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ダヴィド・トレゼゲ(David Trézéguet、1977年10月15日 - )は、フランス、ルーアン出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(センターフォワード)。2006-07シーズンはレガ・カルチョ、セリエBユヴェントスに所属する。

両親は共にアルゼンチン人。2歳の頃からアルゼンチンで育ったため、アルゼンチン国籍も持ち合わせている。


■ダヴィド・トレゼゲの経歴

弱冠17歳でアルゼンチンプロサッカーリーグのCAプラテンセにてプロデビュー。出場機会は僅かであったが、ASモナコのスカウトの目に留まり、自らの出生地であるフランスの地を再び踏むこととなった。モナコでは移籍当初は苦労したものの、徐々に頭角を表すと、1999-2000シーズンに22ゴールを挙げてリーグ優勝に貢献。ビッククラブから注目される存在になっていった。

2000年、イタリアの名門、ユヴェントスへ移籍。1年目にして14ゴールを挙げると、翌年には24ゴールで得点王に輝いた。このタイトルは全て流れの中から決めた(PKなしの)得点であることから、大いに賞賛を浴びた。以降、怪我が多くフルシーズン出場する機会は多くないものの、出場すれば抜群の決定力を見せている(セリエA通算151試合95得点、2005-2006シーズン終了時点)。2005-2006シーズンにはルカ・トニの31得点に次ぐ23得点を挙げ、スクデットに貢献した(その後の不正疑惑により取消)。2006年、ユヴェントスのセリエB降格に当たり、移籍は確実かと思われていたが、結局残留している。

代表デビューは20歳、1998年1月28日に行われたスペイン代表戦。同年に行われたフランスW杯のメンバー入りも果たし、見事優勝を飾る。同大会では予選リーグで3得点を挙げるも、控えに甘んじた。 2年後のEURO2000でも控えの立場だったが、イタリアとの決勝戦の延長でゴールデンゴールを決め、チームを優勝に導いた。なお、この活躍が認められる形で、大会後にユヴェントスと契約を結んでいる。尚、このゴールデンゴールを決めたことで移籍当初はイタリア国内では民衆に目の敵にされたことがあるという。

しかしその後の代表歴は思わしいものではない。セリエA得点王として臨んだ日韓W杯ではセネガル戦ではシュートがバー直撃、そしてEURO2004にはクロアチア戦において疑惑のゴールを決めたものの、ブレイクすることはなかった。

自身3度目となるドイツW杯では、1トップを布くドメネク監督の戦術の犠牲となった。ベンチに座る機会も多く、チームも決勝で敗れてしまい、失意のうちに大会は終了した。決勝のPK戦では両チームで唯一、失敗してしまった。 代表ゴール数34は歴代3位(2006年12月現在)だが、W杯後もレギュラーとしてプレーできない状況に、代表引退も視野に入れていると言われている。


■ダヴィド・トレゼゲのプレイスタイル

世界屈指のセンターフォワード。特に浮き球の処理がうまく、浮き球を蹴らせたら彼の右に出る者はそういない。また世界屈指といわれる滞空時間の長いジャンプ力いかした打点の高いヘディングとフィジカルの強さで前線で起点になりゴールを量産する。ボディバランスやボールコントロールも良く、キープ力、決定力といったFWに必要な要素を高いレベルで兼ね備えている選手である。シュートの威力とその精度は抜群。また思い切りが良くダイレクトでのプレーを得意とし、豪快に決める姿は爽快である。数々の大舞台で決勝ゴールなどを決めてきた。ペナルティエリア内でのプレーを最も得意としておりエリア内は無類の強さを誇る。

ユヴェントスで2トップを組むアレッサンドロ・デル・ピエロと絶妙なコンビネーションを見せる一方、フランス代表で2トップを組む場合、ティエリ・アンリとのコンビネーションは何故か悪い。トレゼゲは敵陣に空いたスペースに飛び込んで攻撃を仕掛けるプレーを得意とするが、ティエリ・アンリとの2トップとなるとそのスペースを相殺してしまうために同時に用いられることが極端に少ない。なお、アンリとはASモナコ所属時代にチームメイトであったが、当時のアンリはウイングを務めていたため、この時は問題なくプレーしていた。また余談だが、1997年に行われたワールドユース選手権ではニコラ・アネルカを加えた3トップを形成したこともあり、彼らの同時起用が全く不可能という訳ではない。


■ダヴィド・トレゼゲの所属クラブ

CAプラテンセ(アルゼンチン)1993-1995
ASモナコ(フランス) 1995-2000
ユヴェントス(イタリア) 2000-


■ダヴィド・トレゼゲのタイトル

1998年 ワールドカップ優勝
2000年 欧州選手権優勝
2001-2002 セリエA得点王
2001-2002 セリエA年間最優秀選手



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ジュスト・フォンテーヌ(Just Fontaine、1933年8月18日 - )は、モロッコ出身、フランス国籍のサッカー選手。ポジションはFW。

1958年に開催された第6回ワールドカップ・スウェーデン大会で6試合に出場し13得点を挙げ得点王となる。1大会での13得点は現在も破られていない。

しかし、度重なる負傷のため第7回ワールドカップ・チリ大会には出場できず、1962年7月に28歳の若さで現役を引退した。

引退後はトゥールーズなどで監督を務めた。また、1967年にはフランス代表監督も務めたが、2試合連続敗戦の後更迭された。その後はトゥールーズでスポーツ用品店を経営している。

代表デビュー:1956年10月7日 vs ハンガリー戦
代表通算:20試合出場 27得点


■ジュスト・フォンテーヌの所属クラブ

USMカサブランカ(モロッコ) 1950-1953
OGCニース(フランス) 1953-1956
スタッド・ランス(フランス) 1956-1962





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ジャン=ピエール・パパン(Jean-Pierre Papin、1963年11月5日 - )は、フランス、ブローニュ=シュル=メール出身の元同国代表サッカー選手(FW)、現在はストラスブールの監督。

地元の2部チーム・バランシアンヌに入団し、1985-1986シーズンにクラブ・ブルージュへ移籍するとすぐさま活躍を見せてカップ戦優勝に貢献し、自身もリーグの得点王を獲得。1986年2月26日の北アイルランド戦で代表デビューを果たし、同年のメキシコW杯にも出場し得点を挙げたが、ワールドカップ出場はフランスが1990年のイタリアW杯と1994年のアメリカW杯の出場権を逃がしたこともあり、1回にとどまった。まだ現役選手であった地元開催の1998年大会では、本大会一次リーグのドロアーもつとめた。

翌シーズンにはマルセイユへ移籍を果たし、1987-1988シーズンから5年連続で得点王に輝くとともに、リーグでは4連覇を達成。1991年にはFIFA選出の最優秀選手に輝き、バロンドールを受賞するなど、ワールドクラスのストライカーに成長した。1992年から所属したACミランでは2度のリーグ優勝や欧州チャンピオンズカップ優勝などに貢献した。

小柄だが快速で心臓も強く、特にオーバーヘッドキックは彼の十八番で、ボールへの入り方やジャンプのタイミングも正確で、大抵はボールの芯に当たって強烈なシュートとなってゴールにとんでいった。

1994-1995シーズンからはドイツ・ブンデスリーガ・バイエルン・ミュンヘンに所属。その後フランスに戻り、ボルドーやギャンガンに在籍。1999年に選手生活に終止符を打った。

2004年からはCFA2(フランスリーグ5部に相当)で監督としてのキャリアをスタートし、2006年からリーグ・ドゥ(2部)所属のストラスブールの監督を務める。


■ジャン=ピエール・パパンの経歴

ヴァランシエンヌFC(フランス) 1979-1981、1984-1985
INF(国立サッカー学院)ビシー(フランス) 1981-1984
クラブ・ブルージュ(ベルギー) 1985-1986
マルセイユ(フランス) 1986-1992
ACミラン(イタリア) 1992-1994
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ) 1994-1996
ボルドー(フランス) 1996-1998
EAギャンガン(フランス) 1998-1999


■ジャン=ピエール・パパンの監督経歴

FCバサン(フランス) 2004-2006
ストラスブール(フランス) 2006-




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ジネディーヌ・ジダン (Zinedine Yazid Zidane, 1972年6月23日 - )は、フランス国籍の元サッカー選手。2006年7月9日のドイツW杯決勝(対イタリア戦)が現役最後の試合になった。

アルジェリア移民の二世で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困な団地で育った。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー(トップ下)。愛称「ジズー」「将軍」(同じフランスのミシェル・プラティニもかつて将軍と呼ばれており、初期の愛称は「プラティニ2世」)。なお一部の雑誌などでは、より原音に近い「ジダヌ」という表記がなされることもある。



■ジネディーヌ・ジダンの経歴

◇1989年5月20日、フランスのASカンヌでトップチームデビューを果たす。

◇1992年7月、カンヌの2部降格に伴いFCボルドーに移籍。

◇1994年8月17日、チェコ戦でフランス代表デビュー、後半18分からの途中出場ながら2得点を挙げる。

◇1996年6月、欧州選手権出場。チームはベスト4に進んだが、自身は直前の交通事故の影響で目立った活躍は出来ず。

◇1996年7月、イタリアのユヴェントスに移籍。

◇1996年11月26日、トヨタカップ優勝。彼にとって初めてのメジャータイトルとなる。

◇1998年、地元フランスで開催されたFIFAワールドカップ・フランス大会に出場。決勝戦ではヘディングで2得点をあげるなどの活躍。フランスの初優勝に大きく貢献し、世界的スターとなる。

◇1998年、欧州最優秀選手,FIFA最優秀選手賞を受賞。

◇2000年、欧州選手権優勝。2度目のFIFA最優秀選手賞受賞。

◇2001年7月、史上最高額となる7,500万ユーロ、約88億円(推定)の移籍金でユヴェントスからスペインのレアル・マドリードに移籍。この記録は未だ破られていない。

◇2002年、チャンピオンズリーグ優勝。ファイナルでは決勝点となった伝説的なボレーシュートを叩き込む。

◇2002年、FIFAワールドカップ・日韓大会では、大会直前の韓国代表との親善試合で発症した左太もも肉離れの影響で、包帯を巻いて強行出場したデンマーク戦1試合の出場にとどまり、フランス代表もグループリーグで敗退。

◇2002年、日清食品・カップヌードルのCMモデルとして出演(「ジダンが地団駄」編)。

◇2003年、レアル・マドリーでの活躍が評価され自身3度目となるFIFA最優秀選手賞受賞。

◇2004年に行われた欧州選手権では3得点を挙げるも、チームはベスト8で敗退。

◇2004年8月12日、フランスのテレビ番組にて体力の限界を理由に代表引退を表明。

◇2005年8月3日、ドメネク監督の説得を受け、クロード・マケレレ、リリアン・テュラムと共にフランス代表に復帰することを自身のウェブサイトで表明。パトリック・ヴィエラからキャプテンマークを譲り受け、予選敗退危機にあったフランスをFIFAワールドカップ・ドイツ大会に導く。

◇2006年4月26日、体力的な衰え等を理由にドイツW杯限りで現役を退く意向を発表した。

◇2006年5月14日、レアル・マドリードでの最後の試合に出場。契約を1年残しクラブから引退した。

◇2006年7月9日、FIFAワールドカップ・ドイツ大会決勝の延長戦後半、マテラッツィに対する頭突き行為によりレッドカードを受け、退場。チームも準優勝に終わり、ジダンのサッカー人生は思いもよらぬ形でその幕を閉じた。しかし大会中の活躍が評価され、カンナヴァロらを抑えて本大会のMVPに輝いた。


■フランスの神様

サッカー史上最も偉大な選手の一人と評価されており、90年代後半から2000年代前半までの全盛期においては「世界最高のサッカー選手」と称えられた。FIFA最優秀選手賞3度、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、ワールドカップ、ユーロ(欧州選手権)、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて制覇。アルジェリア移民2世という彼自身の出自も手伝って、移民国家の象徴としてフランスではスポーツ選手の枠を超えた絶大な人気を誇る。


■ジネディーヌ・ジダンのプレイスタイル

パス、ドリブル、トラップといったボールを扱うテクニックは超一級品で、シュート、フリーキックの精度も高く、ボールコントロールに関しては歴代の名選手の中でも別格。185cmの恵まれた体格の上体を生かして懐深くボールをキープ、両足を巧みに使いながら複数の相手DFをかわし、抜群の視野の広さを持って前線へ正確なパスを送るプレーが彼の真骨頂。まるで踊っているかのような優雅なボールキープで試合を支配する様は指揮者を意味する「マエストロ」と評される。ジダンの周りだけ違う時間が流れている様に見える独特のボールタッチや、殆ど倒れそうな状態からでも正確なパスを送る事のできるバランス感覚など、人間技とは思えないほどのプレーをすることから、宇宙人とのニックネームもつけられた。世界的スターが集まった2000年代前半のレアル・マドリードでも、彼の存在感は際立っており、多くの評論家・解説者が「ジダンのプレーは次元が違う」「彼は別の惑星から来た選手なのか」とため息を漏らしていた。 見ている側からは上手くて華麗といった評価がほとんどであるが、実際に戦った選手からは特にフィジカルの強さを強調する感想が多く、ボールをとられないためにテクニックだけでなく当たりの強さも持ち合わせていることが彼のプレーの下支えとなっている。

得点力に関しては歴代名選手と比べると物足りない部分があるとされ、2006年1月15日のセビージャFC戦でのハットトリックはプロ17年のキャリアを通じ初めてのことであった。 一方で、ジダンのプレイスタイルはストライカーとは異なっており、一概に過去の名選手との得点力を比較することはできないとする意見もある。

彼の得意技「ルーレット」とは、ドリブルの途中、両足の裏でボールを転がしながら一回転をし、プレスに来た相手選手をかわす技。彼が考案した技ではないが、トッププレーヤーでこの技を試合中に頻発させるのは彼以外にいないため、ジダンの代名詞ともなっている。ただし彼自身、必要な場合に使うのであって相手選手に失礼になるような使い方をしてはならないと発言をのこしている。 ちなみに、彼のルーレットを特別にマルセイユ・ルーレットと呼ぶのは日本だけである。

2006年ドイツW杯では現役引退するということで日本でも注目を集め、マルセイユ・ルーレットを知らなかった人にも有名になったが最近では、マルセイユ・ルーレットは日本人がジダンの出身地からもじった名前だとは知らずにそれが正しい名前と思い込みマルセイユ出身でない全く別の国の選手がルーレットをする時にもマルセイユ・ルーレットと言ってしまう傾向がある。


■ジネディーヌ・ジダンの大舞台での勝負強さ

また、大きな大会になるほど力を発揮するのも彼の特徴である。 ワールドカップ通算12試合5得点、欧州選手権通算13試合5得点。W杯決勝通算3得点はペレ・ババ・ハーストと並び史上最多タイ、また2大会に渡る決勝戦でのゴールはペレ・ババ・ブライトナーに続き史上4人目。

1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会ブラジルとの決勝戦で、ジダンはCKからのヘディングで2得点を挙げる。とりわけ、2点目はブラジルの守備の要であったドゥンガを弾きとばして得点を決めた。ブラジルはジダンはヘディングが苦手ということでほとんどノーマークであった。

また、2002年チャンピオンズリーグ決勝のレバークーゼン戦でのゴールは、彼のテクニック・勝負強さを最も物語っているプレーであり、選手ジダンのハイライトとも言える。1対1の同点で迎えた前半終了間際、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。サッカー史上最も美しいゴールのひとつと言われるこのボレーが決勝点となり、ジダンはキャリア初のチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。

EURO2004グループリーグ・イングランド戦ではロスタイムに2ゴールを決め逆転勝利に貢献。

現役最後の大会となったW杯ドイツ大会でも、低調だったグループリーグから一変、決勝トーナメントでは全盛期を彷彿とさせるプレーでフランスを決勝にまで導いた。準々決勝ブラジル戦ではアンリの決勝ゴールをアシストし、この試合のMVPに選ばれた。これまでジダンのアシストからアンリがゴールを決める場面は、共に出場したフランス代表55試合で1つもなく、メディアからの批判を受けていたが、これが初めてにして唯一のアシストとなった。


■ジネディーヌ・ジダンの人間像

◇温和な性格
敬虔なイスラム教徒であり、パーティーなど華やかな生活を好まない。 インタビュー等で見られる、はにかみ屋で静かな話し方から、謙虚で控えめな性格と評される。 チャリティー活動も熱心に行っており、人望も厚く、ピッチの外では非常に温厚なことで知られている。 また、子供時代からのアイドルは、元マルセイユのエンツォ・フランチェスコリ(ウルグアイ代表)。子供にエンツォの名前を付けるほど尊敬しており、選手として初めて対戦した1996年トヨタカップではユニフォーム交換をし、非常に感激した様子であった。


◇もうひとつの顔
しかしながら、試合において、暴力行為により警告を受けたり退場になったりした回数は少なくない。キャリアを通じて受けたレッドカードは通算14枚。 有名なところでは、1998年フランスW杯でサウジアラビアの選手を両足で踏みつけ(2試合出場停止)、ユベントス時代の2000年チャンピオンズリーグではハンブルガーSVの選手へ頭突き(5試合出場停止)、レアル・マドリード時代の2004年リーガ・エスパニョーラではムルシアの選手に対して頭突き、また、2005年のリーガではビジャレアルの選手に対して突然平手打ちをするなど、瞬間的に頭に血が上りやすいことでも知られている。

2006年ドイツW杯の韓国戦で警告累積、次の試合が出場停止になった際、スタジアム内の扉を蹴り壊した。通常は修繕されるものだが、施設側は「サッカー史上最も偉大な選手の一人に蹴られた扉」ということでそのまま保存することに決めた。

また、引退後の東南アジアで行われたチャリティマッチに参加したが、中国からのチャリティマッチのオファーを「中国人は汚いプレーをする、もう中国でサッカーをしたくはない。」と言い拒否した。


◇2006 FIFAワールドカップ(ドイツ)決勝戦
現役最後の試合となったイタリアとの決勝戦延長後半5分、相手DFマテラッツィの胸元に頭突きを喰らわせて一発退場。その直前に、ジダンとマテラッツィは2,3の言葉を交わしており、両者ともその内容について沈黙を続けたため、世界中で様々な憶測が飛び交い、マテラッツィによる人種差別発言の有無も取り沙汰され、社会問題となった。7月12日夕方(仏時間)フランスのTV局カナル・プリュス及びTF1によるインタビューでジダンは事件後初めて沈黙を破り、「母と姉を傷つけるひどい言葉を繰り返された」と語った。また自身の行為について、「20億、30億人が見守る中での私の行為は許されないもので、特にテレビを見ていた子供たちに謝りたい」と謝罪の意思を述べたものの、「W杯決勝の、しかもサッカー人生の終了10分前に面白半分にあんなことをすると思いますか?」「後悔はしていない。後悔をすれば、彼(マテラッツィ)の行動を認めることとなってしまう」と語り、頭突きをした行為自体は後悔していない事も強調した。7月20日、FIFAの規律委員会は、出場停止3試合及び罰金7500スイスフラン(処分当時の円換算で約70万円)の処分を決めた。ただし、出場停止処分については、彼自身がすでに現役引退を表明しているため、社会奉仕活動3日間の義務付けとなった。


■ジネディーヌ・ジダンの所属チーム

1988年-1992年 - カンヌ(フランス) 61試合6得点
1992年-1996年 - ボルドー(フランス) 140試合28得点
1996年-2001年 - ユヴェントス(イタリア) 151試合23得点
2001年-2006年 - レアル・マドリード(スペイン) 155試合38得点


■ジネディーヌ・ジダンの生涯成績

クラブ通算 507試合95得点
代表通算 108試合31得点




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エリック・カントナ(Éric Daniel Pierre Cantona, 1966年5月24日 - )はフランス出身のサッカー選手。


■エリック・カントナのプロフィール

1983-1984シーズンに、フランス・オセールにてプロキャリアをスタート。その後、マルセイユ、ジロンディンズ、リーズ・ユナイテッドを経てマンチェスター・ユナイテッドでは3度の優勝の原動力になる。

クラブファンが選ぶ「20世紀を代表する選手」に選ばれた。重戦車のような体でピッチを駆け回り、相手選手を威圧。しかしそのボールさばきは天才的で、技術的には完璧に近かった。これだけなら他にも優れた選手はいるが、カントナをカントナたらしめたのはその類まれなるイマジネーションであった。ピッチ上で彼に不可能は無く、彼の頭の中で試合をしているような、それほど他の選手に影響力のある選手だった。ユニフォームの襟を立てる着こなしは、彼が元祖といわれる。「エリック・ザ・キング」の異名を持つ。

1997年に31歳で引退後は俳優、そしてビーチサッカーフランス代表も務める。2002年以降、NIKEのテレビCMに出演し話題を呼ぶ。2006年にはNIKEのJOGA BONITOシリーズのCMに出演。「打て。」で視聴者に印象を残す。


■エリック・カントナの逸話

◇1995年1月25日、クリスタル・パレス戦においてレッドカードを宣告され退場するカントナに「カントナ失せろ。シャワーを浴びて帰れ!」と野次を飛ばしたクリスタル・パレスのサポーター、マシュー・シモンズに対して、カントナがいきなり飛び蹴りを放った(ファンの間では「カンフーキック」「カントナキック」と呼ばれる)。カントナは元々あまりおとなしいタイプでは無かったが、これは大きな批判を呼び、約4ヶ月間の社会奉仕活動、1年弱の出場停止処分を言い渡された。

◇EURO1996のフランス代表発表の際にジネディーヌ・ジダンが頭角を現してきたことや世代交代の波もあり、カントナはフランス代表から外された。当時のフランス代表監督のエメ・ジャケは、カントナに代表落選を告げる時のことを「死ぬほど怖かった」と語っている。ちなみにカントナ自身はこのことが影響してか、同年イングランドに帰化している。

◇マンチェスター・ユナイテッドの監督のアレックス・ファーガソンがアラン・シアラー獲得断念について「シアラーを獲得するにあたって、2つの問題があった。一つは彼がPKを蹴りたがること、もう一つは背番号9番をつけたいと思っていることだ。背番号の方はそれほど問題はなかったのだが、その頃の私のチームでPKを蹴っていたのは“カントナ”だったのだよ…。」と語った。

◇またファーガソンはカントナについて「確かにカントナには数えきれない程の欠点がある。彼は人の指図を受けない人間だ。しかし、彼が我がクラブにもたらした最大の功績は、完璧を目指すならトレーニングを疎かにするなということを思い出させてくれたことだ。」と語っている。彼の練習熱心さはベッカムを始めとするチームメイトに大きな影響を与えた。

◇イマジネーション溢れるプレースタイルは、ベッカムをして「一緒にプレイした中では彼がベスト。彼のようなカリスマになることが僕の夢」と言わしめた。

◇オリンピック・マルセイユ時代のチームメイト、ストイコビッチはカントナの動きだしの早さ、オフザボールの動きの良さを後に褒め称えている。


■エリック・カントナの所属クラブ

AJオセール(フランス)1981-1985
FCマルティーグ(フランス)1985-1986
AJオセール(フランス)1986-1988
オリンピック・マルセイユ(フランス)1988-1989
FCボルドー(フランス)1989
モンペリエHSC(フランス)1989-1990
オリンピック・マルセイユ(フランス)1990-1991
ニーム・オリンピック(フランス)1991
リーズ・ユナイテッド(イングランド)1992
マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)1992-1997



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フェレンツ・プスカシュ、プシュカーシュ・フェレンツ・ビーロー(Puskás Ferenc biro, ハンガリー語では日本語と同様に姓(Puskás)を先に表記する, 1927年4月2日-2006年11月17日)は ハンガリー・ブダペスト出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(インサイドレフト)。


■フェレンツ・プスカシュのプレイスタイル

テクニカルかつパワフルな左足で、第2次大戦後の混乱期にあるヨーロッパを席捲し、「走る少佐」(Gallopping Major)と呼ばれた。


■フェレンツ・プスカシュの経歴

1950年前半から1954年W杯スイス大会の決勝で敗れるまで4年間無敗を続け、「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー代表の主将として活躍した。

W杯スイス大会では、プスカシュは予選リーグの西ドイツ戦において故意のファウルにより負傷し、決勝リーグ2試合を欠場することとなった。

大黒柱を失ったハンガリーはそれでもブラジルやウルグアイといった強豪を相手に勝ち進んだが、疲労が蓄積し、決勝で再び西ドイツと対戦する頃には満身創痍の状態であった。プスカシュ自身も怪我をおして出場したものの、イギリス人主審の不可解な判定(直前の親善試合でハンガリーはイングランドを2度大差で破っていた)に苦しみ、結果2-3で敗北。マジック・マジャールの不敗神話は最も重要な舞台で終焉を迎えた。

1956年、ハンガリー革命が発生した。たまたま遠征中だったプスカシュはそのまま帰国せず、影響でハンガリー国内リーグが中止となったこともあってプレーの機会を求めてスペインに亡命する。しかしハンガリー政府の圧力がかかり、2年間の公式戦出場停止処分を受けてしまう。
処分が明けた1958年、30歳でスペインの名門レアル・マドリードに加入。ディ・ステファノらと共にレアル・マドリードの第1次黄金時代を築いた。後にスペイン国籍を取得し、スペイン代表にも選出された。

1966年に39歳で現役引退。その後世界各国で監督を歴任した。
1971年にはギリシャの名門パナシナイコスを率い欧州チャンピオンズカップの決勝まで導くも、オランダのカリスマ・ヨハン・クライフ率いるアヤックスに惜しくも敗れた。

6年間、アルツハイマー病のため寝たきりの状態に陥っていた。2005年には彼の名を冠したチャリティ・マッチが開催される。

2006年11月17日、肺炎のためブダペストで死去。79歳であった。


■フェレンツ・プスカシュのエピソード

冷戦終結後、プスカシュは故郷ハンガリーを訪れた。国を捨てた者として石のつぶてを覚悟していた彼を待っていたのは、国民的英雄の帰還を祝う熱狂的な歓迎だったという。2001年には、ハンガリー国立スタジアムが「プスカシュ・フェレンツ・スタジアム」(Stadion Puskás Ferenc)と改称された。


■フェレンツ・プスカシュの所属クラブ

1939-1949 キシュペストAC(ハンガリー)
1949-1956 ホンベド・ブダペスト(ハンガリー)
1958-1967 レアル・マドリード(スペイン)


■フェレンツ・プスカシュの経歴

▽代表

1945年 代表デビュー
1952年 ヘルシンキオリンピック・男子サッカー競技 金メダル
1954年 FIFAワールドカップ準優勝

ハンガリー代表通算84試合出場、83得点(ハンガリー代表歴代最多得点記録)
代表での83得点は、21世紀に至るまで長い間世界記録だった。現在はイランのアリ・ダエイに抜かれたが、プスカシュは実質的に29歳までしか代表歴がないことを考慮すると、驚異的な数字と言える。
1961年 スペイン代表として国際試合の舞台に復帰 翌年のW杯にも出場
スペイン代表として4試合出場0得点


▽クラブ

レアル・マドリード所属時にスペイン国内リーグ優勝5回、欧州チャンピオンズカップ5回優勝
1959年-60年シーズンの欧州チャンピオンズカップの決勝で4得点をマーク。現在も最多得点記録として残っている。




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リュストゥ・レチベル(Rüştü Reçber、1973年5月10日 - )は、トルコ・アンタルヤ出身の同国代表、シュペルリガ・フェネルバフチェ所属のサッカー選手(GK)。

1990年、ブルドゥルギュチュに入団。1シーズン在籍した後に地元のクラブチーム・アンタルヤスポルへ移籍。1994年にはフェネルバフチェへ移籍を果たし、10月12日のアイスランド戦では代表デビューを飾る。1995-1996シーズンのリーグ優勝に貢献すると次第に評価を上げ、EURO1996やEURO2000に出場。さらに2002年の日韓W杯ではチームの守護神として48年ぶりに本大会出場を果たした代表を3位入賞に導く活躍をした。

その活躍が認められ、2003-2004シーズンよりバルセロナへ移籍。正ゴールキーパーとして期待されるもビクトール・バルデスの台頭により控えに甘んじる形となり、シーズン終了後にフェネルバフチェに復帰を果たした。


■リュストゥ・レチベルの所属クラブ

ブルドゥルギュチュ(トルコ) 1990-1991
アンタルヤスポル(トルコ) 1991-1994
フェネルバフチェ(トルコ) 1994-2003
バルセロナ(スペイン) 2003-2004
フェネルバフチェ(トルコ) 2004-


■リュストゥ・レチベルの代表歴

トルコ代表
2002年 FIFAワールドカップ(3位)



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エムレ・ベロゾール(Emre Belözoglu、1980年9月7日 - )は、トルコ・イスタンブール出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。FAプレミアリーグ・ニューカッスル・ユナイテッド所属。

173cmと小柄ながら、豊富な運動量と広い視野、卓越したパスセンスを併せ持つプレイメーカー。欧州のビッグクラブにトルコ人選手で最も若くして加入した選手である。

2000年に弱冠20歳でノルウェー戦でトルコ代表デビュー。2002年の日韓W杯では6試合出場し1ゴールを挙げ、3位の快挙に大きく貢献した。


■エムレ・ベロゾールの所属クラブ

ガラタサライ(トルコ) 1997-2001
インテル(イタリア) 2001-2005
ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド) 2005-


■エムレ・ベロゾールのタイトル

1997年 - 1998年 国内リーグ優勝 (ガラタサライ)
1998年 - 1999年 国内リーグ優勝・国内カップ戦優勝 (ガラタサライ)
1999年 - 2000年 UEFAカップ優勝・国内リーグ優勝・国内カップ戦優勝 (ガラタサライ)



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ローター・マテウス(Lothar Matthäus、1961年3月21日 - )は、ドイツ出身の元同国代表サッカー選手(DF・MF)。現在はオーストリア・レッドブル・ザルツブルクのヘッドコーチ。

ディエゴ・マラドーナと同世代でタイトル獲得の実績はマラドーナに遜色がない。天才と呼ばれ華やかな活躍をするマラドーナとは対照的に、こつこつと実力を伸ばしていった。フランツ・ベッケンバウアーと同じようなポジションの変遷を辿っている(MF・DFのほぼ全てのポジションをこなせ、近代サッカーに最もマッチしている選手との評価もある)。MFでスタートし、後にリベロになる。'86W杯では決勝戦でマラドーナのマンマーク役をする。マラドーナ自身には仕事をさせなかったが別のところからアルゼンチンは得点する。そして、マテウスはマラドーナのマークから外れドイツチームは反撃に出たが、一時は同点に追いついたものの最後はマラドーナのスルーパスから決勝点を決められ結果はアルゼンチンの勝利に終わった。その後もプレーの幅、安定感を伸ばし、強烈なキャプテンシーでチームを引っ張った。1990年のイタリアW杯でアルゼンチンに雪辱を果たす。

1990年頃まではその強靭な肉体と正確なパスを送る能力を生かしセンターハーフとして、文字通り中盤の王様として君臨していたが、インテル・ミラノ時代の故障を経て、1993~1994年頃リベロにコンバート。スピードや運動量は衰えたものの、最終ラインからの正確なフィードでマテウス・スタイルとも呼べるプレーを確立。 1996年の欧州選手権時に当時のドイツ代表の中心選手クリンスマンと意見の相違から揉め、代表から外される。 クリンスマンとはその後も犬猿の仲。

現役引退した後、2001年9月にラピド・ウィーン(オーストリア)で監督としてのキャリアをスタートさせ、ハンガリー代表の指揮を執った。その後ブラジルのクラブであるアトレチコ・パラナエンセを指揮したが、生活環境の不一致ですぐに帰国した、と表向きに報道されているが、実際には報道陣とトラブルを起こしサッカー協会より1ヶ月の出場停止処分をくらい、それに嫌気がさして出て行ったようである。

2006年より、レッドブル・ザルツブルクのヘッドコーチを務める。


■ローター・マテウスの所属クラブ

FCヘルツォーゲンアウラッハ(西ドイツ)
ボルシアMG(西ドイツ)1979-1984
バイエルン・ミュンヘン(西ドイツ)1984-1988
インテル・ミラノFC(イタリア)1989-1992
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)1992-2000
ニューヨーク・ニュージャージー・メトロスターズ(アメリカ合衆国)2000-2001


■ローター・マテウスの指導経歴

ラピド・ウィーン
パルチザン・ベオグラード
ハンガリー代表
アトレチコ・パラナエンセ
レッドブル・ザルツブルク (ヘッドコーチ)


■ローター・マテウスの経歴・獲得タイトル

▽代表

ヨーロッパ選手権 EURO1980優勝
1982年 スペイン大会準優勝
1986年 メキシコ大会準優勝
1990年 イタリア大会優勝、主将を務める。
ドイツ代表最多の150試合出場
1982年 スペイン大会以降5大会連続本大会出場しており、W杯通算25試合出場は最多記録である。

▽クラブ

ドイツ・ブンデスリーガ優勝 6回 (1985、1986、1987、1994、1997、1999)
ドイツカップ優勝 2回 (1986、1998)
ドイツカップ優勝 1回 (1984)
ドイツリーグカップ優勝 2回 (1998、1999)
UEFAチャンピオンズリーグ準優勝 2 回 (1987、1999)
UEFAカップ優勝 2回 (1991、1996)
スクデット優勝 1回 (1989)


■ローター・マテウスの個人タイトル

欧州年間最優秀選手(1990年)
FIFA最優秀選手賞(1991年)



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ユルゲン・クリンスマン(Jürgen Klinsmann, 1964年7月30日 - )は、ドイツ・ゲッピンゲン出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはセンターフォワード。2006年に開催されたFIFAワールドカップドイツ大会ではドイツ代表監督を務めた。愛称「黄金の隼」。


■ユルゲン・クリンスマン

1978年に西ドイツのサッカークラブチーム・SVシュトゥットガルター・キッカーズに入団してキャリアをスタート。1984年にVfBシュトゥットガルトへ移籍し、1987年/1988年シーズンには得点王を獲得。西ドイツ代表に招集され、1987年12月12日のブラジル戦でデビューを飾った。ドイツでの活躍が認められて1989年にはセリエA・インテルへ移籍した。その後モナコ、トッテナムと各国のリーグでプレーし、1995年に母国バイエルン・ミュンヘンに移籍して返り咲く。最終所属クラブはかつて在籍していたトッテナムで、1998年に現役を引退した。

代表としては、西ドイツ代表のストライカーとして1990年のイタリアW杯で優勝。EURO1992で準優勝、EURO1996では優勝を果たすなど、ドイツのタイトル獲得に貢献するとともに、長年にわたり主将を務めた。通算成績は108試合47得点。


■ユルゲン・クリンスマンの指導者として

代表引退後は、コーチライセンスを取得し2004年にルディ・フェラー辞任を受けてドイツ代表監督に就任した。監督就任後若手選手を積極的に起用したが、なかなか結果を出せず、親善試合でも苦戦が続いた。このため、後述するように母国を留守にしていることも相まってドイツ国民から批判を受けることが多かったが、地元開催のFIFAワールドカップ・ドイツ大会で下馬評を覆す試合内容、成績を収めたため評価は好転。3位決定戦ではポルトガルを3-1で破って3位に踊り出、ドイツ国民の「優勝出来なかった」失望感を多少ではあるだろうが和らげる一助にした。有終の美を飾る事によってクリンスマンはドイツ代表と共に笑顔で自国W杯を終える事が出来た。大会終了後、惜しまれながらも監督を辞任すると発表した。


■ユルゲン・クリンスマンのエピソード

パン職人の息子であり、本人もパン職人の資格を取得している(現在は父は他界し、母と兄が後を継いで経営している)。その華やかな実績とは裏腹に私生活はきわめて地味であり、スター選手となった後も、クルマは中古、カバンはリュックを愛用している。現役時代から、高額な年俸の遣い道を聞かれ「将来に備えて貯蓄しているところ」と答えている。

一年の大半をアメリカ、カリフォルニアで過ごしている。アマチュアクラブのオレンジ・シティ・ブルー・スターズでは、ジェイ・ゲッピンゲンの偽名でプレーを続けていた。「ジェイ」は彼のファーストネームの頭文字、「ゲッピンゲン」は出身地のゲッピンゲンから取ったものと想像される。

シュトゥットガルト時代からのチームメイトであるギド・ブッフバルト(前浦和レッズ監督)とは唯一無二の親友である。

ローター・マテウスとは犬猿の仲であることは有名である。


■ユルゲン・クリンスマンの選手経歴

SVシュトゥットガルター・キッカーズ(ドイツ) 1978-1984
VfBシュトゥットガルト(ドイツ) 1984-1989
インテル・ミラノ(イタリア) 1989-1992
ASモナコ(フランス) 1992-1994
トッテナム・ホットスパー(イングランド) 1994-1995
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ) 1995-1997
サンプドリア(イタリア) 1997
トッテナム・ホットスパー(イングランド) 1997-1998


■ユルゲン・クリンスマンの獲得タイトル (選手として)

イタリアW杯優勝 (1990年)
欧州選手権優勝 1回(1996年)
UEFAカップ優勝 2回(1991年、1996年)
ドイツ・ブンデスリーガ優勝 1回(1997年)
ブンデスリーガ得点王 1回(1988年)
ドイツ最優秀選手 2回(1988年、1994年)
イングランド最優秀選手 1回(1995年)
ソウルオリンピック銅メダル (1988年)



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長居の悲劇(ながいのひげき)はJリーグ・セレッソ大阪がホームスタジアムの長居公園陸上競技場で行われた試合でリーグ優勝を逃したことを指す。

最初は2000年5月27日の川崎フロンターレ戦で延長Vゴール負けによりファーストステージ優勝を逃し、2度目は2005年12月3日のFC東京の試合で後半ロスタイムに同点ゴールを決められてリーグ優勝を逃した。

共に前々節で2位だったセレッソが前節に首位に立ち、最終節は下位チームを相手に有利に進めながらも勝利できなかったところが共通している。また川崎フロンターレ、ジェフ千葉が共に関係しているのは興味深いといえる。さらに、セレッソはこの優勝争いをした翌年(2001年、2006年)には、いずれもJ2に降格してしまっている。そして、さらにセレッソはこの優勝争いの年の年間順位が共に5位であることである。セレッソにとってこの5位は呪われているのかも知れない。


■2000年Jリーグ ディビジョン ファーストステージ

▽試合概要
開催日:2000年5月27日
開催地:長居公園陸上競技場(大阪市)
結果:セレッソ大阪 1 - 2v 川崎フロンターレ
得点:49分 我那覇和樹(川崎) 60分 西澤明訓(C大阪) 106分 浦田尚希(川崎)

16チーム1回戦総当たり2ステージ制で行われたこのシーズン、セレッソ大阪は5月20日に行われた第14節の横浜F・マリノス戦(三ツ沢公園球技場)で3-2と勝利し首位に立った(雨の三ツ沢)。この試合、対戦相手の横浜F・マリノスは90分以内で勝てばファーストステージ優勝が決まるところであったが、雨のなか行われたこの試合で勝利したセレッソ大阪は、5月27日の第15節(最終節)川崎フロンターレ戦で勝利すれば無条件で初優勝が決まる状況となった。

対戦相手の川崎フロンターレは、ファーストステージ15位であり、セレッソ大阪の勝利は確実視されていた。43193人の大観衆を前に行われたこの一戦を前半は両チームとも無得点で終えると、後半4分に先制点が川崎フロンターレの我那覇和樹により生まれた。対するセレッソ大阪は後半15分、西澤明訓が同点ゴールを決め、その後も攻勢に出たがゴールをあげることが出来ず、試合はVゴール方式の延長戦に突入した。

同じ時間、国立霞ヶ丘競技場(東京都)でジェフユナイテッド市原と対戦していた横浜F・マリノスは2-0で勝利をあげ勝ち点30、得失点差+11、総得点32となった。この時点でセレッソは勝ち点29、得失点差+10、総得点34となっていたため、引き分けでは勝ち点30で並ぶものの得失点差で1及ばないため優勝するためにはVゴール勝ち(勝ち点31)するしかなくなった。

しかし対戦相手のフロンターレはJ1初昇格にして早くも降格の危機に陥っており、どの試合も落とせない状況であったため延長に入っても攻め続け、延長後半1分、川崎フロンターレは右サイドから我那覇和樹のあげたクロスボールをゴール左サイドに滑り込んだ浦田尚希がダイレクトボレーで決め、1-2でセレッソ大阪はVゴール負けとなった。

これにより国立競技場の大型ビジョンでサポーターとともに戦況を見ていた横浜F・マリノスに2000年ファーストステージ優勝が転がり込み、セレッソ大阪は2位に終わった。(その後のセカンドステージでは波に乗れず、9位に沈み年間順位は5位となった。また川崎フロンターレはファースト、セカンドステージで15位、年間順位は16位となりJ2に降格した)

◆メンバー

▽セレッソ大阪

監督:副島博志
選手
GK:下川誠吾
DF:興津大三(59分 FW 上村崇士) 藏田茂樹 原田武男 鈴木悟
MF:田坂和昭 尹晶煥 盧廷潤 森島寛晃(89分 DF ペリクレス)
FW:西谷正也 西澤明訓
ベンチ入り:小澤英明(GK) 内田利広(MF) 清水和男(MF)

▽川崎フロンターレ

監督:今井敏明
選手
GK:浦上壮史
DF:久野智昭 西澤淳二 奥野僚右 長橋康弘
MF:ペドリーニョ 大塚真司 マジーニョ(105分 中西哲生) 向島建(86分 FW 浦田尚希)
FW:森山泰行(61分 鈴木隆行) 我那覇和樹
ベンチ入り:菊池新吉(GK) 伊藤彰(MF)


■2005年Jリーグ ディビジョン1

▽試合概要
開催日:2005年12月3日
開催地:長居公園陸上競技場(大阪市)
結果:セレッソ大阪 2 - 2 FC東京
得点:3分 西澤明訓(C大阪) 20分 鈴木規郎(FC東京) 48分 西澤明訓(C大阪) 89分 今野泰幸(FC東京)

18チーム1ステージ2回戦総当たり制(全34節)となったこの年、Jリーグは5チームが優勝を競う大混戦となっていた。

第32節まで首位に立っていたガンバ大阪であったが、次の第33節まで3連敗を喫すると、第19節から無敗により勝ち点を重ねたセレッソ大阪が首位に立った。しかし最終節を迎えたこの時点で勝ち点58のセレッソ大阪と、ガンバ大阪(勝ち点57)、浦和レッズ、鹿島アントラーズ、ジェフ千葉(以上、勝ち点56)の5チームに優勝の可能性が残る大混戦となった。そのためセレッソは、最終戦の対戦相手、FC東京に勝たないと優勝は厳しい状況に置かれていた。

43927人の観衆が詰め掛けたこの試合、セレッソは前半3分に西澤明訓のゴールで先制する。前半20分、FC東京の鈴木規郎が同点ゴールを決め1-1の同点となると、その直後にセレッソはPKのチャンスを得る。しかしゼ・カルロスがこれを決められず、前半は同点での折り返しとなった。

この時点でレッズとアントラーズが2-0とリードしており、セレッソはその次に位置していたが、後半3分に西澤明訓が2点目をあげ、その後もリードを保つと、誰もがセレッソの初優勝を信じた。

しかし後半ロスタイムに悲劇は起きた。ゴール前の混戦からFC東京の今野泰幸に同点ゴールを決められ2-2の引き分けで試合は終了した。そのためセレッソは勝ち点59となり、川崎フロンターレに4-2で勝利したガンバ大阪が勝ち点60となり逆転で優勝。レッズ(4-0)、アントラーズ(4-0)、ジェフ(2-1)も全て勝利し勝ち点59となったが、得失点差によりセレッソ大阪は前回の時と同じ5位に終わった。

優勝を逃した原因としてPKを土肥洋一に止められてはずしたゼ・カルロスに批判が集中するが、セレッソの2点目の西澤のゴールはゼ・カルロスのドリブル突破からによるものだった。また、対戦相手のFC東京も同年9月3日の柏レイソル戦に敗れてから1度も敗戦を喫していなかったため、最後まで果敢に攻めたのであった。

◆メンバー

▽セレッソ大阪

監督:小林伸二
選手
GK:吉田宗弘
DF:柳本啓成 藤本康太 前田和哉
MF:ファビーニョ ゼ・カルロス(86分 FW 黒部光昭) 久藤清一(89分 DF 山崎哲也) 下村東美
FW:森島寛晃(82分 MF 徳重隆明) 古橋達弥 西澤明訓
ベンチ入り:伊藤友彦(GK) 宮原裕司(MF)

▽FC東京

監督:原博実
選手
GK:土肥洋一
DF:茂庭照幸 ジャーン 藤山竜仁 金沢浄
MF:今野泰幸 鈴木規郎 梶山陽平(69分 FW 近藤祐介) 栗澤僚一(54分 宮沢正史)
FW:阿部吉朗 戸田光洋
ベンチ入り:遠藤大志(GK) 浅利悟(MF) 三浦文丈(MF)


■ドーハの悲劇との共通点

2005年の長居の悲劇は、ドーハの悲劇といくつか共通点があるといえる

◆この試合に勝利すれば、目標を達成できた
▽日本代表:ワールドカップ出場
▽セレッソ:Jリーグ優勝

◆5チームに目標達成の可能性があった
▽日本代表:日本、韓国、サウジアラビア、イラン、イラク
▽セレッソ:セレッソ、ガンバ、レッズ、アントラーズ、ジェフ

◆先制、同点、勝ち越し、そしてロスタイムに痛恨の同点ゴールで2-2のスコア。

◆ロスタイムでの失点が、ともに右サイドからのコーナーキックを基点とする得点

◆ライバルチームが目標を達成した
▽日本代表:韓国代表がワールドカップ・アメリカ大会出場権を獲得
▽セレッソ:ガンバ大阪がJリーグ優勝

◆チームの序盤の調子が悪かった
▽日本代表:序盤の結果 1敗1分
▽セレッソ:序盤の結果 3敗

しかし、共通していないところと言えば、日本代表は4年後にW杯出場の目標を成し遂げたが(ジョホールバルの歓喜)、セレッソはまだである事。優勝争いの翌年(2001年、2006年)に低迷し、J2に降格してしまったことであろう。(さらに皮肉にもセレッソ大阪の降格が決定したときの相手は2001年はFC東京、2006年は川崎フロンターレであった。)




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ドーハの悲劇は、1993年10月28日、カタールのドーハで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの試合(1994年アメリカワールドカップアジア地区最終予選の日本代表最終戦)において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表チームの同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まったことを指す日本での通称である。最初に「ドーハの悲劇」というフレーズを使ったのは夕刊フジ。この試合の結果、韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡(□□□ □□)」と呼ばれる。日本でもとらえ方によっては「ドーハの奇跡」や「ドーハの喜劇」と呼ぶことがある。

日本でのテレビ中継(地上波)はテレビ東京が行い、視聴率は日本時間では深夜帯にも関わらず、同局史上最高の48.1% (関東地区) を記録した。

その後、岡田は初出場の1998年フランスワールドカップ日本代表監督となった。日本のサッカーファンにとって、メキシコシティオリンピック3位、アトランタオリンピックの「マイアミの奇跡」、1998年フランスワールドカップアジア地区予選の「ジョホールバルの歓喜」と共に忘れられない出来事の一つに数えられる。


■「ドーハの悲劇」の試合の経過

◆最終予選第4戦まで

日本は、1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。

この最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われ、1次予選を勝ち抜いた6チームの総当たりリーグ戦で、上位2チームがワールドカップの出場権を得ることになっていた。

日本は初戦のサウジアラビア戦を 0 - 0 で引き分け、第2戦のイラン戦を 1 - 2 で落とした。イラン戦では途中出場した中山雅史が、度重なる失点で無気力となりボールを追いかけなくなったラモス瑠偉とは対照的にボールをゴールライン際まで追いかけ、角度0に近い位置からゴールを決め1点を返した。ゴール後、イランのゴールキーパーからボールを奪い取りセンターサークルまで走って試合再開を促し、味方を鼓舞した姿はサブに甘んじてきた中山を一躍全国区の有名選手にした。一時は最下位になったが、第3戦の北朝鮮戦を 3 - 0 で勝利し、続く第4戦で宿敵韓国に三浦知良(カズ)のゴールで 1 - 0 勝利し、韓国に代わり首位に立った。

それまで日本にとって大きな壁であった強敵韓国を試合内容でも圧倒して、W杯と五輪のアジア予選では初勝利、しかも本戦出場に王手をかける勝利であったから、日本のファンは大いに盛り上がった。

最終戦の組合せは、

日本      - イラク
サウジアラビア - イラン
韓国      - 北朝鮮

となっており、北朝鮮以外の5チームに本大会出場のチャンスがあったが、首位の日本は勝てば文句なく出場権を得られ、引き分けでも、サウジアラビア、韓国が共に勝利するのでなければ(ほぼ)出場権を得られるはずであり、日本はかなり有利な条件で最終戦に臨んだ。


◆最終戦

最終戦、日本は、後半ロスタイムまで 2 - 1でリードしていたが、終了間際にイラクはコーナーキックのチャンスを得る。時間がないので通常はそのままセンタリングかと思われたが、イラクは意表を突くショートコーナー。カズがあわてて対応に走る。しかし、イラクはカラフがカズのディフェンスをかいくぐってセンタリング、そしてオムラムがヘディングシュート。ボールはゴールキーパー松永の頭上を放物線を描いて越えていき、ゴール。イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手は皆、愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、ワンプレーのみを行い、日本はロングボールを出すが、ボールがタッチラインを割ったところでホイッスルが鳴らされ試合終了。 2 - 2 で引き分けとなった。

日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、サウジアラビア 4 - 3 イラン、韓国 3 - 0 北朝鮮だったため、得失点差で韓国に及ばず3位となった日本は本大会への出場権を逃した。

この後、仏W杯からは出場国数が増加しアジア枠がこの時の2から4へ増設され、その恩恵を受けて日本はW杯初出場を達成した。しかし、枠が増加したにもかかわらず苦戦した仏W杯予選のチームと違って、このチームは最後の最後で3位に得失点差で転落しただけに「このチームでW杯に出ていれば」という声も多い。

この試合でもしイラクが敗北した場合、当時のイラクスポーツ協会会長であるウダイ・サッダーム・フセイン(サッダーム・フセインの息子)から全員鞭打ちの刑に処されることになっていた、と元イラク代表が語っていて、むしろ本当の悲劇はこちらのほうかもしれない。


■「ドーハの悲劇」の登録メンバー

選手の所属チームおよびチーム名称は当時のもの。

▽ゴールキーパー
1 松永成立 横浜マリノス
19 前川和也 サンフレッチェ広島

▽ディフェンダー
2 大嶽直人 横浜フリューゲルス
3 勝矢寿延 横浜マリノス
4 堀池巧 清水エスパルス
5 柱谷哲二 ヴェルディ川崎 ※主将
6 都並敏史 ヴェルディ川崎
7 井原正巳 横浜マリノス
21 三浦泰年 清水エスパルス
22 大野俊三 鹿島アントラーズ

▽ミッドフィルダー
8 福田正博 浦和レッズ
10 ラモス瑠偉 ヴェルディ川崎
14 北澤豪 ヴェルディ川崎
15 吉田光範 ジュビロ磐田
17 森保一 サンフレッチェ広島
18 澤登正朗 清水エスパルス

▽フォワード
9 武田修宏 ヴェルディ川崎
11 三浦知良 ヴェルディ川崎
12 長谷川健太 清水エスパルス
13 黒崎比差支 鹿島アントラーズ
16 中山雅史 ジュビロ磐田
20 高木琢也 サンフレッチェ広島

監督 ハンス・オフト
コーチ 清雲栄純
GKコーチ ディド・ハーフナー




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テルアビブの悲劇は、2001年10月27日、イスラエルのテルアビブで行われた2002 FIFAワールドカップ予選で、イスラエル代表がプレーオフ進出を逃したことを指す通称。


■「テルアビブの悲劇」の経過

8大会ぶり2回目、ヨーロッパサッカー連盟移籍後初出場を目指すイスラエルは、2位オーストリアを勝ち点差3で追いかける状況で最終戦の直接対決を迎えた。当初10月7日に行われる予定だったが、アメリカ同時多発テロ事件によりイスラエル国内の治安が悪いため、10月27日に延期された。

イスラエルはこの最終戦に勝てばオーストリアと勝ち点で並び、得失点差で2位となりプレーオフ進出が決定する。試合は後半10分にシモン・ガーションがPKを決め先制、そのままロスタイムに突入しイスラエルはプレーオフ進出を確信した。しかしフリーキックからアンドレアス・ヘルツォークに同点ゴールを決められ、1 - 1の引き分け。この結果オーストリアが2位となり、イスラエルはプレーオフ進出を逃した。


■「テルアビブの悲劇」その後

オーストリアはプレーオフでトルコと対戦。ホームの第1戦を0 - 1で敗れ、アウェーは0 - 5で大敗し、ワールドカップ出場はならなかった。




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ジョホールバルの歓喜(ジョホールバルのかんき)は、1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルで日本代表がW杯フランス大会のアジア第3代表をかけイラン代表と戦い、劇的な逆転勝利によりW杯初出場を決めたサッカーの試合の日本における俗称である。


■「ジョホールバルの歓喜」の背景 - 日本(B組)

日本は、ダブルセントラル方式の1次予選第4組で5勝1分けとし、オマーンを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。

W杯アジア地区の出場枠は3.5。最終予選は10チームがA組・B組の2組に分かれ、それぞれホーム&アウェー方式にてリーグ戦を行い、各組1位および各組2位同士による第3代表決定の勝者が本戦出場を決め、敗者(アジア4位)がオセアニア1位との大陸間プレーオフに回る事とされた。

なお、当初は、アメリカ大会予選と同様、最終予選はセントラル方式が予定されていた。

しかし、日本協会をはじめとする東アジアの国はマレーシア開催を主張し、西アジアの国はバーレーンでの開催を主張し対立が起きたため、アジアサッカー連盟が最終予選直前に急遽、ホーム&アウェー方式に変更された。

日本は、予選の終盤までもたつくも、強豪UAEを逆転してグループ2位に滑り込んだのであるから、これが吉と出た形である。

日本はB組に属した。当初、強敵が韓国しかいない楽な組と言われた。

しかし日本は、最終予選全期間を通じ、UAEと熾烈な2位争いをすることになる。

初戦を大勝し、続く困難なアウェー戦を引き分けた日本は、このグループ最大のライバルとされた韓国をホームに迎えた。日本は、山口素弘のループシュートで先制。ループシュートが飛んでいる際、国立霞ヶ丘陸上競技場もTV前もあまりの美しさに静まった。そして韓国撃破、予選通過の夢が膨らむも、その後試合終了間際2失点。逆転負けを喫し、この時点で早くも1位通過が絶望的になった。

続くアウェーのカザフスタン戦は、先制するもロスタイムに同点ゴールを決められ、引き分け。ここで加茂周監督は更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が監督に就任した。(この試合は「アルマトイの絶望」、また後のカザフスタン戦も含め「中央アジア死のロード」と呼ばれている)

岡田監督初戦のアウェーのウズベキスタン戦では、先制されるも終了間際に、井原正巳のロングボールをロペスが頭でつなぎ、それが相手ゴールに入り追いついて引き分け。なかなか2位UAEに追いつけない中、次につながる結果ともいえた。

しかし、続くUAEをホームに迎えた2位攻防の直接対決。日本は何としても勝って2位に浮上したかったが、痛恨の引き分け(終始UAE寄りのジャッジと、異様に短いロスタイムが問題になった。なお、この試合の結果、韓国の1位通過でW杯本戦出場が決まった)。またこの試合後国立周辺でサポーターが暴れる事態になった。日本の自力2位が消滅し、かつアウェーの韓国戦を残す状況で、本戦出場に絶望感が漂った。

しかし日本は、そのアウェー韓国戦を、名波浩と呂比須ワグナーのゴールで快勝(2 - 0)。翌日、UAEがホームで最下位ウズベキスタンにまさかの引き分けを喫し(0 - 0)、日本は2位に浮上した。

日本は、最終戦のカザフスタン戦も5-1のスコアで快勝しB組2位が確定、第3代表決定戦への出場権を手に入れた。

最終予選B組の最終順位は以下のとおり。(韓国がアジア最終予選A・B組通して、最高成績アジア1位でW杯出場。)



(勝ち点は勝利3、引き分け1、敗戦0。勝ち点が同じ場合、まず得失点差、次いで総得点の優劣で順位を決した。
なお2006年ドイツ大会の予選では、勝ち点が同じ場合、まず直接対決の結果、次いでリーグ戦全体の得失点差、総得点の優劣で順位を決する。)


■「ジョホールバルの歓喜」の背景 - イラン(A組)

一方、A組には前大会ベスト16のサウジアラビアとアジアの強豪イランが所属していた。イランが長くA組で首位を走っていたが、第9節にて最下位のカタールに 0 - 2 の痛恨の敗戦。最終節の第10節に試合のないイランは勝ち点12にて全日程を終了し、第10節のサウジアラビア(勝点11) - カタール(勝点10)戦の結果待ちとなった。

そして、この試合は 1 - 0 でサウジアラビアが勝利。サウジアラビアが首位となり、イランは2位に転落した。

A組2位が決まるまでの間、日本では、第3代表決定戦の相手としてはサウジアラビアの方が与し易いとの論が主流であったが、最強の敵イランを迎えることとなってしまったのである。


■「ジョホールバルの歓喜」の背景 - 開催地の決定

日程的に第三代表決定戦をホーム・アンド・アウェー方式で2試合開催することは難しく、中立地で一発勝負の実施が前提とされた。B組の展開から、UAEがB組2位になることが想定され、第3代表決定戦はバーレーンで開催されることとなっていた。しかし移動距離や気候などで著しい不利を被ることになる日本協会はこれに猛反発。AFCに、西アジア勢同士ならバーレーン、東アジア勢同士(中国vs日本という対戦があり得た)なら韓国、西アジア勢対東アジア勢の対戦ならマレーシア(イスラム教国であり、かつAFC本部がある)で開催するという案に落ち着いた。

結果的には、マレーシアには日本が先に第三代表決定戦に出場決定した事もあり、日本のサポーターが押し掛けて日本のホーム同然となり、かつイランは時差の点で不利を受けたのであり(日本とマレーシアの時差1時間、イランとマレーシアの時差4時間半)、会場決定も日本に有利に働いた。


■「ジョホールバルの歓喜」の試合展開

W杯出場をかけた試合は、両チームの気迫のぶつけあいだった。前半39分日本は中山雅史のゴールで先制に成功、前半を1-0とリードして折り返す。

後半に入るとイランの激しい反撃が日本を待っていた。後半開始早々(開始25秒)にアジジが同点ゴールを奪うと、後半14分にはイランのエース アリ・ダエイに逆転ゴールを浴びて1-2となり、日本のW杯初出場に黄信号がともる。

後半18分、後のない日本の岡田監督は大きな賭けに出る。エース三浦知良と最終予選終盤の日本の勢いの象徴であった中山のツートップを同時に交代(その際三浦は補助審判が中山の交代しか示唆しなかったため、「オレも?」と大きなジェスチャーでベンチに確認)、2人に代え城彰二・呂比須ワグナーを投入する。この交代は功を奏し後半31分に城が起死回生のヘディングを叩き込み2-2の同点に追いつく。日本はこの勢いで90分以内に試合を決めたかったが同点のまま後半を終了、ゴールデンゴール方式の延長戦に突入。

延長戦開始と同時に日本は、北沢豪に代えて日本最速といわれるアタッカー岡野雅行を切り札として投入。岡野は最終予選においてそれまで1度たりとも出場機会を与えられていなかったが、その快速は中田英寿からのパスに何度も決定的なチャンスをつかむ。しかしGKとの1対1において力ないパスを味方に送ったことでチャンスをつぶし、中田も思わず“何故?”と目を瞑り空を仰いだシーンは印象深く、この時、テレビカメラも岡田監督が必死の形相で「岡野ー!自分で行けー!!」と叫ぶシーンを捉えている(音声は届いていない)。また次のチャンスもシュートはゴールのはるか上に打ち上げてしまう。

イランも切れ味鋭い反撃を見せるが、選手の消耗は尋常ではなく両チームとも決定的なチャンスをものにできず延長は進み、延長後半も残りわずか。もはや決着はPK戦でかと誰もが思い始めたそのとき、ツートップではなく自分が試合を決めることを決意したかのように中田が突然のドリブルでイランのディフェンスを切り裂きシュートを放った(中田はこの試合で2得点ともアシストしていた)。イランのGKアベドサデがはじいたそのボールは猛然と走りこむ岡野のもとへ。岡野はそのボールを右足で押し込み、日本は劇的なゴールデンゴールでついに悲願のW杯初出場を決めた。その瞬間、BSとフジテレビの解説者(清水秀彦)は「やったー!」という歓声をあげ、ラジオは「岡野!岡野!」と絶叫、岡田監督は諸手を挙げて岡野へ全力で駆けていった。翌日の新聞・ニュースには「日本中が歓喜した」との言葉が躍り、日本のサッカーファンにとって永遠に忘れられない試合となった。岡野はこのシュートについて「これを外したらもう日本に帰れないと思った」と後に語っている。


試合終了時のスコアボードこの試合は地上波ではフジテレビが生中継し、放送が日曜日の深夜にもかかわらず平均視聴率47.9%だった(NHK-BS1でも同時中継していたため、実際は数字以上の視聴率と言える)。

その後、敗れたイランもオーストラリアとのホーム&アウェーのプレーオフで出場を決める。(メルボルンの悲劇)


■「ジョホールバルの歓喜」の試合データ

日本 3 - 2 イラン

▽得点
前半39分 中山雅史(日本)
後半01分 アジジ(イラン)
後半14分 ダエイ(イラン)
後半31分 城彰二(日本)
延長後半13分 岡野雅行(日本) ※ゴールデンゴール

▽警告
日本 - 井原正巳
イラン - オスタド・アサディ、ハクプール、マハダビキア、アベドザデ、ミナバンド、アジジ

▽日本代表
GK #20 川口能活
DF #02 名良橋晃
DF #03 相馬直樹
DF #04 井原正巳
DF #17 秋田豊
MF #06 山口素弘
MF #08 中田英寿
MF #10 名波浩
MF #13 北沢豪 → 延長前半0分 FW #14 岡野雅行
FW #11 三浦知良 → 後半18分 FW #18 城彰二
FW #32 中山雅史 → 後半18分 FW #30 呂比須ワグナー
監督 岡田武史

▽イラン代表
GK #01 アベドザデ
DF #04 ハクプール
DF #05 ベイラバニ
DF #15 オスタド・アサディ → 後半10分 #25 ミナバンド
MF #02 マハダビキア
MF #24 ザリンチェ → 後半20分 #20 パシャザデ
MF #09 エスティリ
MF #07 マンスリアン
MF #08 ナムジュ・モトラグ → 後半35分 #17 モディルースタ
FW #10 ダエイ
FW #11 アジジ
監督 バドゥ・ビエイラ

▽スタジアム
ラルキン・スタジアム (マレーシア・ジョホールバル)


■両監督の再会

2007年2月3日長野市サッカーフェスティバルの講演会で、97年当時日本代表を率いていた岡田氏とイラン代表を率いていたバドゥ・ビエイラ氏が、ジョホールバルでの試合以来約9年ぶりに再会し対談を行った。バドゥ氏は現在長野市の社会人サッカークラブAC長野パルセイロで監督を務めており、その縁もあって長野での対談が実現した。対談の内容はやはりジョホールバルに関する話題が殆どで、采配についての裏話なども語られた。




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秋天の陽炎(しゅうてんのかげろう)はJリーグ・大分トリニータが1999年11月21日にホームスタジアムの大分市営陸上競技場で行われたモンテディオ山形戦でJ1昇格を逃したことを指す。

この試合のことを「大分の悲劇」(おおいたのひげき)、あるいは大分市営陸上競技場の近くにかかる橋の名前から「舞鶴橋の悲劇」(まいづるばしのひげき)と呼ぶこともあるが、金子達仁によりスポーツ誌「Sports Graphic Number」に掲載されたルポルタージュに由来する呼び方が一般的といえるため、ここでもこれを用いる。


■「秋天の陽炎」の最終節までの経過

1999年、Jリーグはこの年からから二部制を導入した。この年に参加した10チームは4回戦総当たりの各チーム36試合ずつを行い、翌年のJ1自動昇格となる上位2チームを目指していた。そのなかから川崎フロンターレとFC東京が1歩抜け出し、そして11月5日に行われた第34節・サガン鳥栖戦(等々力陸上競技場)で川崎が延長勝ちによりJ1昇格を決めた。

これを2位で追いかけていたFC東京も昇格を確実視されていたが、第29節から4連敗をするなどで急失速し、第35節終了時点で20勝3分12敗、勝ち点61、得失点差15の3位となった。ほぼ同じころ大分は急激に調子をあげ、東京に代わって2位に浮上(21勝2分12敗、勝ち点62、得失点差20)。最終戦となる第36節で大分は、延長Vゴール以上でJ1昇格が実現することとなった。


■「秋天の陽炎」1999年最終節

開催日:1999年11月21日
開催地:大分市営陸上競技場(大分市)
観衆:15702人
結果:大分トリニータ 1 - 1 モンテディオ山形
得点:60分 ウィル(大分) 89分 吉田達磨(山形)

大分市営陸上競技場で行われたこの試合。観衆15702人のほぼ全員が大分を応援するという状況で行われたが、前半は両チームとも相手のチャンスを摘むプレーにより膠着状態のまま進み、無得点で折り返した。

60分、大分はウィルのゴールが決まり先制。このとき神野卓哉のハンドではないかとの抗議もあったが得点は認められた。(後日、ビデオで確認するも、かろうじて当たってないことが証明されている。)

64分、大分のゴールキーパーのプレーがバックパスを手で扱ったとして反則とされ、山形がゴールエリア内での間接フリーキックを得たがこれを防ぎきると、大分リードのままロスタイムに突入し、大分はJ1昇格を確信した。

しかし、山形・吉田達磨のフリーキックが大分ゴールに直接入り、土壇場で1-1の同点に追いつかれた。その後、山形にもバックパスによる反則があり大分の間接フリーキックがあったが得点は動かず、1-1のまま90分間が終了となった。

同じころ、FC東京は新潟市陸上競技場で、今季3戦3敗と大の苦手にしていたアルビレックス新潟に1-0と勝利。勝ち点64とし、大分の結果を待つことになった。

これによりJ1昇格にはVゴール勝ちしかない状況となった大分だが、92分に山形・平間智和が退場処分となり数的優位に立つと、大分は一方的に攻め続けたものの山形の懸命のディフェンスに阻まれ無情のタイムアップ。

1-1の引き分けで大分の勝ち点は63となり、FC東京が2位、大分トリニータは3位となって、わずか勝ち点1の差で昇格を逃した。


■「秋天の陽炎」のメンバー

◆大分トリニータ

監督:石崎信弘
GK:小山健二
DF:村田一弘 平岡靖成 吉村寿洋
MF:若松大樹(26分 MF 金本圭太) 山根巌 崔大植 エドウィン
FW:ウィル 塩川岳人(103分 MF 川崎元気) 神野卓哉
ベンチ入り:吉坂圭介(GK) 山崎哲也(DF)  竹村栄哉(FW)


◆モンテディオ山形

監督:植木繁晴
GK:鈴木克美
DF:太田雅之(51分 FW ムタイル) 岩元洋成 本街直樹 佐藤淳志
MF:吉田達磨 内山俊彦(73分 小久保純) 高橋健二 バウテル(99分 中森大介) 平間智和(92分 退場)
FW:真下佐登史
ベンチ入り:斉藤武志(GK) 鷲田雅一(DF)


■「秋天の陽炎」のその後のトリニータ

翌2000年シーズンも大分トリニータは勝ち点1差で3位となり昇格を逃す。(2000年J2最終節参照)
2001年にはスタートダッシュにつまづいたため、石崎信弘監督をシーズン途中で解雇して立て直したが、最終節を90分勝ちでしかも上位2チームが敗退の場合のみ昇格という状況で引き分け、3年連続で昇格に失敗した。(2001年J2最終節参照)

しかし2002年にはセレッソ大阪、アルビレックス新潟、川崎フロンターレとの昇格争いからいち早く抜け出すと、11月2日に行われた大宮アルディージャ戦(さいたま市大宮公園サッカー場)で勝利して念願のJ1昇格を決定。このときスタンドには「秋天の陽炎 ここに完結」と書いたボードを持ったサポーターの姿が見られた。





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ジダンの頭突き問題は、2006年7月9日にベルリン・オリンピアシュタディオンで行われた2006 FIFAワールドカップの決勝戦(イタリア代表対フランス代表)における出来事をめぐる問題である。フランス代表のジネディーヌ・ジダンがイタリア代表のマルコ・マテラッツィに対して頭突きをしたことにより退場になった。

■「ジダンの頭突き問題」の経緯

当初、その背景にはアルジェリア移民2世であるジダン自身への人種差別によるものや、のちにマテラッツィがジダンの家族を侮辱したことが原因であるとも言われたが、同年9月5日のイタリアの新聞、ガゼッタ・デロ・スポルトのインタビューでマテラッツィが「ユニホームよりもお前の姉妹(sister)の方が欲しい」とジダン側に言ったと明かした。マテラッツィ側は同時に「良くない言葉ではあると思うが、選手のほとんどはこう言った言葉を発しているものである。しかしジダンに姉か妹がいるとは知らなかった(この場合は姉の方)」とも答えていることから、単純にスラングを言っただけではないかとの指摘もある。更にマテラッツィは「先にジダン側が侮辱発言をした」とも語っており、そもそも事の始まりは、マテラッツィの激しいマーク(ユニフォームを掴む行為)に対して、ジダンが「そんなにユニフォームが欲しいのなら、試合が終った後にくれてやるよ」と先に発言したためと弁明。(ジダン本人もこの発言は認めている)またジダンは過去に今回と同じように試合中突如激昂して暴力を振るうことがあった。そのため、結局ジダンがマテラッツィとの挑発合戦に負け、激昂してこの暴挙に及んだだけというのが真相と言われている。

またこの判定が主審や副審ではなく第4の審判からの指摘により下されたが、その際に一部メディアからビデオ判定によるものとの報道をされたたため、その真意も含めて判定自体に問題があるのではないかと言われている。その後、主審は「自分では直接見ておらず、副審の手助けがなければ判定を下せなかった」ことを認めた。


■「ジダンの頭突き問題」の解説

▽フランス代表の決勝までのいきさつ

この大会を最後にサッカー選手としての現役引退を表明していたジダンは、グループリーグのトーゴ戦で出場停止になるなど不調に陥っていた。しかし決勝トーナメントでは強豪のスペインからロスタイムで得点をあげると、続く準々決勝では優勝の大本命といわれたブラジルに対して、ティエリ・アンリのゴールをアシストして快挙に一役を担うなど、試合を重ねるにつれ往年の輝きを取り戻していった。

この活躍に他の選手たちも、2004年に一度は代表引退を宣言したものの、低迷するチームを救うべく他の選手とともに復帰したジダンを1試合でも多く戦えるようにしようと団結していった。そして準決勝でポルトガル代表戦では33分にゴールをあげ、自身にとっても、またチームにとっても2大会ぶり2度目となる優勝まであと一歩まで迫ることとなった。


▽決勝戦

イタリアとの対戦となったこの試合は、同時にジダンにとって現役最後の試合となった。この晴れ舞台を飾るように試合は動いた。

7分にペナルティキックのチャンスを得たフランスは、ジダンにキッカーを任せ、見事に成功した(この試合でのPKのきっかけとなったファウルはマテラッツィによるものであった)。この大会ではそれまで、失点はオウンゴールのみであった相手から早い時間帯にゴールを奪ったことで、試合はフランス有利にいくかと思われたが、19分にマテラッツィのゴールでイタリアが同点にすると、その後は固い守備を誇るチームのゴールマウスを捕らえることなく、試合は延長戦にまでもつれることとなった。延長後半5分にジダンがマテラッツィに頭突きをして退場、数的有利となったイタリアがPK戦で5-3で勝利し、6大会ぶり4度目の優勝となった。


■人種差別に対する取り組み

この大会では開催前、あるアフリカ系の選手に対する人種に基づく差別が問題視されていた。そこで国際サッカー連盟(FIFA)は準々決勝を行うにあたり、試合開始前のセレモニーで各チームのキャプテンがそれぞれ人種差別に反対することを宣言する文章をグラウンドで読み上げることを行っていた。


■「ジダンの頭突き問題」のその後の顛末

この試合で退場処分となったジダンであったが、記者による投票でMVPにあたるゴールデンボール賞を受賞することになった。投票が決勝戦前から受け付けられていたのもひとつの要因であった。しかしながら、決勝での言葉による挑発に対して頭突きで反撃するという行動は許されないものであったので、FIFAのブラッター会長から授賞を再考する可能性を示唆する発言があった。FIFAによる事情聴取の後、ジダンには出場停止3試合と罰金7500スイスフラン(約71万2500円、2006年7月当時のレート)マテラッツィに同2試合と5000スイスフラン(約47万5000円)が科された。しかし人種差別発言は両者とも否定したため、問題から外された。その後、マテラッツィが真相を語り、「姉の存在等のことは何も知らなかった」「この問題に巻き込んでしまったジダンのお姉さんに謝りたい」と答えている。また、この頭突きのペナルティとしてのMVP剥奪の可能性に対して、マテラッツィは「彼は偉大なサッカー選手であり、尊敬している。今回のMVPもそれに値するプレイをしていると思うので、MVP剥奪は好ましくない」とインタビューにて語っている。

しかしその反面、マテラッツィは「ジダンとの握手は時期尚早である」と語っている。また「ジダン側の謝罪も待っている」とも語っている。


■「ジダンの頭突き問題」についての議論

当初、一部メディアが頭突きの原因はマテラッツィの差別発言によるものと報道したため、サッカー界にはびこる人種差別主義に対しての議論が盛んに行われたが、ジダン本人、マテラッツィ本人、及びジダンに発言の内容を聞いたフランス代表のリリアン・テュラムなどが差別発言については否定したため、議論は侮辱発言そのものの是非についてに移行した。 2004年に開催されたEURO2004において、イタリア代表フランチェスコ・トッティがデンマーク代表クリスティアン・ポウルセンに試合中過剰な挑発行為を受け、ポウルセンの顔に唾を吐いたとして3試合の出場停止処分を受けたが、この際挑発した側であるポウルセンには何らペナルティは課されなかった。また、サッカーのみならず、スポーツ界において、言葉での挑発は日常茶飯事とも言えるため、挑発した側まで処分を課されたFIFAの裁定は大いに議論を呼んだ。この裁定により、今後試合中の挑発行為は駆逐されていくのか、それとも今回だけの判断に留まるのか、その後の動向が注目されている。


■「ジダンの頭突き問題」の備考

インターネット上では、ジダンの頭突きが題材となったゲームが多数作られ、話題となる。

中国人がジダンの頭突きシーンを用いたイラストを商標登録し、話題となる。またこの中国人は、ジダンの頭突きをモチーフに作成した木製の像も限定販売して、話題となる(ヤフーニュースでも発表されていた)。

フランスではジダンの頭突きをネタにした楽曲『Coup de Boule』(歌:La Plage、邦題:『頭突きdeジダンだ!?~ヘッド・バッド・ダンス』)が販売され、フランス国内のダウンロードチャートで1位を獲得するなど話題となる(フランス人が作成したらしく、歌詞の内容はジダンの頭突きを擁護するものであった)。


■「ジダンの頭突き問題」の和解

マテラッツィはイタリア紙にジダンの姉を侮辱する発言が発端になった真相を明かし、自身の自宅にジダンを招待し、その席で和解を求める構えでいると伝えた。またFIFAのブラッター会長も2人の和解を希望、南アフリカのロベン島(同国のアパルトヘイト政策で政治犯が収容された地)で2人を再会させるという構想を持っているといわれる。


■「ジダンの頭突き問題」その他

マテラッツィはこの頭突き問題のジョーク本を執筆することが明らかになった。しかし、ジダンはこれに対して不快感を示し、「本を受け取る気はない」と回答している。

イタリア代表MFガットゥーゾが大会後、「(あの頭突きがなければ)W杯決勝の試合後に、ジダンのためにピッチ上で引退セレモニーを計画していた。」と明かした。



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カンプ・ノウの奇跡は1999年5月26日にスペインのバルセロナで行われたUEFAチャンピオンズリーグ1998-1999シーズンの決勝戦の通称。マンチェスター・ユナイテッドがバイエルン・ミュンヘンを試合終了間際の2ゴールで劇的な逆転勝利で優勝を決め三冠を達成した試合のこと。


■「カンプ・ノウの奇跡」の概要

決勝戦はカンプ・ノウを舞台にイングランドのマンチェスター・ユナイテッドとドイツのバイエルン・ミュンヘンで行われた。マンチェスター・UはFAプレミアリーグと、この試合の4日前にFAカップを獲得し、欧州史上4チーム目となる三冠(トレブル)を目指していたが、中盤の要である主将のロイ・キーンとポール・スコールズを出場停止で欠いており、厳しい戦いになるとみられていた。一方、グループリーグ同組でユナイテッドとホーム、アウェイの2試合とも引き分けていたバイエルンは試合巧者で国内リーグでも独走しておりビセンテ・リザラズを欠いていたが欧州王者を射程内に捉えていた。


■「カンプ・ノウの奇跡」の試合内容と経過

試合の序盤は緩やかな立ち上がり。中盤の要の二人を欠き、本来は右サイドのデビッド・ベッカムを中盤の底に、左サイドのライアン・ギグスを右サイドに配置するという苦肉の布陣のユナイテッドはボールを支配できず、次第にバイエルンペースになっていく。前半6分にFKからマリオ・バスラーが直接ゴールを決め、あっさりとバイエルンが先制する。巻き返そうとするユナイテッドだが本来のポジションではないギグスとベッカムの影響やバイエルンの効果的な守備によってドワイト・ヨークとアンディ・コールに良いボールを供給出来ない。前半はそのまま膠着状態のまま終了。

後半に入ってもバイエルンが終始優勢でユナイテッドは明らかにキーンとスコールズの二人を欠いた影響が出ていた。バランスの悪いユナイテッドとは対照的にバイエルンは堅実な守備から攻撃へと移り再三ゴールを脅かす。メーメット・ショルのチップキックはゴールポストに、カルステン・ヤンカーのオーバヘッドはバーに阻まれた。しかしユナイテッドも次第に糸口を見出しつつあった。猛攻にさらされながらベッカムとギグスを本来の位置に置き、テディ・シェリンガムとオーレ・グンナー・スールシャールを立て続けに投入。

バイエルン優勝の瞬間が刻一刻と近づくにつれ、ユナイテッドは攻勢に転じていった。何度かチャンスを作るもののバイエルンの堅い壁は崩せず、バスラー、ローター・マテウスを下げいよいよバイエルン優勝へのカウントダウンが始まろうとしていた。そして91分、ベッカムがドリブルで仕掛けCKを得る。ユナイテッドはGKのピーター・シュマイケルまでもが攻め上がってきていた。一度はクリアされたボールをギグスがシュート、それをシェリンガムが押し込み土壇場での同点。

ベンチにいるマテウスも含めバイエルンの選手、サポーターが呆然とする中、さらに攻めたユナイテッドはまたしてもCKを得る。ベッカムのCKはシェリンガムがヘディングで叩き、それをスールシャールが右足で合わせゴール。ロスタイムでのまさかの逆転劇。異様な雰囲気のスタジアムの中、喜び抱き合うユナイテッドの選手。呆然とするマテウス、立ち尽くすバイエルン選手と地面を叩き悔しがり涙を流すサミュエル・クフォー。夢の三冠を達成したユナイテッド。土壇場で栄光を逃したバイエルン。奇跡と悲劇、まさに明暗がはっきり分かれた試合だった


■「カンプ・ノウの奇跡」での得点

▽マンチェスター・ユナイテッド
91分 シェリンガム、93分 スールシャール

▽バイエルン・ミュンヘン
6分 バスラー


■「カンプ・ノウの奇跡」の逸話

この試合が行われた日はミュンヘンの悲劇の生存者でユナイテッドの元監督の故マット・バスビーの90回目の誕生日だった。このシーズンのユナイテッドは数々の名勝負、逆転劇を演じており、この日の逆転劇も故バスビー卿の命日と重なったことで何か神秘的なものを感じる日となった。またファーガソン監督は、これまでの功績と三冠を達成したことで、同年7月にエリザベス女王からサーの称号を授与された。

敗れたバイエルンの主将マテウスは準優勝のメダルをかけてもらった後、すぐに外しており、フットボーラーとしての誇りを感じさせるものであった。



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イスタンブールの奇跡は、2005年5月25日に行われた2004-2005シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦の通称。リヴァプールFCがACミランを相手に前半0-3の状態からPK戦の末、逆転勝利を収めた試合のこと。リヴァプールの愛称からレッズの奇跡とも言う。


■「イスタンブールの奇跡」の概要

決勝戦は、共に赤がチームカラーのイングランドのリヴァプールとイタリアのミラン、そして開催国トルコの国のカラーも赤と、まさに赤一色に包まれたイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤット・スタジアムで行われた。

リヴァプールはこのシーズンのリーグ戦は低迷しており、長年チャンピオンズリーグでも結果を出せていなかった。対するミランは、スクデットこそ逃していたが、この日のために主力を温存し、2002-2003シーズンのチャンピオンズリーグを制した勢いを保っており、前評判はミラン有利と見られていた。


■「イスタンブールの奇跡」の試合内容

試合は盛大なセレモニーの余韻が残る中開始。キックオフ直後にカカの突破からFKを得たミランは、アンドレア・ピルロのFKにキャプテン、パオロ・マルディーニがボレーで合わせて先制。通算7度目のチャンピオンズリーグ決勝出場となるミランの象徴とも言えるプレーヤーの得点が開始1分も経たずに決まったことは、ミランの好調ぶりを印象付けると同時にゲームがミラン主導で進んでいく様を予感させるものでもあった。その予感はリヴァプールの先発FW、ハリー・キューウェルが23分に負傷交代(代わっての出場はウラジミール・スミチェル)に追い込まれた事からも現実味を帯びて来ていた。

早々と先取点を手にしたミランは左サイドバックのマルディーニ、ベテラン右サイドバックのカフー、アレッサンドロ・ネスタにヤープ・スタムのセンターバックふたりで形成される強固なディフェンスラインを武器にリヴァプールの反撃の芽を摘み取り続ける。異なる3チームでチャンピオンズリーグを制したクラレンス・セードルフ、ピッチ上を精力的に走り回るハードワーカー、ジェンナーロ・ガットゥーゾなどの守備的な中盤の選手も攻撃の起点となるなど、ほとんどあらゆる点で試合を支配し始めていた。

前半39分には、またもカカの突破からアンドレイ・シェフチェンコにパスが繋がる。彼からのマイナス方向へのクロスをエルナン・クレスポが絶妙に合わせて決め、リードを2点に広げた。そして前半43分、カカのスルーパスに反応したクレスポがキーパーとの1対1を逃さず決めて3点リード。このまま前半を終え、誰もがこの試合はミランが制すものと考えた。

後半、ミラン相手に3点ビハインドと追い込まれたリヴァプールの逆襲が始まる。リヴァプールのラファエル・ベニテス監督は前半の時点で負傷していたスティーブ・フィナンに代えてディートマー・ハマンを投入し、リーグ戦ですら一度も採用した事がない3バックへとシステムを変更。ボランチに配されていたスティーブン・ジェラードを一列前に上げる策に打って出た。すると54分、うまく攻め上がったヨン・アルネ・リーセのクロスをジェラードがヘッドで合わせて1点を返す。ここから流れが変わったのか、56分にはジェラードを起点にハマンから途中出場のスミチェルに繋ぐと、スミチェルがそのままペナルティーエリア外より豪快なミドルシュートを決め、1点差に詰め寄った。前半は静かだったリヴァプールサポーターは勢いを取り戻し、スタジアム中に『You'll never walk alone』の合唱が響き渡る。さらに攻勢を強めるリヴァプールは、前半試合を支配していたミランの攻撃を分断し逆にパスを効果的に繋ぎ始める。そして60分、ミラン・バロシュがヒールで流したボールがジェラードに渡る。キーパーと1対1になりかけたジェラードがガットゥーゾに後ろから倒され、微妙な判定ではあるがPKを獲得。シャビ・アロンソのPKは一度はヂーダの好セーブに阻まれるが、こぼれたボールをアロンソが詰めて叩き込み同点。後半わずか6分間で3点を決め、試合を振り出しに戻した。一度は終わったと思われた試合を跳ね返すリヴァプールイレブンの強靱な精神力と、大音声でチームを後押しするサポーターたちがスタジアムを熱気と興奮の渦に包んでいく。

同点となった後はお互いに決定機を窺い合う消耗戦の様相を呈したが、結局90分では決着が付かず延長戦に突入。延長戦に入ってからは足の止まり始めたリヴァプールに対しミランが猛攻を仕掛けるものの、GKイェルジ・デュデクがシェフチェンコの放った至近距離からのシュートを2連続で止めるなど大活躍。スコアは動かず30分間の延長戦が終わり、2002-2003シーズンのチャンピオンズリーグ決勝戦以来となるPK戦での決着にもつれ込んだ。

そしてPK戦、先攻のミランはセルジーニョが枠外に外す。続くアンドレア・ピルロもGKイェルジ・デュデクに止められ追い込まれたミランだが、ヂーダもリヴァプールの3人目、リーセを阻止。5人目までの勝負に持ち込むが、デュデクがミランの5人目・シェフチェンコの阻止に成功した。このPK戦の際、デュデクはクネクネとした怪しい動きを見せ、感動と共に笑いを呼んだ。ちなみにこれはPK戦直前、チームメイトのDFジェイミー・キャラガーから「ブルース・グロベラーがローマでやった動きを思い出せ」とアドバイスした事がきっかけである。なお、グロベラーは83-84シーズン決勝で、PKの際、クネクネした動きでシュートを2本防いでいる。(正確に言えば「外させた」)

PK戦に勝利し、リヴァプールに歓喜とビッグイヤーがもたらされた。スタジアムには、この奇跡的な勝利に酔いしれるリヴァプールサポーターによる大合唱がいつまでも響きわたっていた。


■「イスタンブールの奇跡」のその後

この試合の結果、チャンピオンズカップを含め21年ぶりの栄光に輝いたリヴァプールは、シーズンを無冠で終えたミランに対し、通算5度目のビッグイヤーを手にし、ビッグイヤーを永久保持する権利を獲得。第1回FIFAクラブ世界選手権の出場権も手にした。

また、リヴァプールはこのシーズンをリーグ5位で終え、次回のチャンピオンズリーグ出場権を逃したが、タイトル防衛の機会を与えるべきだとして、特別に前年度優勝チームとして2005-2006シーズンのチャンピオンズリーグ出場権が与えられた。そして2006-2007シーズンからは前年度優勝枠が設けられ、前年度優勝チームは予選免除されることになった。

この試合で活躍したリヴァプールのキャプテン、ジェラードは再評価され、移籍論争に終止符を打った。

イギリスのブレア首相は「英国民のすべてが君たちを誇りに思っている」とする声明を発表した。





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ミヒャエル・バラック(Michael Ballack、1976年9月26日 - )は、ドイツ・ゲルリッツ(旧東ドイツ)出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(オフェンシブハーフ・センターハーフ)。


■ミヒャエル・バラック

ドイツに古くから存在する少数民族のソルブ人で、ポーランド人やチェコ人などと同じ「西スラヴ民族」であり、ドイツで優勢なゲルマン民族ではない。旧東ドイツ出身者としては、初めて統一後の代表チームでキャプテンを務める。


■ミヒャエル・バラックの経歴

1997年、ブンデスリーガ・カイザースラウテルンに入団。レギュラーとして定着し、能力の高さを発揮する。 1999年にはバイヤー・レバークーゼンへ移籍するとドイツ代表にも招集され、同年4月28日のスコットランド戦で代表デビューを果たす。2001年/2002年シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ・国内リーグ・国内カップ戦でそれぞれ準優勝に貢献した。

2002年にはブンデスリーガの強豪クラブであるバイエルン・ミュンヘンに加入し、中盤の核として活躍。 日韓W杯準決勝では、味方のミスをカバーする為、イエローカードをもらうと累積で決勝に出場できなくなる事を知りながら、戦術的ファウルを犯しイエローカード2枚目をもらってしまう。直後にチームを決勝へと導くゴールを挙げるが、バラックを欠いたチームは決勝で敗退。 その活躍ぶりから同クラブのかつての名選手・フランツ・ベッケンバウアーの後継者との評価も高く、ベッケンバウアーのニックネーム「皇帝」に準え、バラックは「小皇帝(kleiner Kaiser)」と呼ばれていたが、現在は「新皇帝」と呼ばれている。2006年5月にバイエルン・ミュンヘンからFAプレミアリーグのチェルシーに移籍した。

しかし、チェルシーではチームにまだ馴染めず、能力を出し切れていない感がある。チームの戦術の事もあり、脅威の得点力を発揮できていない。

現在ドイツ代表チームでも主将を務めており、自国開催となる2006年・ドイツW杯では得点こそできなかったが、そのゲームメイク力とキャプテンシーで自国を3位に導く活躍を見せた。

余談だが、元ドイツ代表・ピエール・リトバルスキーのサッカー番組での発言によれば、バラックはあだ名として「バッカ」と呼ぶようである。ドイツ国内では「ミヒャ」と呼ばれる方が多い。


■ミヒャエル・バラックのプレイスタイル

大柄な体を生かした高いキープ力と強靭なフィジカルを持ち、ピッチ上のあらゆる場所から試合を組み立てる能力を持つ。また長短のキックの精度も非常に精密であり、アシスト能力も高い。攻撃能力についても強烈なミドルシュート、高い打点のヘディングで相手を粉砕する。ミッドフィールダーながらフォワード並の得点力を備えている数少ない選手でもある。しかし、スピードについては自ら不足を認めている。左右キックが正確なのは、ユース時代に徹底的に練習したため。ヘディングの上手さは歴代 ミッドフィルダーの中でも屈指である。


■ミヒャエル・バラックのクラブ歴

FCカール・マルクス・シュタット/ケムニッツFCユース(東ドイツ/ドイツ)1983-1995
ケムニッツFC(ドイツ)1995-1997
カイザースラウテルン(ドイツ) 1997-1999
バイヤー・レバークーゼン(ドイツ) 1999-2002
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ) 2002-2006
チェルシーFC(イングランド) 2006-



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フランツ・アントン・ベッケンバウアー(Franz Anton Beckenbauer, 1945年9月11日 - )は、ドイツ(旧西ドイツ)・ミュンヘン出身の元サッカー選手。現在はバイエルン・ミュンヘン会長、およびドイツサッカー協会副会長を務める。選手時代のポジションは主にディフェンダー(リベロ)、守備的ミッドフィールダー。2006 FIFAワールドカップドイツ大会では組織委員長を務めた。ドイツ出身だが、オーストリア・チロル州に移住、1990年代前半にはオーストリア国籍を取得した。

攻撃に参加するスイーパーとしてフットボールに革新をもたらした。ピッチ上で味方の選手達を操るその威風堂々とした風格と、『神よ、皇帝フランツを守り給え』に詠われたオーストリア帝国皇帝・フランツ1世と同じファーストネームであることから、der Kaiser(皇帝)と呼ばれた。

同世代の最大のライバルにオランダのヨハン・クライフがいる。

また、キャプテンと監督の両方で母国をFIFAワールドカップの優勝に導いた唯一の人物である(選手と監督としてはブラジルのマリオ・ザガロが1人目)。


■フランツ・ベッケンバウアーのプレイスタイル

ベッケンバウアーというフットボーラーをリベロ・システム抜きに語ることは出来ない。いわば「攻撃に参加するスイーパー」であるこのポジションは「ディフェンダーは守備の専門」という従来の概念を根底から覆す革新的なものだった。もちろんこのポジションをベッケンバウアーが確立できた背景にはその理論だけでなく、フィジカル重視で守っていた当時のディフェンダーとは明らかに一線を画す、彼の非常に高いテクニックとユーティリティー性があったことは言うまでも無い(彼の名誉を守るためにあえて言っておくと、ベッケンバウアーは史上最もテクニックの高い選手の一人である)。

またその絶大なる守備力の裏には、試合の流れを素早く読む天才的な洞察力があった。常にピッチ全体を見回して危険を素早く察知し、自らの早い動き出しと味方への的確な指示で相手攻撃陣を知らず知らずのうちに網にかけていく。その有機的な組織ディフェンスの完成度は、もはや芸術の粋に達していたと評する者もいる。

1970年代にフットボール界で起こった革命、というとほとんどの人はクライフを中心としたアヤックスやオランダ代表の「トータルフットボール」を挙げるが、バイエルン・ミュンヘンと西ドイツ代表で創り上げられた「リベロ・システム」という理論もこれに匹敵する革命といえる。ただ全世界の目に触れたのが皮肉にも、フィールドの全員が目まぐるしくポジションチェンジを行うダイナミックなオランダ代表のトータルフットボールと同じ1974年のワールドカップであったため、華やかさで見劣りするリベロ・システムは大会の主役となることが出来なかった(オランダ代表が美しさのみならず西ドイツが敗れた東ドイツをはじめ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイといった並み居る南米の強豪国を撃破するという圧倒的な強さを誇ったためでもある)。

バイエルン・ミュンヘンでは長らくリベロの役割を任されていたが、代表では1966年と1970年の2つのW杯で中盤の底(今で言うボランチ)で攻守のバランスを取りながら果敢にゴール前に上がり、チャンスメイクと自らゴールに向かう動きをみせていた。 1971年から代表でもリベロに移り、1972年の欧州選手権と1974年のW杯という2大タイトルの制覇に大きく貢献した。特に1972年の欧州選手権ではギュンター・ネッツァーとの交互ゲームメーク(ダブル司令塔)という時代の最先端の戦術を披露、圧倒的な強さを誇った同大会の西ドイツ代表をドイツ史上最強に推す声も多い。

日本人ストライカーとして名高い釜本邦茂は、かつて対戦したベッケンバウアーの印象について、「どこにもいないと思ったら突然目の前に現れて、次の瞬間にはボールを奪われていた。その動きはまるで「魔人」のようだった」と話している。


■フランツ・ベッケンバウアーの備考

ベッケンバウアーと同じくバイエルン・ミュンヘンに在籍(2002-2006)したミヒャエル・バラックは、ベッケンバウアー後継者との評価も高く、彼のニックネームに準え、「kleiner Kaiser」(小皇帝)と呼ばれることがある。

プライベートでは、2006年6月23日にバイエルン・ミュンヘンで秘書をしていた21歳年下のハイディ・ブルメスターと結婚。ドイツW杯期間中に結婚式を挙げたということで話題になった。ベッケンバウアーにとっては、これが3度目の結婚となる。ハイディとの間には既に2児をもうけていたが、同年に3人目を授かったために、W杯期間中であるにもかかわらず大急ぎで結婚式を挙げた。結婚式当時ハイディは40歳、ベッケンバウアーは61歳であった。ちなみにハイディとの間に生まれた2児、先妻との間に生まれた2児を含めると、5人目の子である。


■フランツ・ベッケンバウアーの所属クラブ

1954年-1958年 SCミュンヘン06
1958年-1977年 FCバイエルン・ミュンヘン
1977年-1980年 ニューヨーク・コスモス(USA)
1981年-1982年 ハンブルガーSV
1983年 ニューヨーク・コスモス


■フランツ・ベッケンバウアーの経歴

1965年9月26日 代表デビュー(対スウェーデン戦)

◆獲得タイトル
▽代表
1972年 - 欧州選手権優勝
1974年 - FIFAワールドカップ西ドイツ大会優勝
1990年 - FIFAワールドカップイタリア大会優勝(監督として)
出場数103試合、14得点

▽クラブ
ブンデスリーガ優勝5回
ドイツカップ優勝4回
UEFAカップウィナーズカップ優勝(1966-67)
欧州チャンピオンズカップ3連覇(1973-74, 1974-75, 1975-76)
インターコンチネンタルカップ優勝(1976)

▽個人タイトル
欧州年間最優秀選手(バロンドール)受賞 2回(1972年、1976年)




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ゼップ・マイヤー(Sepp Maier, 1944年2月28日 - )は、ドイツ・メッテン出身の元サッカー選手、指導者。選手時代のポジションはゴールキーパー。

ハラルド・シューマッハー、ボド・イルクナー、アンドレアス・ケプケ、オリバー・カーンに連綿と受け継がれているドイツ代表の名ゴールキーパーの歴史は、このマイヤーが源泉といって過言ではない。

明るい性格で人格者としても知られる。70年代の西ドイツ代表とバイエルン・ミュンヘンには絶対的な「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーがいたが、守護神マイヤーの人徳もあってはじめてチームメイトたちに精神的な秩序と安定をもたらしたと評されている。

1974年のワールドカップ西ドイツ大会では、全7試合に出場し地元西ドイツチームの優勝に貢献。またクラブレベルにおいては、チャンピオンズカップでバイエルン・ミュンヘン3連覇の原動力となり、ドイツサッカー界の一時代を築いた。

交通事故による負傷のため1979年に現役を引退したが、その後はバイエルン・ミュンヘンと(西)ドイツ代表のGKコーチを兼任で長く務めた。

代表デビュー 1966/5/6


■ゼップ・マイヤーの所属クラブ

TSVハール(ドイツ)1952-1958
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ)1958-1979



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ゲルト・ミュラー(本名:ゲルハルト・ミュラー Gerhard Müller, 1945年11月3日-)は、西ドイツ出身のサッカー選手。ポジションはFW。

ドイツ史上最高のストライカー。抜群の得点感覚とポジショニングで泥臭いゴールを得意とし、どんな体勢からでもゴールを奪った。驚異的な数の得点を量産し『デア・ボンバー(爆撃機)』と呼ばれた。


■ゲルト・ミュラーのプレイスタイル

観客からすれば面白いとはお世辞にも言えないプレーをした。ボール扱い、ドリブル、パスなどは高校生レベルだと話すドイツ人もいる程、下手であったと言われる。しかし、「ゴールへの嗅覚が鋭い」という表現が正にそのまま当てはまる選手で、何故かゴール前の彼の所にボールが集まってくるのである。ミュラーは特にペナルティエリア内でゴールを背にし、相手DFにコースを消されているときでさえ、比類のないすばやさで下半身を反転させ、左右どちらの足からもグラウンダーのシュートをゴール隅にたたきこんだ。また、決して高いとはいえない身長ながらも抜群のポジション取りによって、多くのヘディングシュートも決めることができた。

数字上の記録(得点数)もさることながら、74年のW杯決勝、オランダ戦の決勝ゴールに代表されるように大舞台での勝負強さも持ち合わせていた。「FWの仕事は得点を挙げること」を体現した選手であり、史上最高のストライカーが誰かを論ずる際に必ず名前が挙がる選手である。


■ゲルト・ミュラーのクラブ

1963年地元のクラブ・TSVネルトリゲンでデビュー。ここでの活躍がスカウトの目に留まり翌季にはバイエルン・ミュンヘンと契約。在籍15年間で4回のリーグ優勝 (1969 / 72 / 73 / 74年) 、7回のドイツ・ブンデスリーガ得点王 (1967 / 69 / 70 / 72 / 73 / 74 / 78年) 、チャンピオンズカップ優勝3回 (1974 / 75 / 76年) 、カップウィナーズ・カップ優勝1回 (1967年) 、ドイツカップ優勝4回 (1966 / 67 / 69 / 71年) 。

1979年ドイツを後にしアメリカへ渡り、フォートローダーデール、スミス・ブラザーズに所属したあと、1982年に現役を引退した。

引退後はアルコール依存症に苦しんだ時期もあったが、バイエルンのコーチなどもつとめた。


■ゲルト・ミュラーの代表

1966年10月12日 vsトルコ戦で代表デビュー、無得点に終わるが2戦目のアルバニア戦では4ゴールを挙げた。

1970年メキシコワールドカップでは10得点、1974年西ドイツワールドカップでは決勝戦オランダとの試合では決勝点を決め優勝、この大会4得点を挙げる。ワールドカップ通算14ゴールはブラジル代表のロナウドが2006年ドイツワールドカップで塗り替えるまで32年間通算ゴールトップの座を守った(2006年現在歴代2位)。

1972年欧州選手権でドイツ代表は優勝、ミュラーも4得点を記録し得点王に輝く。29歳で代表を引退。最後の試合は、上記の1974年決勝である。


■ゲルト・ミュラーの歴代最多得点記録

ブンデスリーガ 365得点(427試合)
ドイツ代表 68得点(62試合)


■ゲルト・ミュラーの所属クラブ

1954-64年 TSVネルトリゲン ドイツ
1964-79年 バイエルン・ミュンヘン ドイツ
1979-80年 フォートローダーデール アメリカ合衆国
1980-81年 スミス・ブラザーズ アメリカ合衆国



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カール・ハインツ・ルンメニゲ(Karl-Heinz Rummenigge、1955年9月25日 - )は、ドイツ・リップシュタット出身の元同国代表サッカー選手(FW)。現バイエルン・ミュンヘン会長。

1970年代を代表するドイツのストライカーがゲルト・ミュラー、そして1990年代を代表するドイツのストライカーがユルゲン・クリンスマンなら、1980年代を代表するドイツのストライカーは間違いなく、ミスター・ヨーロッパこと、このカール・ハインツ・ルンメニゲだろう。その類まれな、スピード、テクニック、決定力を武器に、ファンを魅了し、世界一のドリブラーと呼ばれた。

1974年に、ボルシア・リップシュタットからバイエルン・ミュンヘンに移籍し、そこで3度の得点王に輝く。(1979年/1980年、1980年/1981年、1983年/1984年シーズンの3回)その後、セリエA・インテル、セルベッテ(スイス)でプレー。1980年、1981年には欧州最優秀選手に選ばれる。

代表では、1976年10月6日ウェールズ戦でデビュー。ワールドカップには3大会(1978年アルゼンチン大会、1982年スぺイン大会、1986年メキシコ大会)に出場。W杯の舞台では、1982年と1986年は怪我のためフル出場試合は少ないが、合計10得点を挙げている。特に有名なのが、1982年大会の準決勝・フランス戦の延長戦、および1986年大会決勝・アルゼンチン戦で、ともに2点ビハインドの場面で記録した追撃のゴールである。前者はアクロバチックな体勢から決め、後者はまさに「魂で押し込んだ」とも言うべき泥臭いゴールであった。代表通算成績は95試合45得点。

かつて浦和レッズに所属していたミヒャエル・ルンメニゲは実弟にあたる。「ルンメニゲ来日」と聞いて、カール・ハインツが来ると勘違いした浦和サポーターは多かったはずである。奇しくも彼が会長をつとめるバイエルン・ミュンヘンは、2006年に浦和レッズとパートナーシップを締結した。同年7月31日には埼玉スタジアムで両チームの親善試合が行われた際に来日し、OBオールスターマッチにも参加して往年の技を披露、ハットトリックの活躍を見せた。


■カール・ハインツ・ルンメニゲの選手経歴

バイエルン・ミュンヘン(ドイツ) 1974年 - 1984年
インテル(イタリア) 1984年 - 1987年
セルベッテ(スイス) 1987年 - 1989年


■カール・ハインツ・ルンメニゲの主な獲得タイトル

欧州年間最優秀選手 2回(1980年、1981年)
欧州選手権優勝 1回(1980年)
欧州チャンピオンズカップ優勝 1回(1975年/1976年)




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オリバー・カーン(Oliver Kahn, 男性, 1969年6月15日 - )は、ドイツ・カールスルーエ出身のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。ドイツ・ブンデスリーガ、FCバイエルン・ミュンヘン所属。

欧州サッカー連盟が選ぶ歴代欧州サッカー選手ベスト50の中に、現役のゴールキーパーでは唯一選出された。


■オリバー・カーンのプレースタイル

思い切りの良い飛び出しでシュートを未然に防ぐ技術、相手選手との1対1の場面における我慢強さ、そしてミドルシュートへの対応の確実さはベテランになってなお健在。シュートに対する正確な位置取りに定評があり、よくスーパーゴールとして紹介されるような長距離からのシュートを決められることはまず無い。他のゴールキーパーならキャッチを試みるような正面へのシュートでも、多少でも危険があると判断すればパンチングで確実にゴールから遠ざけたりコーナーに逃れるので、常に安全第一を心がけている。そのパンチングは自分の手で投げているかと思うほど正確で、その技術は世界でもトップクラスである。しかしながらフィードキックの精度、守備範囲は凡庸で現代GKの条件としては少し劣る。それゆえにW杯ドイツ大会では守備範囲が広くハイボールに強いレーマンとのポジショニング争いに敗れた。

圧倒的な威圧感と存在感でゴール前に君臨し、鬼のような形相で怒鳴りつける姿は、敵・味方双方から闘将と恐れられている。同僚プレーヤーに「この世で怖いものは戦争とオリバー・カーン」と言われたことがある。自分だけでなく、仲間の少しのミスも許さない完璧主義者で、2002年のワールドカップ日韓大会、対アイルランド戦で、1失点を許して引き分けた試合では試合後、ロッカールームで、ミネラルウォーターのボトルを投げつけ、ディフェンダーに3時間説教したことがある。ティターン(巨人)、ブルカーン(火山)のあだ名がある。

彼の試合に対する集中力には凄まじいものがあり、試合後、控え室にて吐き気をもよおしたことがあるほど。勝利への執念も人一倍で、コーナーキックの際に相手ゴール前まで駆け上がり、自らの手でパンチングしゴールを決めてしまい退場処分を受けたこともある。

彼の風貌がゴリラに似ていることから、試合中に対戦チームのサポーターからゴリラの鳴きまねをされたり、バナナを投げられたことがある。


■オリバー・カーンのクラブでの活躍

16歳の時には体格不良で、クラブチームの入団試験に悉く落ちる。カールスルーエSCに入団するまでは筋力トレーニングのなどの雌伏の時期を過ごす。のちに同FCでの活躍が認められ、1994年、名門バイエルン・ミュンヘンへ。初年度は膝の大怪我でシーズンを棒に振るが、翌年からは期待通りの活躍を見せる。1998/1999シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝は、大会史上に残る名試合となるが、終了直前の2分間に2失点を喫し、マンチェスター・ユナイテッドにカップを奪われてしまう。ちなみに、この翌年、1999/2000シーズン以降、4年連続で欧州最優秀ゴールキーパーに選出されている。

ちなみに、このカンプ・ノウの奇跡の後、燃えつき症候群(バーンアウト症候群)に陥ったとされており、この敗戦がどれだけショッキングであったかを物語っている。

2000/2001シーズンには自らの活躍により、バイエルンをUEFAチャンピオンズリーグ優勝に導き、2年前の雪辱を果たした。2002ワールドカップ後は、私生活の問題もあり、コンディションを落とし、あまり良いプレーができなかったが、2004/2005シーズンには完全復活を印象付けた。2008年までバイエルンミュンヘンと契約を交わしている。なお、契約が切れる2008年に引退を表明している。


■オリバー・カーンの代表での活躍

ドイツ代表では、ワールドカップを4回経験している。しかし、1994年大会にはボド・イルクナー、1998年大会にはアンドレアス・ケプケと、共に世界レベルのゴールキーパーの存在が大きくサブに甘んじ、正キーパーとして出場できたのは2002年大会のみである。2006年大会には守備範囲が広くハイボールに強いレーマンとの正ゴールキーパーのポジショニング争いに敗れサブGKとして参加。

代表のレギュラーとして初めて国際大会に出場したのは欧州選手権EURO2000。しかし、この大会では本来の実力を発揮することができず、ドイツはグループリーグで敗退。

2002年に日韓で同時開催された2002 FIFAワールドカップにはキャプテンとして参加し活躍。ワールドカップでゴールキーパーとして初のMVPを獲得した(所属するドイツ代表は準優勝)。また、この年に自身3度目となる世界最優秀ゴールキーパー賞を受賞。同大会中のファインセーブは多くのファンを魅了するとともに、ドイツと対戦するチームを応援している人々にとっては悪夢のような存在でもあった。それは、サッカーという競技において確実に得点可能であるとされている局面においても、オリバー・カーンの存在により実を結ばない場面が多々あったからである。その活躍により、日本での知名度もあがった。

なお、ワールドカップ本選ではグループリーグ・アイルランド戦の1失点と決勝(ブラジル戦)での2失点のみであった(試合中、ブラジル代表ジウベルト・シウバとの接触で靭帯損傷の大怪我を負うが、そのままプレー続行)が、ヨーロッパで行われた予選大会ではイングランド戦で5失点を喫したことは、意外と知られていない。

カーンにとって実質3度目の国際大会、EURO2004では、本人は実力を発揮できたものの、代表チームは2大会連続のグループリーグ敗退となった。

EURO2004後に就任したユルゲン・クリンスマン監督の方針により、代表GKはローテーション制となり、ドイツワールドカップに向け長年のライバルであったイェンス・レーマン(アーセナルFC)と正GKの座を争う形となったが、2006年4月7日、クリンスマン監督から正式にレーマンが正GKであると発表があった。これにより「正GKとしてワールドカップに出場できないのなら代表を引退する」と以前から公言していたカーンであったが、「冷静に考えてから答えを出す。」とコメントし熟慮の末、代表に参加した。

なお、代表の主将の座は当時バイエルンのチームメイトであったミヒャエル・バラックに譲っている。

実質最後のワールドカップといわれた地元開催の2006 FIFAワールドカップでは、正GKとなったレーマンの控えとなったが「たとえ試合に出られなくても貢献できることはある」と自身でコメントしたように、延長戦ではレーマンを含めた他のチームメイトを励ますなど必死にチームを盛り上げる姿を見せ、ドイツ国内のみならず世界中で大きな感動を呼んだ。そして2006年7月8日(日本時間9日)に行われた3位決定戦では先発出場。ケガのため欠場したバラックに代わって主将を務めるとともに、好セーブを連発してチームの勝利に大きく貢献した。そしてこの試合の後、代表引退を正式に表明し、有終の美を飾った。

ベンチにいても存在感は非常に大きく、決勝トーナメント1回戦のスウェーデン戦後、スウェーデンの正ゴールキーパーのアンドレアス・イサクションは、自分のユニホームをレーマンではなくカーンのユニホームと交換した。


■オリバー・カーンの人気

ドイツでの彼の人気を物語るものとして、彼をモチーフにした曲「OLLI KAHN(オッリ・カーン)」がある。旧・東ドイツの都市・ライプツィヒ出身の音楽グループのディー・プリンツェン(die Prinzen)によるこの曲は2002年FIFAワールドカップの頃に発売され、ドイツ語や英語だけでなく日本語の歌詞も話題となり、のちには日本でもこの作品が数多く輸入された。

2006年ワールドカップ ドイツ大会ではミュンヘンの高速道路に、横っ飛びしてキャッチしているカーンの巨大アーチ看板(高さ18m、長さ65m)が作られた。これはミュンヘン空港からスタジアムに向かう道をまたいでおり、観戦客はカーンの体の下を通過してスタジアムに向かえる。このような巨大看板が作られたのはカーンだけである。

現在世界中で最も顔の知られているサッカー選手の一人である。


■オリバー・カーンの私生活

趣味はゴルフと株式投資、読書。ブラジルの作家パオロ・コエーリョの著作が好きで「パオロ」の通称もある。また愛車はフェラーリで(なお、バイエルン・ミュンヘンのスポンサーはオペル社)、スピード狂で、スピード違反で切符を切られたことが何度かある。また、鉄道模型も趣味としており、W杯での来日時に日本の模型店で新幹線500系電車とJR九州787系電車の模型を購入している。

サッカー選手には珍しく、大学入学資格アビトゥーアの資格を獲得し、大学の通信教育で経済学を専攻していた時期もあり、特に株式に関してかなり深い知識を持つ。ドイツのニュース番組では経済面などを中心にスーツに眼鏡をかけた格好でコメンテーターとして出演することもある。本人曰く「株式はじっくり考え、迅速に投資する」というのがポリシー。2002年10月4日(投資の日)に日本証券協会の投資セミナーで「世界の著名な投資家」として紹介され、ビデオレターも披露された。

尊敬する人はヘルムート・シュミット元ドイツ連邦首相と語る。


■オリバー・カーンの所属クラブ

1987年-1994年 - カールスルーエSC
1994年- 現 在 - FCバイエルン・ミュンヘン (2008年6月末に引退の予定)


■オリバー・カーンの獲得タイトル

ヨーロッパ選手権 EURO1996優勝
2006 FIFAワールドカップ3位
2002 FIFAワールドカップ準優勝
トヨタカップ 2001優勝
UEFAチャンピオンズリーグ優勝 2000/2001
UEFAチャンピオンズリーグ準優勝 1998/1999
UEFAカップ優勝 1995/1996
ブンデスリーガ優勝 7回(1996/1997,1998/1999,1999/2000,2000/2001,2002/2003,2004/2005,2005/2006)
ドイツカップ優勝 5回(1997/1998,1999/2000,2002/2003,2004/2005,2005/2006)


■オリバー・カーンの個人タイトル

2002ワールドカップ最優秀選手
2002ワールドカップ最優秀ゴールキーパー
世界最優秀ゴールキーパー 1999,2001,2002
欧州最優秀ゴールキーパー 1999,2000,2001,2002
ドイツ最優秀選手 2000,2001
ドイツ最優秀ゴールキーパー 1994,1997,1998,1999,2000,2002



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ミカエル・ラウドルップ(Michael Laudrup、1964年6月15日 - )は、デンマーク・コペンハーゲン出身の元同国代表サッカー選手(MF)、サッカー指導者。同じく元サッカー選手であった弟のブライアン・ラウドルップとともに、「ラウドルップ兄弟」として有名。

地元デンマークのクラブチーム・ブロンビーでキャリアをスタートし、芸術的なパスワークとセンスで中盤の核として活躍。1982年6月15日のノルウェー戦でデンマーク代表デビューを飾る。その後、1983年にセリエA・ラツィオへ移籍。その後ユヴェントスにも在籍し,プラティニらとともにトヨタカップ出場のため来日している。1989年、リーガ・エスパニョーラ・バルセロナへ移籍してからヨハン・クライフ率いるチームで才能を発揮し、ロマーリオ、ストイチコフ、クーマンといったスタープレーヤーととも4連覇を達成し黄金期を築いた。しかし、1994年にこともあろうに宿敵・レアル・マドリードへ移籍し周囲を驚愕させた。これについては、「どんなに成功しようとも、同じ所に長期間居すぎるとやがては幻滅を感じてくるものです。」と語っている。しかし、当然のようにバルセロナ・サポーターからは強烈なブーイングを浴びた。またこれを機に、この後レアル・マドリードとのライバル間でたびたび移籍が起こることになる。レアル・マドリードに入団した最初の年もリーグ優勝を果たし、結果として5年連続でリーガ・エスパニョーラ優勝を経験した。

その後、1996年に当時ジャパンフットボールリーグ(実質2部に相当)であったヴィッセル神戸に入団してJリーグ昇格に貢献。日本を離れた後はアヤックスに所属したのを最後に1998年に現役を引退。現在はかつてプレーしていたブロンビーの監督を務めている。

▽レアル・マドリッドへの移籍の理由としては、他に度重なるクライフからの批判があったからだとされる意見もある。本来、セカンド・トップで得点力よりもゲームメイクを売り物にしていた彼にとって、得点が少ないことは少々お門違いな点である。

▽ロマーリオやチキ・べギリスタインへ絶妙のアシストを繰り出していた。まさに、クライフ・バルサにおいてはベップ・グラウディオラやロナルド・クーマン、ウリスト・ストイチコフらとともに、欠かせない選手であった。


■ミカエル・ラウドルップの選手経歴

ブロンビー(デンマーク) 1971-1978
コペンハーゲンBK(デンマーク) 1978-1981
ブロンビー(デンマーク) 1982-1983
ラツィオ(イタリア) 1983-1985
ユヴェントス(イタリア) 1985-1989
バルセロナ(スペイン) 1989-1994
レアル・マドリード(スペイン) 1994-1996
ヴィッセル神戸(日本) 1996.7-1997.7
アヤックス(オランダ) 1997-1998


■ミカエル・ラウドルップの指導者経歴
ブロンビー(デンマーク) 2002-




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ブライアン・ラウドルップ(Brian Laudrup、1969年2月22日 - )は、デンマーク・コペンハーゲン出身(生まれたのはウィーン)の元同国代表サッカー選手(FW)。

同じくサッカー選手であった兄のミカエル・ラウドルップとともに、「ラウドルップ兄弟」として有名。父のフィン・ラウドルップも元代表キャプテン。1986年に地元のクラブチーム・ブロンビーでキャリアをスタート。翌年デンマーク代表としてデビューを果たすと存在感を発揮し、ドイツ・ブンデスリーガ・バイエルン・ミュンヘンやセリエA・フィオレンティーナ、ACミランで活躍。代表では、内戦の激しいユーゴスラビアの代替で急遽出場した1992年のEURO1992で、キーパーのピーター・シュマイケル らとともに優勝の原動力として活躍した。翌年、欧州チャンピオンとして出場したコンフェデレーションズカップでも、華麗な技術と抜群のスピードで観客を魅了し、決勝でアルゼンチンを破って優勝した。またこの年、三浦知良らとともに世界選抜のメンバーにも選ばれており、クリスマスに所属チームであるACミランと対戦したドリームマッチでは孤軍奮闘の活躍を見せた。

その後、クラブチームではイタリアの守備的なサッカースタイルに嫌気がさし、よりチャレンジングな環境を求めて1994年にスコットランドのグラスゴー・レンジャーズへ移籍。3度のリーグ優勝に貢献した。1998年のフランスW杯にも出場し、ブラジル戦でゴールを決めた。2000年、アヤックスを最後に現役を引退した。なお、1992年、1995年、1997年と3度デンマーク最優秀選手に選出されている。

足元のテクニックに優れ、ボールコントロールも巧みにこなし、右足の強烈ミドルも装備。また、持ち前のスピードを生かしたドリブル突破は一度スピードに乗られるとなかなか手がつけられないほどの突破力と強引さを兼ね備えている。


■ブライアン・ラウドルップの選手経歴

ブロンビー(デンマーク) 1986-1989
バイヤー・ユルティンゲン(ドイツ) 1989-1990
バイエルン・ミュンヘン(ドイツ) 1990-1992
フィオレンティーナ(イタリア) 1992-1993
ACミラン(イタリア) 1993-1994
グラスゴー・レンジャーズ(スコットランド) 1994-1998
チェルシー(イングランド) 1998
FCコペンハーゲン(デンマーク) 1998-1999
アヤックス(オランダ) 1999-2000


■ブライアン・ラウドルップの獲得タイトル

EURO92優勝
UEFAチャンピオンズカップ優勝(1993-94)



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ピーター・ボールスロウ・シュマイケル MBE (Peter Boleslaw Schmeichel MBE, ペーデル・ボレスラフ・シュマイヒェル、1963年11月18日 - )は、デンマーク出身のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。193cm。96kg。リカルド・サモラ、レフ・ヤシン、ゼップ・マイヤー、ゴードン・バンクス、ディノ・ゾフらと共に20世紀最高のGKの1人に挙げられる。愛称は“白い巨人”。190cmを越す巨漢で、足元でのプレーやゴールエリア外に飛び出すプレーはあまり得意ではないが、ゴールライン上での圧倒的な存在感を放ち、ハイボールや至近距離からのシュートに抜群の反応を見せる。また、リードしている試合以外のロスタイム時のセットプレイには果敢にも相手ゴールまで上がりゴールを狙うことが多くアストン・ヴィラ在籍時に1得点、代表でも1得点挙げている他、練習試合などでは見事なボレーシュートを決めていたりした。

元々ハンドボールのキーパーだったが(そのためか、センターラインを超えるほどのスローイングを放つことができた。また、度々ハンドボールのようなセービングも見せている)、スカウトされてサッカーに転向する。マンチェスター・ユナイテッドでは1991年から8年間プレーし、リーグ5回、FAカップ3回、チャンピオンズリーグとリーグカップを1回ずつ獲得した。特に所属最終年の1999年にはキャプテンとして三冠(トレブル)を果たした。マンチェスター・ユナイテッドのGKとして圧倒的な存在感を放っていたため、彼が退団した後のマンチェスター・ユナイテッドのGK達は彼の亡霊に苦しむことになる。

デンマーク代表の最多キャップ保持者(129試合)。EURO1992では好セーブで優勝に貢献し、MVPに選出された。

また、彼の息子、カスパーも、U-19デンマーク代表にも選出されるなどしている。


■ピーター・シュマイケルの所属クラブ

グラッドサクス・ヘロ(デンマーク) 1975-1983
フビドブレIF(デンマーク) 1984-1986
ブロンビー(デンマーク) 1986-1991
マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 1991-1999
スポルティング・リスボン(ポルトガル) 1999-2001
アストン・ヴィラ(イングランド) 2001-2002
マンチェスター・シティ(イングランド) 2002-2003


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ヨゼフ・マソプスト(Josef Masopust, 1931年2月9日 モスト Most -)はチェコスロバキア(チェコ)出身のサッカー選手。ポジションはMF。

代表デビューは1954年10月24日vsハンガリー戦

1962年チリワールドカップでは中心選手として活躍、全試合に出場しチェコスロバキア準優勝の原動力となる。

1962年チェコスロバキア人初となるバロンドールを受賞。

流れる様なドリブルを駆使したプレイスタイルが特徴。「フィールド上のスラローマー」と呼ばれた。


■ヨゼフ・マソプストの所属チーム

バニク・モスト(チェコスロバキア)1945-1950
ボドテチナ・テプリチェ(チェコスロバキア)1950-1952
ドゥクラ・プラハ(チェコスロバキア)1952-1968
RWDモレンビーク(ベルギー)1968-1970



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パベル・ネドベド(パヴェル・ネドヴィェト)(Pavel Nedvěd、1972年8月30日 - ) チェコ出身のサッカー選手、ポジションはMF(SH、OH)。イタリア・セリエBのユヴェントス所属(2001年-)。


■パベル・ネドベドの経歴

1994年6月のアイルランド戦で代表デビュー。EURO'96ではチェコ代表で同僚のカレル・ポボルスキーに主役を奪われるものの着実なプレーでその後のセリエ入りをアピールした。ラツィオ移籍後はそのスタミナを武器に大車輪の活躍を見せ、ユベントスに移籍後もそれは代わることはなかった。

2002-2003シーズンにおいては、故障者が続出して危機的なチーム状況の中ほとんどの試合に フル出場しチームの2年連続スクデット獲得に大きく貢献。 このクラブにおける活躍と代表での活躍が高く評価され2003年のバロンドールを獲得した。しかし2003-2004シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、ユベントスを決勝に導く活躍を見せるが、準決勝のレアルマドリード戦でイエローカードをもらい累積2枚目となったため、決勝には出場することができなかった。ユヴェントスもPK戦の末敗れ、ACミランが優勝した。さらに2004年のEURO2004でもチェコ代表のベスト4に貢献したが、準決勝のギリシア戦で足を負傷し無念の交代、チームはその後延長戦で敗れた。

EURO後、「代表とクラブの両方を掛け持ちできなくなった。代表で怪我をすればクラブに迷惑がかかる。」とコメントし一度代表を引退していた。ネドベドのいないチェコは2006年ドイツW杯最終予選でオランダに1位通過を許し、プレーオフに回ることになった。母国のワールドカップ出場のためネドべドはプレーオフ2試合限定で代表に復帰すると宣言。ノルウェーとのプレーオフを制し、チェコはスロバキアとの分裂後、ワールドカップ初出場を果たした。その後、代表引退をワールドカップ敗退後まで延長し、5月15日本選出場メンバーに選出。グループリーグ3試合全てにフル出場したが、FWヤン・コレルの怪我やミラン・バロシュの不調もあり残念ながら決勝トーナメント進出は果たせずに敗退した。

2006年8月15日、翌日に行われる国際親善試合、対セルビア戦を最後に代表引退を発表した。前半終了間際で交代をしたときは目に涙を浮かべながらベンチに下がり多くの人の涙を誘った。

W杯後、所属するユヴェントスが不正疑惑のためにセリエB降格の処分が下され、カンナヴァロ テュラムらが次々とユヴェントスを去り、自らにも多くのクラブからオファーがきた。シーズン終了前は引退も口にしていたネドベドだったがデル・ピエロ、ブッフォンに続き、「世話になったクラブに恩返しをしようと思う」と現役続行と残留を表明、ユベントスでプレーしている。


■パベル・ネドベドのプレースタイル

元々は左サイドの攻撃的な選手として売り出したが、不屈の精神を象徴するとも言われる驚異的なスタミナを武器に、攻守全ての場面に姿を見せるため、2列目なら右でも真ん中でもこなせる。

強烈なシュートも魅力で"チェコの大砲"と呼ばれる。その豪砲はGKが反応する間もなくネットに突き刺さるほど。しかも左右両足で正確で強烈なシュートが打てる。これは少年時代からの猛練習で身につけたと回想している。


■パベル・ネドベドの人柄

サッカー選手を目指す前は、国内で最も人気のスポーツであるアイスホッケー選手になるのが夢だった。サッカーを選んだ理由は、ホッケーに比べて用具代が安いから。

努力家として知られる。本人によると、少年時代、家から60マイル(およそ96km)離れたサッカースクールに通っていたという。にも関わらず当時練習時間は毎日12時間を費やしていた。さらに趣味と聞かれると「練習」と言うくらいの練習の虫(サッカーをしてない時は?と聞かれた際には家族サービスと回答している)。

パトリック・ベルガー、トマーシュ・ジェプカとは犬猿の仲で、このために二人は早期に代表引退している。

引退後はプロの監督業としてでなく、子供達のサッカーの指導に携わりたいと言っていたことがある。 タイトルがかかった重要な試合などには不運にも出場が出来ないことが多い。試合中に熱くなり過ぎるのが原因である。


■パベル・ネドベドの所属チーム

デュクラ・プラハ(チェコ) 1991-1992
スパルタ・プラハ(チェコ) 1992-1996
ラツィオ(イタリア) 1996-2001
ユヴェントス(イタリア) 2001-



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