヘッドの折り返しをヴィエリがダイレクトボレーで決めて奇跡の2-2の同点となる。

だが、この日のインテルはこれで終わらなかった。ロスタイム終了間際の後半48分にゴール前の競り合いからスタンコビッチが落として、最後はレコバがペナルティエリアの外からミドルシュートを決めて3-2の逆転に成功する。 そして試合はそのまま終了。

終了間際のわずか6分間で3点を決めて無敗記録を継続させることができた。


■「ミラノの奇跡」その後

2005年2月27日の第26節ACミラン戦で0-1で負けたことにより無敗記録はストップする。



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マラカナンの悲劇(マラカナンのひげき)は、1950年7月16日、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで行われたFIFAワールドカップブラジル大会決勝リーグ第3戦、ブラジル対ウルグアイの試合で、ブラジルが優勝を逃したことを指す通称である。


■「マラカナンの悲劇」の経過

◇決勝リーグ第2戦まで
開催国として悲願の初優勝を目指すブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破した。

決勝リーグはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデン、スペインが進出。ブラジルはスウェーデンを7 - 1、スペインを6 - 1の大差で破り、最終戦でウルグアイに引き分け以上であれば優勝が決まる。

◇最終戦
ブラジルVSウルグアイの会場マラカナン・スタジアムには20万人を越える観客が集まった。この試合ブラジル代表は初めて白のホームユニフォームを着て挑んだ。

後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制しブラジルの優勝が決まったかと思われたが、後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、ウルグアイが2度目の優勝となった。

会場は水を打ったように静まり返り、自殺を図る者まで現れた。結局2人がその場で自殺し、2人がショック死、20人以上が失神し、ブラジルサッカー史上最大の事件となった。ブラジル代表はこの後ユニフォームを現在の国旗と同じカナリア色に変更し、2002 FIFAワールドカップの決勝戦まで、白のユニフォームの着用を避け続けた。

人種差別がまだまだ激しかった当時のこと。敗北したことによる観客の憎悪は出場していた3人の黒人選手に向けられ、特にGKのバルボサは死ぬまで疫病神扱いされてしまった。

この日マラカナンでブラジルの敗戦を目の当たりにし、自らの力でブラジル代表を世界一にすると誓った少年、エドソン・アランテス・ド・ナシメントが、若き日のペレである。



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マイアミの奇跡( - きせき)は、1996年アトランタオリンピック・男子サッカー第1次リーグにおいて、日本代表がブラジル代表を1対0で下した試合の日本における通称。


■「マイアミの奇跡」の概要

当時のブラジル代表にはベベット、アウダイール、リバウド、ロベルト・カルロス、ジュニーニョ・パウリスタ、そしてロナウド(当時はロナウジーニョ名義)といったワールドクラスの選手達が名を連ねていた。各メディアの下馬評ではブラジルの圧倒的有利が予想されていただけに、Jリーグ所属の若手選手で構成された日本代表が勝利した事はまさに「奇跡」に等しかった。

ブラジルにとって格下と目されていた日本の、しかも2軍(この時の日本チームは監督・西野朗の意向で「オーバーエイジ」枠を使用しておらず、日本代表の主力メンバーはほとんどいなかった)に敗れたことは番狂わせの最たるものだった。この試合後、ブラジル国内ではテレビ局が特別番組を組み、国内の有識者たちが屈辱的な敗戦の要因を徹底討論した。 また、この試合のブラジルにおける呼称は「マイアミの屈辱」である。

その後2000年のシドニーオリンピックにおいて、両国は再び1次リーグで対戦。ここではブラジルが日本を 1-0 で破り、4年前の借りを返す形となった。


■「マイアミの奇跡」の試合要約

最初のシュートは日本のミッドフィールダー・中田英寿のヘディング。ブラジルの出鼻を挫くものの、その後ブラジルは徐々に本領を発揮。世界最強の攻撃陣が日本のゴールマウスに猛然と襲い掛かり、シュートの雨を降らせた。しかし、日本のゴールキーパー・川口能活が神懸かり的なセービングを連発。ブラジルのシュートのうち数本はゴールポストを直撃するなど、日本には運も味方し、ブラジルはじわじわと追いつめられていった。この試合における川口のプレイは世界レベルのものであり、「奇跡」と呼ぶのは失礼であると言える。

ブラジルの選手たちに疲労の色が見え始めた後半27分、左サイドにいたウイングバック・路木龍次が、ブラジルのディフェンスラインとゴールキーパーの間のスペースを目掛け、山なりのボールを放り込んだ。そのボールを狙って、フォワード・城彰二が逆サイドからゴール前に走り込む。それに気づいたブラジルのディフェンダー・アウダイールが城のチェックに向かったその時、ボールをキャッチしようと飛び出したブラジルGK・ヂーダと激突。ゴールに向かって転がったボールにボランチの伊東輝悦が走り込み、そのままゴールマウスに押し込んだ。この得点は、贔屓目に見ても「事故」であり、日本にとっての奇跡、ブラジルにとっての悲劇としか言いようがない。とはいえ、様々な証言を総合すると、オーバーエイジとして加入したアウダイールとヂーダとの間にボールを入れる事は狙いとして存在していた事、城の再三の動きがアウダイールに意識されていたことは事実であり、「事故」に至る伏線は準備されていたと見ることもできる。

まさかの失点に焦るブラジルはその後も一方的に攻めつづけるものの、川口を中心とした日本のディフェンス陣が凌ぎきった。

最終的にブラジルが放ったシュートは合計28本。対する日本のシュートは、たったの4本だった。


この後、日本は、第2戦でナイジェリアに 0 - 2 で敗れ、最終戦でハンガリーに 3 - 2 で勝利するものの、2勝1敗で3チームが並び得失点差で1次リーグ敗退した。勝ち点6を得ながら一次リーグ敗退という記録は、史上初の出来事だった。なお、この大会でナイジェリアは金メダル、ブラジルは銅メダルを獲得している。

順位  チーム    勝点  勝  分  負  得失差  総得点
 1  ブラジル     6    2   0   1   +2     4
 2  ナイジェリア   6    2   0   1   +2     3
 3  日本       6    2   0   1   +0     4
 4  ハンガリー    0    0   0   3   -4     3


■「マイアミの奇跡」の試合データ

試合日:1996年7月22日(現地時間)

試合会場:マイアミ・オレンジボウルスタジアム

日本 1-0 ブラジル

▽得点
後半27分 伊東輝悦(日本)

▽日本代表
GK #01 川口能活
DF #13 松田直樹
DF #05 田中誠
DF #03 鈴木秀人
MF #17 路木龍次
MF #08 伊東輝悦
MF #06 服部年宏
MF #10 遠藤彰弘 → 後半30分 DF #02 白井博幸
MF #07 前園真聖※キャプテン
MF #14 中田英寿 → 後半37分 DF #12 上村健一
FW #09 城彰二 → 後半41分 FW #16 松原良香

▽控えメンバー
MF #11 森岡茂
MF #04 廣長優志
MF #15 秋葉忠宏
GK #18 下田崇

▽監督 西野朗


▼ブラジル代表
GK #01 ヂーダ
DF #02 ゼ・マリア
DF #03 アウダイール
DF #04 ロナウド
DF #06 ロベルト・カルロス
MF #05 フラビオ・コンセイソン
MF #08 アマラウ → 後半開始 MF #15 ゼ・エリアス
MF #09 ジュニーニョ・パウリスタ
MF #10 リバウド
FW #07 ベベット
FW #11 サビオ → 後半19分 FW #18 ロナウジーニョ

▼控えメンバー
GK #12 ダンルレイ
DF #14 アンドレ・ルイス
MF #13 ナルシーゾ
MF #16 マルセリーニョ・パウリスタ
FW #17 ルイゾン

▼監督 マリオ・ザガロ


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キエーヴォ・ヴェローナ(Associazione Calcio ChievoVerona)は、イタリア・ヴェローナを本拠地とするサッカークラブチーム。

キエーヴォというのはヴェローナの地区名の一つ。同じくヴェローナを本拠地としているエラス・ヴェローナとの試合はダービーマッチとして盛り上がる。一地方都市の、その一地区を本拠に置くクラブがトップカテゴリーに昇格したのは長いイタリアサッカー史においても、このクラブが初である。

2005-2006シーズンは当初は7位でUEFAカップの出場が決まっていたが、ユヴェントス、ラツィオ、フィオレンティーナが不正事件でCL出場権を剥奪されたため繰り上がりで4位扱いでクラブ史上初めてCL出場権を得ることになった

チームの愛称は、ジャッロ・ブルー、フライング・ドンキー


■フライング・ドンキーの由来

マスコットは羽の付いたロバ。かつては同じヴェローナに本拠を置くエラスがセリエAの常連だったのに対し、キエーヴォはセリエB以下の下部リーグを行ったり来たりが精一杯のクラブであった。1986年にヘラス・ヴェローナがスクデットを獲った時、その当時のキエーヴォの会長が「同じヴェローナのチームとして誇りに思う。いつかキエーヴォもエラスとセリエAでダービーマッチをやりたい」と発言した。

その時にヘラスのサポーターが「キエーヴォとダービーをやるようになったらロバが羽を生やして飛んでいくよ(つまり、そんな事は絶対にありえないという事)」と言ったとされるのがこのマスコットの由来。2001年に初めてキエーヴォがセリエAに昇格し、初となるヴェローナダービーが開催された際に、キエーヴォのサポーターは羽の付いたロバの特大バルーンを掲げて見せた。以来フライング・ドンキーの愛称はセリエA初登場の2001-2002シーズンの快進撃と相まって、小さなクラブが起した奇跡を象徴する逸話として、このチームを語る上ではかかせない話となっている。


■キエーヴォ・ヴェローナのチームカラー

ワンマン・オーナーのチームに良く見かけられる金に物を言わせる大型補強は全くと言って良いほどせず、収支に合ったクラブ経営をしている。

典型的なプロヴィンチャであるが故、ワールドクラスの選手は皆無に等しい。無名の若手か、他のクラブで「もう終わった」と烙印を押されて追い出された選手で構成されている。しかし、若手選手の育成と伸び悩んでいる選手の再生にはイタリア随一の定評があり、このクラブをステップにビッグクラブに移籍したり、選手としてもう一華咲かせる選手を毎年の様に輩出している。

また、そういった選手が移籍する時に発生する莫大な移籍金や、若手選手をセリエB、セリエC等に下部カテゴリーにレンタルする際に発生するレンタル料でチーム財政を成立させている。

これはチームの親会社である「パリアーニ」が、イタリアでは有名な菓子メーカーだが年間売上高が日本円にして50億円しかない故、チームの補強に無駄な金は使えない為、知恵と情報を使った補強を余儀なくされているからである。


■キエーヴォ・ヴェローナの過去の成績

2000-2001 セリエB 2位 昇格
2001-2002 セリエA 5位
2002-2003 セリエA 7位
2003-2004 セリエA 9位
2004-2005 セリエA 14位
2005-2006 セリエA 7位→4位



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ACミラン(Associazione Calcio Milan s.p.a)は、イタリア・ミラノを本拠地とするサッカークラブチーム。クラブカラーからロッソ・ネロ(イタリア語で「赤と黒」、複数形でロッソ・ネリとも)またはディアボロ(イタリア語で「悪魔」)の愛称で呼ばれる。


■ACミランの概要

1899年にミラノ在住のイギリス人アルフレッド・エドワーズが中心となって、「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ」(Milan Cricket and Football Club)を創設し、その後上記の通り「ミラン・アソシアツィオーネ・カルチョ」と名称は変更されたがMilanだけは英語のまま残った。(イタリア語ではMilanoである)。クラブ名のうちアソシアツィオーネAssociazioneは英語ではAssociationつまり協会でAssociazione Calcioはサッカー協会となる。つまり全体では「ミラノサッカー協会」が正しい訳語となる。Milanが英語であるため、ACの部分がAthletic Clubだと誤解される場合が多い。

同じ街の同じスタジアムを本拠地とするインテルとは永遠のライバル関係にあり、ミラノダービーと呼ばれる対戦は街を二分する盛り上がりを見せる。


■ACミランの歴史

1980年代初め、八百長疑惑の制裁でセリエBに降格したが、後にイタリア首相を務めるシルヴィオ・ベルルスコーニが会長に就任して有力選手を大補強し、クラブを立て直した。当時はほぼ無名だったが、後にこのチームでサッカーに革命を起こすことになるアリゴ・サッキを監督として起用し、キャプテンのフランコ・バレージを中心に、ルート・フリット、フランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステンといったオランダトリオの活躍もあり、1989年、1990年と立て続けにUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)を制覇した。1990年代になると、バレージの他にもパオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、デメトリオ・アルベルティーニの3人が中心になり、ファビオ・カペッロ監督(現レアル・マドリード監督)のもとで、無敗優勝を含むセリエA三連覇やチャンピオンズリーグ三年連続決勝進出などの偉業を達成した「グランデ・ミラン」(偉大なミラン)や「グリ・インヴィンチービリ」(無敵のミラン)と呼ばれる黄金期を支えた。バレージを含めたこの4人は、ミラン栄光のバンディエラ(入団から引退まで同じクラブでプレーし続けたプレーヤーを指す)と言っても過言ではない。90年代の栄光を支えたほとんどの選手が現役を引退した現在でも、2002-03シーズンからの5シーズンで全てのシーズンの準々決勝進出、準決勝進出4回、決勝進出3回と、2006年現在のUEFAチームランキング1位クラブにふさわしい記録を残している。チャンピオンズリーグ6回の優勝はレアル・マドリードの9回に次ぐ歴代2位の記録であり、この記録はイタリア国内でチャンピオンズリーグを制覇した経験のある他の2チームの記録(インテル・ミラノ、ユヴェントスはともに2回)を大きく引き離している。またチャンピオンズリーグで5度の優勝、或いは3連覇を達成したクラブにはビッグイヤー(優勝杯)の永久保持が認められているが、同時にビッグイヤーのロゴと優勝回数が書かれたワッペンがユニフォーム左袖につけられることが許される。このワッペンをつけているのは、ACミラン、レアル・マドリード、リヴァプールFC、アヤックス・アムステルダム、FCバイエルン・ミュンヘンの5クラブのみである。

過去40年間でこのチームのキャプテンマークを付けたのはチェーザレ・マルディーニ、ジャンニ・リベラ、フランコ・バレージ、パオロ・マルディーニの4人しかいない。

2006年、セリエAの審判買収疑惑を含む八百長疑惑で、2005-2006年シーズンのリーグ戦での勝ち点-44点(事実上の2006-2007年シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権剥奪)、-15点での2006-2007年国内リーグ戦開始、という処分がイタリアサッカー協会のスポーツ裁判所によって下された。しかしこれに対してクラブは上告、控訴審では処分が軽減され、2005-2006シーズンの勝ち点が-30点とされ、2006-2007年シーズンは-8点でのスタートという判決が下った。2005-2006シーズンの勝ち点は58となり、3位扱いとしてUEFAチャンピオンズリーグ出場が決まった。

2006-07シーズンでは、勝ち点-8点というハンディキャップ以上に、移籍したストライカーアンドリー・シェフチェンコの穴を埋めることが出来ずに苦しんだ。そして2007年1月、レアル・マドリードで出場機会を失っていたロナウドを完全移籍で獲得した。


■ACミランの過去の成績

2005-2006 セリエA 2位→3位 ①
2004-2005 セリエA 2位
2003-2004 セリエA 1位
2002-2003 セリエA 3位
2001-2002 セリエA 4位
2000-2001 セリエA 6位
1999-2000 セリエA 3位
1998-1999 セリエA 1位
1997-1998 セリエA 10位
1996-1997 セリエA 11位
1995-1996 セリエA 1位
1994-1995 セリエA 4位
1993-1994 セリエA 1位
1992-1993 セリエA 1位
1991-1992 セリエA 1位
1990-1991 セリエA 2位
1989-1990 セリエA 2位
1988-1989 セリエA 3位
1987-1988 セリエA 1位
1986-1987 セリエA 5位

①二度目の八百長の罰により勝点を30減点されたため、最終順位が変更されている。



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ASローマ(Associazione Sportiva Roma 1927 S.p.A.) は、イタリア・ローマを本拠地とするサッカークラブチーム。

エンブレムのオオカミのマークは古代ローマの建国神話ロムルスとレムスの兄弟の逸話から取られたものである。

1927年にアルバ(Alba)、ローマン(Roman)、フォルティトゥード(Fortitudo) の3クラブが合併して誕生した。 同じローマに本拠地を置くSSラツィオとはチーム、サポーター共に極めてライバル意識が高く、2チームの対戦はデルビーロマーノとしてイタリアのダービーマッチの中で最も白熱する試合として知られ、ミラノ・ダービーとともにシーズンの目玉とされている。 日本では、フランチェスコ・トッティの所属することで有名。また、中田英寿が所属していたことでも知られ、中田が所属していた2000年/2001年シーズンにはスクデットを獲得している。

本拠地が首都・ローマということもあってか、ユヴェントス、ACミラン、インテルとともに国内外で人気の高いチームである。




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1898年 ジェノア
1899年 ジェノア
1900年 ジェノア
1901年 ミラン
1902年 ジェノア
1903年 ジェノア
1904年 ジェノア
1905年 ユヴェントス
1906年 ミラン
1907年 ミラン
1908年 プロ・ヴェルチェッリ
1909年 プロ・ヴェルチェッリ
1909年 - 1910年 インテル
1910年 - 1911年 プロ・ヴェルチェッリ
1911年 - 1912年 プロ・ヴェルチェッリ
1912年 - 1913年 プロ・ヴェルチェッリ
1913年 - 1914年 カサーレ
1914年 - 1915年 ジェノア
1916年・1917年・1918年 第一次世界大戦のため中止
1919年 - 1920年 インテル
1920年 - 1921年 プロ・ヴェルチェッリ
1921年 - 1922年 プロ・ヴェルチェッリ (CCI) 、ノヴァレーゼ (FIGC)
1922年 - 1923年 ジェノア
1923年 - 1924年 ジェノア
1924年 - 1925年 ボローニャ
1925年 - 1926年 ユヴェントス
1926年 - 1927年 トリノ(八百長疑惑により剥奪)
1927年 - 1928年 トリノ
1928年 - 1929年 ボローニャ
1929年 - 1930年 アンブロジャーナ・インテル
1930年 - 1931年 ユヴェントス
1931年 - 1932年 ユヴェントス
1932年 - 1933年 ユヴェントス
1933年 - 1934年 ユヴェントス
1934年 - 1935年 ユヴェントス
1935年 - 1936年 ボローニャ
1936年 - 1937年 ボローニャ
1937年 - 1938年 アンブロジャーナ・インテル
1938年 - 1939年 ボローニャ
1939年 - 1940年 アンブロジャーナ・インテル
1940年 - 1941年 ボローニャ
1941年 - 1942年 ローマ
1942年 - 1943年 トリノ
1943年 - 1945年 第二次世界大戦のため中止
1945年 - 1946年 トリノ
1946年 - 1947年 トリノ
1947年 - 1948年 トリノ
1948年 - 1949年 トリノ
1949年 - 1950年 ユヴェントス
1950年 - 1951年 ミラン
1951年 - 1952年 ユヴェントス
1952年 - 1953年 インテル
1953年 - 1954年 インテル
1954年 - 1955年 ミラン
1955年 - 1956年 フィオレンティーナ
1956年 - 1957年 ミラン
1957年 - 1958年 ユヴェントス
1958年 - 1959年 ミラン
1959年 - 1960年 ユヴェントス
1960年 - 1961年 ユヴェントス
1961年 - 1962年 ミラン
1962年 - 1963年 インテル
1963年 - 1964年 ボローニャ
1964年 - 1965年 インテル
1965年 - 1966年 インテル
1966年 - 1967年 ユヴェントス
1967年 - 1968年 ミラン
1968年 - 1969年 フィオレンティーナ
1969年 - 1970年 カリアリ
1970年 - 1971年 インテル
1971年 - 1972年 ユヴェントス
1972年 - 1973年 ユヴェントス
1973年 - 1974年 ラツィオ
1974年 - 1975年 ユヴェントス
1975年 - 1976年 トリノ
1976年 - 1977年 ユヴェントス
1977年 - 1978年 ユヴェントス
1978年 - 1979年 ミラン
1979年 - 1980年 インテル
1980年 - 1981年 ユヴェントス
1981年 - 1982年 ユヴェントス
1982年 - 1983年 ローマ
1983年 - 1984年 ユヴェントス
1984年 - 1985年 ヴェローナ
1985年 - 1986年 ユヴェントス
1986年 - 1987年 ナポリ
1987年 - 1988年 ミラン
1988年 - 1989年 インテル
1989年 - 1990年 ナポリ
1990年 - 1991年 サンプドリア
1991年 - 1992年 ミラン
1992年 - 1993年 ミラン
1993年 - 1994年 ミラン
1994年 - 1995年 ユヴェントス
1995年 - 1996年 ミラン
1996年 - 1997年 ユヴェントス
1997年 - 1998年 ユヴェントス
1998年 - 1999年 ミラン
1999年 - 2000年 ラツィオ
2000年 - 2001年 ローマ
2001年 - 2002年 ユヴェントス
2002年 - 2003年 ユヴェントス
2003年 - 2004年 ミラン
2004年 - 2005年 該当なし(ユヴェントスは八百長疑惑により剥奪)
2005年 - 2006年 インテル(カルチョ・スキャンダルでユヴェントスは剥奪、ミランが勝ち点マイナスにより繰り上がり優勝)
2006年 - 2007年 インテル



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セリエAのリーグ優勝をすることをしばしば「スクデットを取る」という。 「スクデット」(scudetto)とはイタリア語で「小さな盾」を意味し、優勝クラブは翌年1年間、ユニフォームの胸にイタリア国旗のトリコロールを示した盾型のエンブレムを縫い付け戦うことができる。

また、優勝10回のクラブのユニフォームには「ラ・ステッラ」(la stella、イタリア語で「星」)と呼ばれる金色の星の刺繍が付いている。27回優勝のユヴェントスは2個、17回のミランと14回のインテルは1個の星を付けている(優勝回数は2005年-2006年シーズン終了現在)。なお9回優勝のジェノアはあと1回の優勝で付けることが可能だが、優勝は全て第二次世界大戦前のもので、近年は優勝争いはおろかセリエAからも遠ざかっており、今後もつけることは当分なさそうである。



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2007年2月2日、カターニャ対パレルモ戦でサポーターがフーリガン化し暴動が発生。試合を中止したが場外乱闘に発展し、爆発物を顔に投げつけられた警察官1人が死亡、100人以上が負傷。15人の逮捕者を出す惨事となった。後の調べで暴動を仕掛けたのはカターニャ側サポーターであることが判明した。

この影響により翌日2月3日と4日の全てのリーグ戦が中止となった。運営側は事態を深刻としており、2月10日にリーグは再開されるものの一部の試合では無観客試合となる見込み。 この問題はセリエAだけではなくイタリアサッカー界、ひいては欧州サッカー界に暗い影を落とすことは避けられそうに無いようだ。 その後オリンピコなどの安全性が確保された一部のスタジアムでは無観客試合を回避したが、人気チームの試合が無観客試合になる、または観客の入場がシーズンチケット保有者のみに制限されるなどの影響が出ている。

2005-2006年シーズンで、八百長疑惑が発覚し、ユヴェントスほかが強制降格処分となった。



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■セリエAの試合方式

20クラブによるホームアンドアウェー方式2回戦総当たりのリーグ戦形式で行われる。 従って1クラブあたりの1シーズンの試合数は38試合、計380試合が行われる。 勝利クラブに勝ち点3、引き分けの場合には両クラブに勝ち点1が与えられ、負けは0になる。


■セリエAの順位決定方式

順位は勝ち点の多い順に決められ勝ち点がもっとも多いクラブが優勝となる。 複数のクラブの勝ち点が同一の場合には得失点差などに関係なく同順位となる。 降格、カップ戦の出場権などで必要が生じた場合はプレーオフで順位を決定する。


■カップ出場権/残留/降格

上位2クラブにUEFAチャンピオンズリーグ本選、3位、4位に予選3回戦、5位、6位クラブにはUEFAカップの出場権が与えられる。

また下位の3クラブがセリエBに自動的に降格する。


■セリエAの出場停止規定

イエローカードは初め4枚で1試合出場停止。その後3枚、2枚、1枚と減り再び4枚に戻る。1試合2枚のイエローカード及びレッドカードを受けた場合は翌試合1試合出場停止となる。ただし1試合で2枚の警告を受けても悪質とみなされなかった場合は出場停止にならない場合がある。


■セリエAの外国人登録

EU内国籍およびEU加盟申請中の国の選手に関しては無制限に登録が可能。EU外国籍選手に関しては、2002年7月18日以前に契約した選手には適用されず、毎年8月31日までに新たに契約してセリエAに参戦する選手は、各クラブに1人のみ追加で登録することが許される。



Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
セリエA(Serie A、セリエ・アー)は、イタリアのプロサッカーリーグであるレガ・カルチョのトップディビジョンの名称である。リーグが現在の形になったのは1929年のことである。1990年代にはUEFAチャンピオンズリーグでイタリアのクラブチームが7年連続でファイナルに進むなど世界中からスター選手が集まり世界最高峰のリーグと呼ばれた。一時はスペインのリーガ・エスパニョーラに世界最高峰の座を譲った形になったが、ややスペインリーグの勢いにも陰りが見え始め、現在はイングランド、スペインのリーグと共に実力が伯仲している。


■セリエAについて

▽セリエAの概要

▽セリエAの所属クラブ  2006 - 2007シーズン (配列は2005 -2006の成績順)

インテル
ローマ
ミラン
キエーヴォ
パレルモ
リヴォルノ
パルマ
エンポリ
フィオレンティーナ
アスコリ
ウディネーゼ
サンプドリア
レッジーナ
カリアリ
シエナ
ラツィオ
メッシーナ
アタランタ
カターニア
トリノ

▽セリエAの事件

▽スクデット

▽セリエAの歴代優勝クラブ



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