サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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ルート・フリット(Ridi Dil "Ruud" Gullit、1962年9月1日 - )はオランダ・アムステルダム出身の元同国代表サッカー選手で、現役時代はオランダやイタリアのクラブでプレー。引退後はイングランドやオランダのクラブで指揮を執った。セリエA90年代最強のチーム「グランデミラン」の中核「オランダトリオ」の一人。


■ルート・フリットのプレースタイル

フリットは歴代のスタープレーヤーの、良い所だけを持った素晴らしいサッカー選手だった。フリットをサッカーの革命児と呼ぶ人は多い。ストライカーからリベロまで、ありとあらゆるポジションを見事にこなしてみせた。彼に近いプレーヤーといえば、フィリップ・コクーかパベル・ネドベドくらいのものである。

サッカーの革命児のプレーは、今見ても新鮮で、美しい。ピッチに映える一輪のチューリップ。その姿はオランダの象徴だった。


■ルート・フリットの呼称・表記について

オランダ語のGuの発音は日本語にはないものであり、強いてカタカナ表記すれば「フ」に近いことから、キャリア中期(ACミラン在籍時)まで日本では「フリット」と書かれた。しかし、現実の発音とはかけ離れたものであり、また「フリッター」のようであまり印象も良くないことから、本人はサッカー誌のインタビューで(イタリア語、英語などでの読みに準じる)「グーリット」とするように希望した。 なお、本稿では認知度の高い「フリット」を使用する。


■ルート・フリットのプロフィール

現役時代は一目見たら絶対に忘れない「ドレッドロックヘア」がトレードマーク(現在は短髪である)で、日本でもサッカーファンの中では広く認知されていた。また、オランダではレゲエミュージシャンとしての顔も持っている。スリナム人の父とオランダ人の母の混血児であり、黒人差別に反対の立場を取り続けている。

愛称はオランダ出身、独特の髪型などを小説の題名になぞらえた「黒いチューリップ」。


■ルート・フリットの現役時代

1979年、HFCハールレムでデビューを飾り、高い技術力を見せる。その活躍が認められ、1981年9月1日のスイス戦で代表デビューを飾る。1982年にはフェイエノールトへ移籍し、ヨハン・クライフとともにリーグ優勝に貢献する。

その後、PSVアイントホーフェンを経て、1987年に当時の史上最高額の移籍金でセリエA・ACミランへ移籍。マルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」としてACミランの黄金期を支え、数々のタイトルをもたらし自身もこの年バロンドールを受賞した。また、オランダ代表としてもEURO1988では優勝に貢献。この時代はまさにフリットの全盛期であった。しかし、1989-1990シーズンに膝を故障してしまう。この故障は引退時まで大きく引きずることになる。

1990年のイタリアW杯に出場した。欧州王者のとして優勝候補の一角にあげられていたが、フリット自身は膝の故障を抱えており、満足なプレーをすることができず、チームもベスト16で敗退した。

もともとシステムを重視するアリゴ・サッキ、ファビオ・カペッロの下で自由なプレーができず戦術が合わないことから、1993年、サンプドリアにレンタル移籍する。そこで、リベロのポジションを与えられ、自由奔放な本来のスタイルが復活し、サンプドリアは93-94シーズンをリーグ3位、コッパ・イタリア優勝と大躍進を遂げ、その立役者となる。特に古巣ACミラン戦においては全盛期に勝るとも劣らないパフォーマンスを見せる。

しかし、1994年のアメリカW杯はディック・アドフォカート監督との折り合いが悪く、クライフの代表監督就任もなくなったため、出場を辞退している。

1994-1995シーズン前にACミランに復帰するが、ポジションは再び束縛され不振に陥ったため、シーズン途中にサンプドリアに再び移籍したが、前年ような輝きを見せることはできなかった。


■ルート・フリットの指導者として

1995年、チェルシーへ移籍した。1995-1996シーズンを率いていたホドル監督がイングランド代表監督に就任することからその後任として現役のまま監督に就任する。監督1年目となった1996-1997シーズンは、ジャンルカ・ビアリ、ジャンフランコ・ゾラ、ロベルト・ディマッテオなどのトップ選手を加入させ、リーグは6位ながらも27年ぶりにFAカップをチームにもたらした。また、外国人としては史上初のFAカップ優勝監督ともなった。この年を最後に現役を退き監督専任となった。

しかし、翌1997-1998シーズン、チームは好調であったにもかかわらず監督を解任される。その後任には同じく選手兼監督としてジャンルカ・ビアリが就任した。チェルシーに久々にタイトルをもたらした功績は大きいものの、補強に多大な資金を費やし、チーム財政を悪化させたことが後にロマン・アブラモヴィッチのチーム買収に繋がることになる。また、この時代にイタリア選手が多数プレミアシップリーグに移籍したのもチェルシーの補強がきっかけである。

1998-1999シーズン開幕直後にニューカッスルの監督に就任するが、13位に低迷し、1年で辞任をする。この時のスローガン「セクシーフットボール」は監督としてのフリットの代名詞となる。

しばらく解説者をした後、2004-2005シーズン、フェイエノールトの監督に就任。小野伸二らの指導をしていたが、リーグ4位に低迷し、シーズン終了後に辞任した。


■ルート・フリットの選手経歴

1979年-1982年 - HFCハールレム(オランダ)
1982年-1985年 - フェイエノールト(オランダ)
1985年-1987年 - PSVアイントホーフェン(オランダ)
1987年-1993年 - ACミラン(イタリア)
1993年-1994年 - サンプドリア(イタリア)
1994年7月-12月 - ACミラン(イタリア)
1995年1月-6月 - サンプドリア(イタリア)
1995年-1997年 - チェルシー(イングランド)


■ルート・フリットの監督経歴

1996年-1998年途中 - チェルシー(イングランド)
1996年-1997年シーズンは選手兼任監督
1998年-1999年 - ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド)
2004年-2005年 - フェイエノールト(オランダ)


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ルトヘルス・ヨハネス・マルティニウス・ファン・ニステルローイ "ルート・ファン・ニステルローイ"(Rutgerus Johannes Martinius van Nistelrooij "Ruud van Nistelrooy", 1976年7月1日 - )は、オランダ・北ブラバント州オス出身でリーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードに所属するサッカー選手(FW)。


■ルート・ファン・ニステルローイの経歴

1993年にオランダのクラブチーム・デン・ボッシュでキャリアをスタート。フォワードとして頭角を現し、1998年にPSVへ当時のオランダリーグ最高額の移籍金で移籍。オランダ代表にも招集され、同年11月19日のドイツ戦で代表デビューを果たす。

PSVでの活躍が海外からも注目され、2000年にマンチェスター・ユナイテッドが獲得に名乗りを挙げたが、故障のため先送りとなり翌年入団。2001-2002シーズンから2年連続でチャンピオンズリーグ得点王、2002-2003シーズンにはプレミアリーグ得点王に輝くなど、オランダのみならず世界有数のストライカーに成長した。 所属するマンチェスターユナイテッドでは2005-2006シーズンもゴールを量産したが、ウェイン・ルーニーを主軸にルイ・サハとファン・ニステルローイをチョイスする監督のアレックス・ファーガソンの起用法に反発。2006-2007シーズンを前にスペインのレアル・マドリードに移籍した。 2006年11月12日のオサスナ戦で、前半にハットトリック後半にも1点を追加し計4得点を取るなど、移籍1年目から得点ランキングに載る活躍をしている。

また、オランダ代表としても2006ドイツワールドカップメンバーにも選ばれたが、監督のファン・バステンの起用法などに不満を持ち、大会終了後には「マルコ(ファン・バステン)がベンチにいる間は代表として戦わない」とその後の代表召集を拒んでいる。また、EURO2008の予選で若きエースのアヤックスのフンテラールが怪我で出場できない試合があったときにはファン・バステンから直接出てくれないかと電話があったが、ファン・ニステルローイは断った。フンテラールの代役という形が嫌だったらしい。

なお、同じオランダ代表のパトリック・クライファートとは生年月日が全く同じであるが、非常に仲が悪く犬猿の仲であることはよく知られている。彼とは2トップを組んだことがあったが、全く噛み合わなかった。

マンチェスター・ユナイテッド所属時代は地元の大学に通いながらプレーを続けていた。サッカーの他に、テニスと体操をやっていた時期がある。


■ルート・ファン・ニステルローイのプレイスタイル

その長身と柔らかい足元、深い懐を生かした典型的なセンターフォワードであり、一人でポストプレイヤーとストライカーを同時にこなすプレーは世界屈指。「ファン・バステンの再来」と言われている。SCヘーレンフェーン在籍時に、コーチ陣から、デニス・ベルカンプを手本にするように指導されていた。


■ルート・ファン・ニステルローイの所属チーム

1993年-1997年 - FCデン・ボッシュ(オランダ) 69試合17得点
1997年-1998年 - SCヘーレンフェーン(オランダ) 31試合13得点
1998年-2001年 - PSV(オランダ) 67試合62得点
2001年-2006年 - マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 150試合95得点

2006年- 現 在 - レアル・マドリード(スペイン)


■ルート・ファン・ニステルローイの経歴・タイトル

エールディヴィジ得点王 2回 1998-99、1999-2000
FAプレミアリーグ得点王 1回 2002-2003
チャンピオンズリーグ得点王 3回 2001-2002、2002-2003、2004-2005





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ヨハン・ニースケンス(Johan Jacobus Neeskens、1951年9月15日 - )は、オランダ・ヘームステーデ出身の元同国代表サッカー選手(MF)。

史上最高のセンターハーフの一人。戦友であるヨハン・クライフとファーストネームが同じことから「もう一人のヨハン」と呼ばれた。オランダ人にしてはさほど長身ではないが、強靭な下半身からのシュート力は強烈なものがあった。


■ヨハン・ニースケンスの経歴

ヘームステーデ・ハーレムでデビュー後、1970年にアヤックス・アムステルダムへ入団。同年11月11日の西ドイツ戦で代表デビューを飾り、1970-1971シーズンからのUEFAチャンピオンズカップ3連覇や1971-1972、1972-1973シーズンのリーグ連覇に貢献した。

1974年にはFCバルセロナへ移籍。攻守にわたる活躍と闘志溢れるプレーでファンを魅了し、活躍を見せた。また同年の西ドイツW杯ではヨハン・クライフらを中心とする「トータル・フットボール」で準優勝に貢献。1978年のアルゼンチンW杯ではクライフが出場辞退した中で主軸として活躍し、代表通算49試合に出場。17得点を挙げた。

その後、当時サッカー不毛の地と言われていたアメリカへ渡り、ニューヨーク・コスモスではフランツ・ベッケンバウアーとともにプレーし、1980年と1982年にはリーグ優勝を果たした。1シーズンオランダのFCフローニンゲンでプレーした後、再び渡米し、選手生活の終盤はスイスでプレーした。

引退後は指導者としての道を歩み、1999年にはオランダ代表のアシスタントコーチに就任。エールディヴィジ・NECナイメヘンの監督も務めたが2004年12月に成績不振により解任されている。

2005年12月にはオーストラリア代表のアシスタントコーチに就任。

2006年6月、古巣のバルセロナにアシスタントコーチとして復帰することが決まり、ドイツW杯終了後に就任した。契約期間は3年間。


■ヨハン・ニースケンスのエピソード

アヤックスはかつてアマチュアの野球チームも所有していた。サッカーチームの休日にはクライフやニースケンスも野球に参加することがあったという。クライフは野球はさっぱりだったようだが、ニースケンスは本職の選手顔負けのバッティングや守備を見せていたという。


■ヨハン・ニースケンスの所属クラブ

ヘームステーデ・ハーレム(オランダ) 1966-1970
アヤックス・アムステルダム(オランダ) 1970-1974
FCバルセロナ(スペイン) 1974-1978
ニューヨーク・コスモス(アメリカ) 1978-1984
FCフローニンゲン(オランダ) 1985-1986
フォートローダーデール・サン(アメリカ) 1986
ローウェンブリュー(アメリカ) 1987
FCバール(スイス) 1987-1990
FCツーク(スイス) 1990-1991


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ヨハン・クライフ(Johan Cruijff, フルネーム:Hendrik Johannes Cruijff, 1947年4月25日 - )は、オランダ・アムステルダム(ヘームステーデ)出身の元サッカー選手、および指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)、攻撃的ミッドフィールダー(トップ下)。英語表記では「Cruyff」とも。


■ヨハン・クライフ

オランダが生んだ天才プロサッカープレイヤー。1960年代後半から70年代にかけて世界のフットボールシーンを席巻した。サッカー史上屈指の選手に位置づけられているプレーヤーである。選手時代に欧州年間最優秀選手賞(バロンドール)を3度受賞。

また、独自のフットボール理論とその傲慢とも取れる程の強烈なカリスマ性で、指導者としても実績を残した。1996年以降は監督業からも退いてはいるが、選手としてもプレーしたFCバルセロナ(スペイン)やオランダ代表をはじめ、今もなおサッカー界に多大な影響を与え続けている。

クライフにはその活躍を称える様々なニックネームが付けられているが、最も有名なのは「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」。これはリヒャルト・ワーグナーの楽劇「さまよえるオランダ人(Der fliegende Holländer)」に由来する。またイニシャルの「J.C.」がイエス・キリストと同じであることから、「Jesus(ジーザス)」とも呼ばれた。

息子のジョルディ・クライフもプロサッカー選手。バルセロナ所属当時(1974年)に産まれたため、カタルーニャ語風に「Jordi(ジョルディ)」と命名したという。

選手時代は、プーマとスポンサー契約を結んでいた。1974 FIFAワールドカップのオランダ代表はアディダスのユニフォームを採用しており、袖にはアディダスのシンボルである3本線が入っていたが、クライフのユニフォームだけは線が2本になっていた。


■ヨハン・クライフのプレイスタイル

オランダが誇る名将、リヌス・ミケルスが提唱した革命的な組織戦術・通称「トータルフットボール」の最高の体現者として知られる。

11人の中央のポジション、文字通り「心臓部」に位置し、俊足と当たり負けしない抜群のバランス感覚、卓越した華麗なテクニック、試合の流れを読む洞察力、そしてミケルスの意思を具現化する戦術理解力と、選手として全てにおいて秀でていた。試合中はフィールドの指揮官としてチームを牽引し、状況に応じてフォワードから最後尾まで至るところに顔を出す。ゲームメイクからラストパスの供給、フィニッシュまでひとりでこなしてしまうオールマイティプレイヤー。

ミケルス監督とは1965年のアヤックス時代から、FCバルセロナ、そしてオランダ代表でも共に戦っており、ミケルスの戦術の中で唯一無二の存在として君臨した。

特徴的なプレーとしては、軸足の後ろ側にボールを通す「クライフ・ターン」が有名。現代サッカーでは基本テクニックのひとつとして各クラブの下部組織などで少年たちに教えられている。ちなみに、ジネディーヌ・ジダンの「マルセイユ・ルーレット」と混同されがちだが、全く異なる技である。

またワンタッチプレーを好み、独特のタイミングで放つパスやシュートで相手選手を翻弄した。1974年のワールドカップ西ドイツ大会、対ブラジル代表戦で魅せたジャンピングボレーシュートは、後の「フライング・ダッチマン」の愛称に繋がっている。


■ヨハン・クライフの経歴

▽少年時代

1947年4月25日、第二次世界大戦後のオランダ・アムステルダム郊外(ヘームステーデ)で、父親が青果店を営む家庭に産まれた。少年時代は店の前でサッカーの練習に明け暮れる。この頃から華奢で、周囲の大人から「この子は病気じゃないか」と心配されていた程だったが、ヨハン少年は元気にストリートサッカーで技を磨いていった。
小さい時からアヤックスの大ファンだったクライフは、10歳の時にアヤックスの下部組織に入団。合格の可能性1%と言われた中での入団だった。12才の時に父親が死去、その2年後に母親がアヤックスのグラウンド作業員と再婚している。13歳の時、サッカーへ専念するため学校を退学した。
ちなみにアヤックスユース時代、審判のポジショニングミスを指摘して退場処分になった事があると言う。


▽アヤックス時代

16歳の時にアヤックスのトップチームに昇格し、1964-65シーズンにデビュー。デビュー戦のFCフローニンゲン戦で初ゴール。その後オランダサッカーリーグはプロ化され、クライフはオランダ2番目のプロ選手となる。また1966年9月7日の対ハンガリー戦でオランダ代表デビュー、以降オランダを代表するスターとして世界に名を馳せていく。
アヤックスには1973年まで9シーズン以上在籍し、その間UEFAチャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身)に3回優勝、個人ではバロンドールに2回選出されている。
ちなみにクライフの代名詞である背番号「14」はアヤックス当時から好んで付けていた。当時背番号は選手固定ではなく、毎試合前に選手同士で話し合って決めていた。ある時、主に控え選手が付ける「14」を選ぶクライフに監督がその理由を尋ねると、クライフは「誰も付けていないこの番号を、これから自分の番号にするためだ」と言ったという。


▽世界のクライフへ

1973年、200万ドルという当時としては破格の移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍。当時低迷していたクラブの救世主として、22戦連続無敗記録など快進撃の立役者となり、このシーズンのリーグ優勝に貢献した。特にアトレティコ・マドリード戦でのゴールやアウェーサンティアゴ・ベルナベウで行われたエル・クラシコに5-0で歴史的大勝を収めた事などは語り草となっている。その後5シーズンにわたってバルセロナに多くのタイトルをもたらした。
1974年のワールドカップ西ドイツ大会には、オランダ代表の中核として出場。「時計じかけのオレンジ」と称された完成度の高いチームの心臓として、チームを決勝戦まで押し上げた。しかし決勝の対西ドイツ戦で、クライフは西ドイツのディフェンダー・ベルティ・フォクツの執拗なマークに遭い完全に封じ込められる。チームとして機能しなくなったオランダは1対2で敗れ、惜しくもワールドカップを逃した。しかしこの決勝戦は、ワールドカップ史上最もスペクタクルな一戦のひとつとして現在も語られている。クライフ自身はこの大会の最優秀選手に選ばれ、またこの年のは3度目のバロンドールにも輝いた。
4年後の1978年にアルゼンチンで開催されたワールドカップでは、欧州予選にこそ出場したものの、当時のアルゼンチンのビデラ軍事政権に対する抗議のため大会参加を拒否。さらにその後はオランダ代表が2大会連続で欧州予選で敗退しており、クライフのワールドカップにおける成績は、1大会のみの出場で7試合3得点に留まっている。


▽選手キャリアの晩年

1979年、FCバルセロナ上層部と運営方針を巡って衝突し、クラブを退団。一時は引退を宣言するも、アメリカ・北米サッカーリーグのロサンゼルス・アズテックスに移籍。ベッケンバウアーと共にリーグを彩った。
その後スペインのレバンテを経て、1981年に古巣アヤックスに戻り、全く衰えを見せないプレーで故郷の観客を魅了。その後キャリア最後のシーズンをフェイエノールトで過ごし、1984年に現役を引退する。最後の2年は連続でオランダ年間最優秀選手に選ばれており、余力を残しての引退であった。最後の試合を終えた後、ロッカールームでスパイクを無造作に放り投げ、引退の意思を示した。


▽指導者としての成功

翌1985年、アヤックスの監督に就任。就任時はまだ公式な指導者ライセンスを取得していなかったため、当初の肩書きは「テクニカルディレクター」だった。3年間同クラブを指揮し、1987年にはUEFAカップウィナーズカップ優勝に導いた。この時の教え子にフランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステン、アーロン・ヴィンター、デニス・ベルカンプといったその後のオランダサッカー界を牽引する選手たちがいる。
1988年に監督としてFCバルセロナに戻ったクライフは、それまでの主力選手を大量解雇するなど低迷するクラブの再建に着手。多額の費用を投じてフリオ・サリナスらスター選手たちを次々獲得していき、在任8シーズンの間にリーガ・エスパニョーラ4連覇(1990-94)を含む数々のタイトルを獲得。1991-92シーズンにはクラブ初のチャンピオンズカップ奪取を成し遂げた。このクライフが創り上げたチームは「エル・ドリーム・チーム」と称され、バルセロナの栄光の歴史に刻まれている。


▽その後

1996年、健康上の理由で監督を勇退。これ以降クライフは第一線を退いているが、その後も事ある毎に至るところで「クライフ監督待望論」が持ち上がるのは、彼の功績の素晴らしさを物語っている。現在は世界のフットボール界のご意見番として、多くの後輩たちに辛辣で愛のあるアドバイスを送り続けている。


■ヨハン・クライフの所属クラブ

▽選手として

1964-1973 アヤックス
1973-1978 FCバルセロナ(スペイン)
1979 ロサンゼルス・アズテックス(アメリカ)
1980-1981 ワシントン・ディプロマッツ(アメリカ) → レバンテ(スペイン)
1981-1983 アヤックス
1983-1984 フェイエノールト

▽監督として

1985-1988 アヤックス
1988-1996 FCバルセロナ


■ヨハン・クライフの経歴

1966年9月7日 代表デビュー(対ハンガリー戦)
1966年9月7日 代表初ゴール(対ハンガリー戦)


■ヨハン・クライフの個人タイトル

▽バロンドール(欧州年間最優秀選手賞) - 1971、1973、1974年
同賞を3度受賞しているのはクライフのほかにプラティニ現UEFA会長、そしてクライフの愛弟子ファン・バステンの3人だけ。

▽1974年ワールドカップ西ドイツ大会
-最優秀選手賞、ベストイレブン(チームは準優勝)



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マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten, 1964年10月31日 - )は、オランダ・ユトレヒト出身のサッカー選手。現同国代表監督。

度重なる怪我のため選手生命は長くなかったが、スピード・パワー・テクニック・高さ・アイディア・メンタル・瞬発力・決定力・スター性とFWに必要な能力を全てを兼ね備えた万能ストライカーで、1988年の欧州選手権、対ソ連戦では伝説となったボレーシュートを決めた。これは後に20世紀最高のゴールと賞賛されている。ACミラン在籍時にヨーロッパ/サウスアメリカ カップやUEFAチャンピオンズカップなどのタイトルを獲得した。

1987年から在籍したACミランではルート・フリット、フランク・ライカールトらと共にオランダトリオと呼ばれ、グランデミラン(偉大なるミラン:他のメンバとして、フランコ・バレージ、パオロ・マルディーニ、デメトリオ・アルベルティーニ、アレッサンドロ・コスタクルタなど)と称された当時世界最強チームの偉大なストライカーとして君臨した。91/92シーズンには25ゴールを決め自身得点王にもなり、ACミラン無敗優勝の立役者ともなった。スパイク契約はミラン移籍後からディアドラであり、オランダ代表のチームカラーであるオレンジ色のロゴのスパイクを履いていた。ロベルト・バッジョと並び、同社の看板選手であった。

史上最高のFWの一人として多くの人が名を挙げるにもかかわらず、バロンドール最多受賞やクラブチームでのタイトルの栄光に比べると、W杯の活躍が乏しいこと(1点も決めてない)が評価を下げていることも事実である。

しかし、彼のその天才的なプレースタイルは他の追随を許さず、イタリアのサッカーファンに『神は8日目にマルコを創造した』とまで言わしめた。また、彼が引退を表明した直後のシーズンにはACミランのファンに「マルコのいないサンシーロは羽の無い風車だ」という横断幕を掲げられたほどである。

愛称は「ユトレヒトの白鳥」。


■マルコ・ファン・バステンのプレイスタイル

長身ながら繊細なボールタッチが魅力的な万能センターフォワード。自らサイドに流れてのプレーは言うに及ばず、下がりながらボールを受け、ラストパスを出す事もたやすくこなした。オフサイドラインをかいくぐりゴール前に飛び出すプレーも得意であったし、ドリブルでディフェンダーを抜くこともでき、当然ながら長身を生かしたヘディングも素晴らしく、さらに、アクロバティックなシュートも決めいていた。豪快さには欠けるが、頭、両足から繰り出されるシュートは針の穴を通すように正確で、かつ、ミドルシュート、ループシュート、ドリブルでキーパーをかわしてシュート等、得点パターンを豊富に持っていた。自らのゴールで勝利を呼ぶ事も多かったが、マークを自分に引き寄せ周りに得点させることも多かった。あらゆるプレーの質が高く、一発で試合をひっくり返すことができた。これだけの選手でありながらセットプレーからの得点時にはフリーでボールを受ける場面も多く、ディフェンダーのマークを振り切る技術にも長けていた。

また、彼は執拗なきついあたりやバックチャージなどを度々受けていたが見事なボディーバランスで倒れようとはしなかったため(有名なのは1990年のトヨタカップのループシュートまでのプレーの流れ)、そのことが怪我をまねく原因と見る人も多かった。

PKの蹴り方が独特であり、一度ジャンプしてから長めの助走をつけて蹴る(これは練習中の癖が残ったものだという)。しかしGKに間を読まれることもあり、1992年の欧州選手権ではデンマークの名手・ピーター・シュマイケルに読み切られ止められてしまう。オランダは彼だけが失敗し、準決勝で敗退することとなってしまった。

プロデビューは17歳のときで、先発のクライフが自ら指名して交替出場。その試合でハットトリックを達成している。

彼を史上最高のFWと評価する声は多い。 彼に憧れる選手は多く、ティエリ・アンリ(アーセナル・フランス代表)、アンドレイ・シェフチェンコ(チェルシーFC・ウクライナ代表)、日本では高原直泰(アイントラハト・フランクフルト・日本代表)など枚挙に暇が無い。

彼の姿を現代サッカー選手で例えるならば、ズラタン・イブラヒモビッチとダビド・トレゼゲの長所だけをとった様な選手だった。


■神 ”マルコ”

あるファンはこう言った。「神は8日目にマルコを創造した」。旧約聖書によると、8日目は世界が神によって創造された日。という事は、このファンにとってマルコは世界だったのだろうか?大袈裟過ぎると思うかもしれない。しかし、紛れも無くファンとって彼は世界そのものだった。またそうでないものにとっても特別な存在だったことは言うまでもない。


■マルコ・ファン・バステンの監督業

1995年に引退後はしばらくサッカーから離れていたが、2003年に古巣アヤックスのユースチームのアシスタントコーチに就任すると、そのわずか1年後にはディック・アドフォカートの後任としてオランダ代表監督に就任した。

指導者としては皆無に等しい実績から、疑問を差し挟む声も少なくなかったものの、フタをあけてみればワールドカップドイツ大会予選でチェコ、ルーマニアといった強豪と同居し「死のグループ」と呼ばれたグループ1を10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過を果たし、日韓ワールドカップ予選敗退の悪夢を払拭した。

監督としてのファン・バステンは4-3-3システムを重用しているように、リヌス・ミケルス以来のトータルフットボールの伝統を受け継いでいるが、最大の特徴は新しい選手の召集に非常に積極的な点である。彼はこれまでほとんど注目されていなかったオランダ3強(アヤックス・フェイエノールト・PSVアイントホーフェン)以外のチームからも多くの選手を召集している。特に3強を脅かすクラブに成長したAZアルクマール出身の選手は今や最大勢力となり、そこからデニー・ランツァート(現ウィガン・アスレティック)、ヤン・クロンカンプ(現PSVアイントホーフェン)、ヨリス・マタイセン(現ハンブルガーSV)、バリー・オプダムなどの有能な選手がブレイクするきっかけともなった。

またライアン・バベル、ヘドヴィヘス・マドゥロ といったリーグでの実績がほとんど無かった選手でも戦力になると思えば躊躇なく召集する一方で、実績はあるが調子が悪かったり代表でのプレーの質が悪い選手(パトリック・クライファート、クラレンス・セードルフなど)は容赦なく戦力外としている。彼の下では実績は意味を成さない。そのため、クライファートなど実績のある代表候補の選手の中には「(ファン・バステンが監督在任中は)代表に復帰しない。」と明言する者もいる。

アドフォカート時代の硬直的な選手起用で溜まっていた代表の閉塞感を打破し、チーム内の風通しをよくしたことは大きな意義がある。もっとも、あまりにもメンバー構成が毎試合異なるので、「いくら何でも試しすぎ」との批判もある。

2006年のワールドカップは死のグループと呼ばれたグループCを2勝1分けの成績で突破したが、決勝トーナメント1回戦でポルトガルに敗れベスト16に終わった。しかしオランダサッカー協会はファン・バステン監督を留任させることを決定し、契約を2010年まで延長した。


■マルコ・ファン・バステンの印象に残るプレー

1988年、欧州選手権決勝のソ連戦に見せたシュートは伝説とも言われるワンプレーだった。ミューレンの左サイドからのクロスに走り込み、ダイレクトボレーで自分とは対角のゴールに豪快にたたき込む。しかも、ドライブがかかっていた(ファン・バステンによれば「意図してかけたわけではなかった。ふと見たら、ゴールにボールが入っていたので僕が驚いた」)ため、レフ・ヤシンの後継者と呼ばれた当代屈指の名GKリナト・ダサエフですら防ぐことは不可能であった。

難易度の極めて高いプレーを、後で自分でも驚くほどいとも簡単にやってのける、それが全盛期のファン・バステンだった。

1988年、欧州選手権決勝のソ連戦。54分に左サイドのアーノルド・ミューレンからクロスが上がる。だがこのクロスは失敗のように思われた。周りから見れば、その時点でファン・バステンは中央に折り返すか、ボールをコントロールするかしかなかったからだ。しかしファン・バステンはそのパスを自分とは対角のゴールに叩き込んでしまう。ソ連のGKリナト・ダサエフはボールを取ることはおろか、見ることすら出来なかっただろう。ただ自分の頭の上を通過するボールの唸り声だけが聞こえていた。


■マルコ・ファン・バステンの語録

「9本のスーパーゴールと10本の平凡なゴール、どちらかを選べというなら僕は迷わず10本の方を選ぶよ」との発言からわかるように「どんなゴールだったか?」よりも「ゴールしたか否か?」にこだわっていた。この事を表しているのがゴール後だといえよう。彼はゴールを決めても、チームメイトに祝福された瞬間だけ笑顔をみせ、それ以外は素っ気無い表情でジョグで自陣に戻るというのが常だった。


■マルコ・ファン・バステンの所属チーム

アヤックス(オランダ) 1981-1987
ACミラン(イタリア) 1987-1995


■マルコ・ファン・バステンの代表経歴

1988年 - 欧州選手権優勝


■マルコ・ファン・バステンの個人タイトル

バロンドール (1988年、1989年、1992年) - 3度の受賞は最多タイ
世界年間最優秀選手(ワールドサッカー誌) (1988年、1992年)
ゴールデンブーツ(1986年)
FIFA最優秀選手賞 (1992年)
リーグ得点王(1984年~1987年:エールディヴィジ、1990年&1992年:セリエA)


■マルコ・ファン・バステンの監督歴

オランダ代表 2004-



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フランク・ライカールト(Frank Rijkaard、1962年9月30日-)は、オランダ・アムステルダム出身の元サッカー選手。現在はサッカー指導者としてFCバルセロナ監督を勤める。スリナム系オランダ人。


■フランク・ライカールトの経歴

1980年、17才でプロ選手としてのキャリアをスタート。この頃からすでにヨハン・クライフにその実力を認められていた。現役時代は主に守備的ミッドフィールダーとして、オランダ代表とイタリアセリエA・ACミランの中心選手として活躍。

ルート・フリット、マルコ・ファン・バステンと共に、1980年代末から続いたACミランの黄金期を支えた「オランダトリオ」のひとりである。

1995年に現役引退。1998年オランダ代表監督として現場に復帰。2003年から現在はFCバルセロナの監督。選手掌握術に長け、チームのモチベーションを上げ、選手の不満を無くすのが非常に上手い。2004年-2005年、2005年-2006年シーズンに同チームをリーガ・エスパニョーラ優勝に導き、さらには2005年-2006年シーズンにUEFAチャンピオンズリーグ優勝へと導いた。


■フランク・ライカールトのプレイスタイル

ブラックスワンと呼ばれたオランダトータルフットボール第二世代の申し子。抜群の身体能力と守備センスで敵の攻撃の芽を摘むプレーはボランチの鏡とも言え(ただし、代表では中央のDFとしてもプレー)FWの理想形と呼ばれる同僚ファン・バステンと同じく、サッカーの教科書の教材としてふさわしい存在である。また、長身の割にボールコントロールも正確で、セットプレーからの得点も多かった。彼のような選手が一人いると負け試合でもそれなりに戦える。中盤で我慢するプレーは実にチームメイトからは心強かったと思われる。

高い位置でのボール奪取を得意とし、確実に味方に繋ぐ。空中戦でも頼りになり戦術眼にも優れ、更には得点にも絡む。オールラウンダーとはライカールトのためにある様な言葉だ。


1990年のイタリアW杯、対ドイツ戦において2枚のイエローカードを貰い退場。オランダ敗退の戦犯となってしまった(ドイツのフェラーに人種差別的な暴言を吐かれた事に対し、感情をあらわにした為。後に本人は謝罪した)。

見た目に反して意外にひょうきん者。


■フランク・ライカールトの獲得タイトル

選手として

▽クラブ
欧州カップウィナーズカップ 1回(86-87シーズン)
欧州チャンピオンズカップ 3回(88-89、89-90、94-95シーズン)
トヨタカップ 2回(1989、1990年;1990年大会は大会優秀選手)

▽代表
欧州選手権 優勝(1988年)
※代表キャップ数73、通算10ゴール


監督として

▽クラブ
リーガ・エスパニョーラ 2回(04-05、05-06シーズン)
欧州チャンピオンズカップ 1回(05-06シーズン)


■フランク・ライカールトの所属チーム

1980-88 アヤックス (オランダ)
1987-88 レアル・サラゴサ(スペイン)
1988-93 ACミラン(イタリア)
1993-95 アヤックス


■フランク・ライカールトの監督キャリア

オランダ代表 1998-2000
スパルタ・ロッテルダム 2001-2002
バルセロナ 2003-




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パトリック・ステーフェン・クライファート(Patrick Steven Kluivert、1976年7月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の同国代表、オランダ・エールディビジ・PSVアイントホーフェン所属のサッカー選手(FW)。しばしば、オランダ語読みに近い「クライフェルト」などと表記されることもある。FIFA100に選ばれている。現在オランダ代表歴代最多得点者でもある。

アヤックスの育成組織での才能を見込まれて1994年にトップチームでデビュー。得点能力の高さを発揮して、その年のチャンピオンズリーグ決勝でゴールを挙げ、アヤックスに22年振りの欧州タイトルをもたらすとともに、オランダ代表としてデビュー。活躍を見込まれて1997年にイタリア・セリエAの名門クラブであるACミランへ移籍するが、実力を発揮できず、1年でバルセロナへ移籍。リーガ・エスパニョーラ制覇に貢献する。またEURO2000では得点王を獲得した。 そのプレースタイルは極めて個性的で、テクニカルなプレーを得意としトラップの技術は極めて高い。記憶に残る鮮烈なゴールを多く決める反面、イージーなシュートを外すなど、魅力的なプレーでファンを飽きさせない。「気まぐれの天才」と呼ばれる。長身を生かしたヘディングとポストプレーも得意である。

バルセロナではエースとして活躍していたが、次世代のエースロナウジーニョの加入やライカールト監督の『脱オランダ路線』の方針により、徐々に出場機会が減り2004年から1シーズンはFAプレミアリーグ・ニューカッスル・ユナイテッドでプレー。2005年/2006年シーズンからはバレンシアへ移籍するも、1得点しか挙げられなかった。

2006-2007シーズン開幕前には新加入のモリエンテスに背番号9を奪われ、半ば戦力外通告を受けていたが2006年8月31日、移籍市場が閉じる直前に母国オランダのPSVアイントホーフェンへ加入した。

なお、同じオランダ代表のルート・ファン・ニステルローイとは生年月日が全く同一。クライファートは彼を「理想のセカンドトップ」と評しているが、個人的な仲はかなり悪いといわれる。

また、バルセロナ時代は日本料理店を経営していた。現在は日本のミズノ社と契約している。何かと問題を起こす選手でもある。


■パトリック・クライファートの選手経歴

1994年-1997年 - アヤックス(オランダ)
1997年-1998年途中 - ACミラン(イタリア)
1998年途中-2004年 - FCバルセロナ(スペイン)
2004年-2005年 - ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド)
2005年-2006年 - バレンシアCF(スペイン)
2006年- 現 在 - PSVアイントホーフェン(オランダ)





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デニス・ベルカンプ(Dennis Bergkamp、1969年5月10日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元同国代表サッカー選手(FW)。

華麗かつ絶妙なプレーで知られる稀代の天才プレイヤー。最前線ではなくいわゆる1.5列目に陣取り、ドリブル、ラストパス、シュートのいずれにも秀でた。ロベルト・バッジョにも似たその全能性が、「世界最高のセカンドトップ」とも称される所以である。そのパワーと冷静さによる正確な決定力から「アイスマン」のニックネームを持つ。特に浮き球のボールタッチに関しては天下一品の技術を誇り、後ろから飛んできたボールのトラップはジネディーヌ・ジダン、バッジョに並び世界随一の精度とされる。

FAがプレミアリーグ発足10年を記念して企画したベストゴール特集で2位を獲得したことがある(ニューカッスル戦でブランブルを鮮やかな振り向きトラップでかわして決めたゴール)。


■デニス・ベルカンプのプレースタイル

彼は優れた芸術家であると同時に傑出した科学者でもあった。誰よりもボールの性質を理解し、ソックスとシューズに覆われた崇高な絵筆で球体のあらゆる可能性を示した。


■デニス・ベルカンプの略歴

ヨハン・クライフに才能を見出され1986年、17歳でトップチームにデビュー。アヤックスで1990年から3年連続得点王に輝き、リーグ優勝、UEFAカップ優勝などに貢献。 その後、インテル(セリエA)に移籍したが能力を発揮できず、1995年にアーセナル(FAプレミアリーグ)に移籍しチームの中心として活躍。97~98シーズン、01~02シーズンの二冠等に貢献。1998年フランスワールドカップのアルゼンチン代表戦や01年プレミアリーグのニューカッスル・ユナイテッド戦など伝説的なゴールを数多く挙げ、パトリック・クライファートが2003年に更新するまでオランダ代表の最多得点記録も保持していた。ワールドカップには、1994年アメリカ大会、1998年フランス大会の計12試合に出場し、6得点を記録している。前述の1998年フランスワールドカップ準々決勝アルゼンチン戦の見事なトラップからのゴールは、オランダの新聞によって、同国の歴史的画家レンブラントのタッチに例えられ、「まるでレンブラントの筆さばきのようだ」と評された。05-06シーズン終了をもって引退を表明した。引退試合は、自身がプロデビューを果たしたチームであるアヤックス・アムステルダムとアーセナルの対戦で行われ、オランダの往年の名選手であるヨハン・クライフ、現オランダ代表監督マルコ・ファン・バステン、現FCバルセロナ監督フランク・ライカールト、アーセナルからも、ジョバンニ・ファン・ブロンクホルストや、パトリック・ヴィエラなど、現役の選手だけではなく、数多くのサッカー関係者がこの日のために駆けつけた。惜しくもこの試合ではゴールを決めることはできなかったが、随所で彼らしいイマジネーション溢れるプレイを魅せ、引退の花道を飾った。なお、この試合はアーセナルの新スタジアムの杮落としとして行われた。


■デニス・ベルカンプのエピソード

▽極度の飛行機恐怖症という弱点を持つことでも有名であり、ヨハン・クライフのニックネーム、「Flying Dutchman(空飛ぶオランダ人)」(リヒャルト・ワーグナーの歌劇「Der fliegende Holländer(彷徨えるオランダ人)」に由来する)をもじって「Non-flying Dutchman(飛ばないオランダ人)」とされた異名も持つ。飛行機恐怖症の理由として、「乗っていた飛行機が爆破予告の対象になり、それがトラウマになっている」「機中で同行記者に不安を煽る事を言われた」「自分が乗る予定だった飛行機に乗った友人が亡くなった」等の諸説がある。この為、遠隔地への遠征には陸路でしか参加できない事がチーム監督を悩ませる。アメリカ合衆国で開催された1994年アメリカワールドカップでは船で渡米し、EURO2000後の代表引退の一因はこの飛行機恐怖症であるとも言われている(2002 FIFAワールドカップの開催国であった日本と韓国は陸路・海路での移動が極めて困難な極東の地にあり、飛行機に乗ることが不可避であったのが、こう言われる理由だろう)。ベルカンプを欠いたオランダ代表は2002年ワールドカップ欧州予選で敗退した。ベルカンプの存在の大きさが改めて証明された。

▽デニスというファーストネームは、マンチェスター・ユナイテッドの名FW、デニス・ローにあやかって名づけられた。"n"が一つ多いのは、オランダで"Denis"は女性名と間違われる恐れがあるとの理由で市役所が認可せず、父親が追加したため。

▽インテル所属時代に、当時の主将ジュゼッペ・ベルゴミに「もっとも失望した選手」と言われた事がある。成績面もさることながら、ベルゴミがチームに馴染ませようと何度も食事に誘ったのにも関わらず、ほとんど参加しなかったこともその印象の要因と思われる。

▽インテル在籍2年間は全く活躍できず、獲得時の高額の移籍金を引き合いに「史上最高額のガラクタ」と揶揄されたこともある。インテル移籍失敗の原因として、まず性格面において元来社交的な性格ではないことで知られ、そのためイタリア移籍後もイタリア語をほとんど話せずチームに馴染めなかったこと、また戦術面において当時のインテルの守備的な戦術が、彼がそれまでプレーしてきたアヤックスの超攻撃的な戦術と全く異なったため、彼の特長が発揮できる環境になかったことなどが挙げられる。その後、イングランドのアーセナルに移籍した後の成功は、以上の問題がクリアされたことも大きな要因といえよう。言語に関してはオランダ人である為、元々英語に堪能であり、戦術に関してもアーセナルはインテルより遥かに攻撃的であった。

▽サッカー漫画として、日本だけでなく世界的に有名なキャプテン翼の登場キャラクターであるカルロス・サンターナが得意技としている「サンターナターン」という技を実際の試合中に披露したことがある。


■デニス・ベルカンプの所属クラブ

ビルスクラハト/SNLアムステルダム 1977-86
アヤックス・アムステルダム 1986-93
インテル 1993-95
アーセナル 1995-2006
2006年現役引退


■デニス・ベルカンプの代表歴

代表デビュー:1990年9月26日 イタリア戦
代表キャップ:79試合
得点記録:37得点(歴代2位)
2000年8月10日に代表引退を発表




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クラレンス・クライド・セードルフ(Clarence Seedorf、1976年4月1日 - )は、スリナム出身のオランダ代表、セリエA・ACミラン所属のサッカー選手(MF)。ACミラン日本語公式サイトではシードルフと表記されている。


■セードルフのプレースタイル

身体能力、守備能力が高く、中盤で激しく動いてボールを奪い、すばやく前線の味方の攻撃につなげる。技術的にも高いものを持ち、ドリブルやパス、ミドルシュートを中心にしかけていく積極的な攻撃参加も魅力である。かつてはサイドバックでプレーしたこともある。戦術理解能力も非常に高い。

オランダ代表でプレーする際にはエゴイスティックなプレーが多く、マルコ・ファン・バステン現オランダ代表監督に失格の烙印を押されてしまった。しかし2006年11月15日のイングランドとの親善試合で久しぶりに代表に召集され、試合では背番号"10"を着けて先発出場。快調なプレーとキャプテンシーを見せ、再びマルコ・ファン・バステン監督の信頼を得た。

スキルフルな選手が揃うオランダ代表の中でも、特別に優れたスキルを持った天才プレーヤー。ボールの扱いが非常に巧く、どの世界トップレベルの選手と比べても全く遜色ない。


■セードルフのその他

▽ミラノで人気日本食レストランを経営している。

▽髪型が以前はドレッドだったが、2004年頃にボウズにする。トヨタカップでPKを蹴りたがらない選手がいたと発言し、ミランの選手たちを怒らせた反省の表れでもあった。

▽2005年に自宅に強盗が入り、10万ユーロの被害を受けたが、幸いにも本人、家族ともに無事だった。

▽ACミランでルイ・コスタがチームを離れることになり、その背番号10番を自ら志願して受け継ぐ。

▽所属チーム3つ(アヤックス・レアル・マドリード・ACミラン)でのUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げたのはセードルフだけである。


■セードルフの所属チーム

アヤックス(オランダ) 1992-1995
サンプドリア(イタリア) 1995-1996
レアル・マドリード(スペイン) 1996-1999
インテル(イタリア) 1999-2002
ACミラン(イタリア) 2002-


■セードルフの獲得タイトル

▽アヤックス時代
エールディビジ優勝 2回(1993-1994、1994-1995)
オランダ・カップ 1回(1992-1993)
オランダスーパーカップ 2回(1993年、1994年)
UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(1994-1995)


▽レアル・マドリード時代
リーガエスパニョーラ優勝 1回(1996-1997)
スペインスーパーカップ 1回(1997年)
UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(1997-1998)
トヨタカップ 1回(1998)

▽ACミラン時代
セリエA優勝 1回(2003-2004)
コッパ・イタリア 1回(2002-2003)
UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(2002-2003)
UEFAスーパーカップ 1回(2003年)



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エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツ(Edgar Steven Davids, 1973年3月13日 - )はオランダ代表のサッカー選手。ポジションはMF。身長:169cm、体重:68kg。国籍はオランダであるが生まれは南米のスリナム共和国出身。代表チームメイトでもある、クラレンス・セードルフやジミー・フロイド・ハッセルバインクも同国生まれ。アヤックス・アムステルダムに在籍。

2000年、左目に緑内障を発症し失明の危険もあったが、手術により克服し特殊防護ゴーグルを着用することとなった。そのゴーグルは彼のトレードマークとなっている。(以前はOAKLEY社のwater jacketを使用していた。このモデルは本来、サーフィン用である。)
また日本好きでもあり、剣道の防具を依然欲しがるほどのマニアらしい。
余談であるが、中田英寿のセリエAデビュー(1998-1999シーズン開幕戦後)でユニフォーム交換を行っている。


■エドガー・ダーヴィッツのプレイスタイル

身長、体格には決して恵まれていないが、当たりの強さ・無尽蔵のスタミナを持ち、守備の読みも鋭い。一方で瞬時にセンス溢れる攻撃の起点となるボランチであり、強靱な体から放たれる抑えのきいたミドルシュートも武器。戦術眼もあり、プレーメーカーの役割も得意とする。相手にどこまでも食らいつく守備能力の高さとプレーぶりから「闘犬」の異名を持つ。また、アヤックスのユース時代はFWだったということも生かし、時折みせる前線への飛び出しも相手チームの脅威。シザース等テクニックにも秀でており、世界最高のボランチの一人である。

一方で闘争心が暴走し、警告、退場を受けることもしばしばあり、それがプレー内外でも確執に転じることもある。一時期は「黒人のダービッツは白人の選手にはパスを出さない」といわれる時期もあったり、プライベートでの夜の活躍も有名で、それが自分のリフレッシュと公言しているのは有名。だが彼の試合でのスタミナや活躍ぶりを見れば文句のつけようがないため、彼を使う指揮官の悩みのタネとなる。


■エドガー・ダーヴィッツ

彼は決して自身の近況を周囲に語るようなことはしない。ユーヴェ時代に知り合った女性との間に子供がいるようだが詳細は不明である。また、”キレやすい”ことでも有名。20代の頃はそれがもとで多くのトラブルを起こしたようだが、近年はトットナムの練習でもユースの指導をしたりプロ意識が高いことでも知られる。特にダーヴィッツを蔑ろにするような発言があれば強烈なパンチが飛んでくるという。近頃ではロビー・キーンと乱闘をしたことが記憶に新しい。もっとも、ロビーも”キレやすい”ようなのだが。

また、監督批判を公然と行うこともしばしある。ユーロ96時もヒディングを批判し追放されたり、近頃ではワールドカップメンバーに外れたことに対しファンバステンに対し批判を展開した。


■エドガー・ダーヴィッツのクラブでの実績

アムステルダムにあるオランダの名門サッカークラブ、アヤックスの下部組織、アヤックス・アカデミーを経た後91-92シーズンデビュー。

94-95シーズンにはパトリック・クライファート、ヤリ・リトマネン(元フィンランド代表)等と共に20歳の若さで、UEFAチャンピオンズリーグを制覇する。(このユベントスとの決勝戦でユーベのキャプテン、アントニオ・コンテの大腿部をニープレスし、病院送りとした。)その後トヨタカップにも来日、グレミオをPK戦の末下して世界一の称号も手にする。

その活躍が認められ1996年にはイタリア、セリエAのビッククラブ、ACミランに移籍。入団一年目は15試合に出場。しかし、二年目は開幕直後にペルージャ戦でGKと交錯して骨折してしまう。スキャンダル、チームメイトとの軋轢など(コスタクルタの腐ったリンゴ発言など)、悪童扱い。(道で口論になった男をメリケンをつけた拳で殴りつけ、裁判→賠償金というケースもある。)その後、1997年にミラン首脳陣はシーズン半ばに彼を見放し、同セリエAのユヴェントスに移籍させる。このとき、コスタクルタ等チームメイトは歓喜したという。

名門に加入した彼は、1997-1998年シーズン途中加入ながらスクデッド(当時25回目)に多大な貢献をした。ミラン所属時とはうって変わって、チームメイトの皆が信頼を寄せた。それでも、彼はアウトロー的存在であることに代わり無かった。2000年には薬物使用で出場停止となってしまう。

ユーベとの契約は2001年までの予定であった。しかしながら、2004年6月まで延長となる。この契約更新後、両者の関係は悪化していく。CLでのアーセナル戦において、当時監督のマルチェロ・リッピが彼を休養させる為、クロアチア代表でもあるイゴール・トゥドルを起用すると、この起用策に怒りを露わにした彼は生中継中のカメラにあろう事か「ゲームに出さないなら、チームを俺は離れるだけだ!!」とぶちまけた。これにユーベ首脳陣はダービッツに多額の罰金を科し、関係はますます悪化する。

2002年、ダーヴィッツはローマにもラブコールを送っているなどともささやかれた。ローマは高く彼を評価し、一時は移籍も話に出たがモッジGMはそうはさせず白紙となる。03-04シーズンはブレシアから、若手のガーナ人、ステファン・アッピアーの入団によりポジションを奪われ、プレーするのは重要度の低い試合ばかりとなる。プレミアシップの強豪、チェルシーの大物会長ロマン・アブラモビッチからの多額のオファーもあったが、彼は首を縦に振らなかった。もはや関係は修復不能の泥沼状態であったが、彼はひたすら2004年6月のEURO開催を待った。

一方、当時の代表監督ディック・アドフォカートはアヤックス時代エドガーが共にプレーしたこともある、現在FCバルセロナの監督のフランク・ライカールトにレンタルという名案を提案する。これを首脳陣も快く納得しスペイン、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへと新天地も求めた。こうして2004年1月11日に正式に移籍が発表される。これでダーヴィッツはEUROまでの十分な環境を手に入れた。これは両チームにおいても効果的であったことは過言ではない。1月17日、アスレティック・ビルバオ戦(結果1-1)にデビュー。その後も活躍し、不振に苦しむチームをリーグ2位に押し上げる最大の原動力となった。

その後2004年7月、シーズン終了後に大量補強をにらんだイタリア、セリエAのインテルへ完全移籍、その戦場を移す事となる。しかし、序盤戦はスタメン出場をしたものの、徐々に戦術の関係で出場機会は少なくなり、同ポジションの豊富な選手層もそれに追い討ちをかけた。次第にマンチーニ監督との関係も悪化し、インテルを退団。2005年にイングランドのトットナムに移籍した。入団一年目はトットナムの好成績を後押しする形での貢献をしたが、2年目になると、コートジヴォアール代表で”パスマイスター”の異名を持つゾコラの入団、台頭もあって出場機会が減少、このことによってヨル監督とオランダ語で激しい口論を交わしたのはチームの関係者を驚かせた。そのこともあってか、出場機会を求め、2007年1月に古巣アヤックスへ11年ぶりに復帰した。


■エドガー・ダーヴィッツの代表実績

オランダ代表デビューは1994年4月20日アイルランド戦。

1998年のフランスワールドカップでは6試合に出場、決勝トーナメント一回戦ユーゴ戦では試合終了間際に強烈なミドルシュートを叩き込み勝利に貢献している。

EURO2000にもフランク・ライカールト監督に率いられて全試合に出場しベスト4進出に貢献した。

しかし、ルイス・ファン・ハール監督に率いられた2002年W杯欧州予選ではチームの低迷(クライファート、ファン・ニステルローイの離脱等)からその姿を日本(韓国)に現す事は出来ず。

2004年EURO2004 ポルトガル大会では、予選をチェコにまさかの逆転で決勝トーナメント進出を危ぶまれたものの、怒濤の踏ん張りでチームは決勝トーナメント初戦スウェーデンをPKの末に下し、準決勝、ポルトガル戦まで駒を進めた。結局、マニシェのスーパーミドルが入って破れたものの、オレンジ軍団復活の兆しは見えてきた。その後、迷采配の代表監督ディック・アドフォカートが退任し1990年代の伝説的選手でもあったマルコ・ファン・バステンが代表監督に就任。彼はエドガーを代表キャプテンに指名したが、インテルでの出場機会の激減により、最近では代表の座から遠ざかっている。また、2006年ワールドカップでは、代表候補まで選ばれたが、最後に落選して出場することはなかった。


■エドガー・ダーヴィッツの所属チーム

アヤックス(オランダ) 1991-1996
ACミラン(イタリア) 1996-1997
ユヴェントス(イタリア) 1997-2004
FCバルセロナ(スペイン) 2004
インテル(イタリア) 2004-2005
トッテナム・ホットスパー(イングランド) 2005-2007.1
アヤックス(オランダ) 2007.2-



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アンドリー・シェフチェンコ(アンドリイ・シェウチェンコ、アンドレイ・シェフチェンコ;ウクライナ語:Андрій Миколайович Шевченкоアンドリーイ・ムィコラーヨヴィチュ・シェウチェーンコ、Andriy Shevchenko;ロシア語:Андрей Николаевич Шевченкоアンドリェーイ・ニイコラーイェヴィチュ・シェフチェーンコ、1976年9月29日 -)は、ウクライナの首都キエフ郊外のDvirkivschyna出身のサッカー選手。[1]

ポジションはFW(CF、WG)。


■アンドリー・シェフチェンコの略歴

6歳でウクライナの名門、ディナモ・キエフのサッカースクールに入り、1992年にディナモ・キエフユースに昇格。1994年にトップチームでデビューを果たす。最初のクラブであるディナモ・キエフではチームを5年連続リーグタイトルに導いた。しかし、彼のキャリアの転機となったのは、国内で見せた素晴らしい活躍ではなかった。

彼の名とその才能が世界に知れ渡ったのは1997-98シーズンのUEFAチャンピオンズリーグにおいてである。中でも FCバルセロナをカンプ・ノウで0-4と言う記録的スコアで打ち破った衝撃は相当なものであった。バルセロナの圧倒的優位が報じられる中、当時無名だったシェフチェンコはこの試合でハットトリックを達成。世紀の番狂わせの立役者となった彼は次シーズンのチャンピオンズリーグでも大活躍し、10得点を挙げて1998-99シーズンのCL得点王を獲得。ディナモ・キエフをCLベスト4に押し上げる原動力となった。

ヨーロッパに強烈なインパクトを残したシェフチェンコの才能をビッグクラブが黙って見ているはずもなく、1999-00シーズンからは推定移籍金2600万ユーロでACミランに移籍を果たす。移籍初年度から高い順応性を見せた彼は、鋭い突破力と高い決定力で32試合で24得点を挙げていきなりセリエA得点王を獲得。2002-03シーズンは開幕前に負傷したこともあってか期待された活躍は見られなかったものの、ACミラン在籍時に「不振」と言われるような成績を残したのは僅かこのシーズンのみである。2003-04シーズンには再び24得点を挙げて得点王に輝き完全復活を果たし、ACミランのスクデット獲得に大きく貢献。この年、ポルトガルのデコとブラジルのロナウジーニョを抑えてヨーロッパ年間最優秀選手を受賞した。ウクライナ人でこの名誉を授かったのは、オレグ・ブロヒン(1975年)、イーゴル・ベラノフ(1986年)に次いで3人目である。

2005-06シーズン終了後、更なる高みを目指すためACミランからの退団とFAプレミアリーグへの移籍を表明。5月31日、4500万ユーロ(約63億円)の移籍金、年俸900万ユーロ(約13億円)の4年契約でチェルシーFCへの移籍が発表された。コートジボワール代表FWのディディエ・ドログバと組む2トップは相手チームの脅威となっている。しかし、ここまではプレミアシップの水にまだ慣れておらずゴール数も少なく、期待外れになっている。

当初は粘り強くスタメン起用していたジョゼ・モウリーニョ監督も結果が出せないシェフチェンコに見切りをつけたのか、徐々に彼を起用する時間を短くしている。ついには「プレーよりロンドンでの生活を楽しむ方に興味があるようだ」と皮肉を浴びせるようになり、2007年1月14日のウィガン・アスレティック戦ではベンチ入りのメンバーからも外されてしまった。


■アンドリー・シェフチェンコのエピソード

▽愛称はウクライナの矢(Стріла Україниストリラー・ウクライィーヌィ;同じウクライナのFWであったオレグ・ブロヒンの愛称を受け継いだもの)、シェーヴァ(シェバ)。愛称のシェバはヘブライ語で数字の7を意味する。

▽2004年3月にペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人に選出され、同年度のバロンドールを受賞するなど、ウクライナの英雄的存在。実際に2004年にはウクライナのレオニード・クチマ前大統領から「ウクライナの英雄」として表彰されている。

▽同じく2004年にアメリカ人モデルのクリステン・パツィクとできちゃった結婚。長男はアメリカの元バスケットボール選手マイケル・ジョーダンにちなんでジョーダン君と名付けられた。彼がチェルシーへと移籍したのもこのチームが英語圏だったからという理由もあるようだ。

▽また、2005年6月2日にウクライナ大統領のユシチェンコの非常勤顧問に就任した。因みに2004年大統領選挙では、彼は対立候補であったヤヌコーヴィチの応援CMに出演している。

▽ACミランではデメトリオ・アルベルティーニ、アレッサンドロ・コスタクルタと仲が良かったようだ。


■アンドリー・シェフチェンコのプレイスタイル

フィジカル能力の高さとスピードを生かしての豪快な突破が持ち味。しかしプレーから無骨な印象は受けず、足下の技術の高さにスペースへの嗅覚も兼ね備え、「点獲り屋」として完成されたプレーを実行出来る当代随一のストライカー。ペナルティエリアに侵入してのプレーが相手にとって脅威なのはもちろん、僅かな隙を衝いて放つペナルティエリア外からのミドルシュートも精度が高い。ウクライナ代表ではFKも蹴っている。また、代表では適したプレーヤーが他にいなかったため攻撃的MFを担っていたこともある。

チャンスメイクやポストワークをこなせない訳ではないのだが、優れた得点感覚と積み重ねた輝かしい実績のためか「あらゆる意味でエゴイスティック」と評されがちな選手でもある。そのような声はチェルシーに移籍してからより顕著なものとなり、「チームのことより自分のことしか考えていないのではないか」とコンビを組むディディエ・ドログバに名指しで批判を受けたりもした。


■アンドリー・シェフチェンコの経歴・タイトル

▽クラブ
初出場 1994年10月28日 対シャフタール・ドネツク戦
初得点 1994年12月1日 対ドニプロー・ドニプロペトロフスク戦

▽代表
初出場 1995年3月25日 対クロアチア代表戦
初得点 1996年5月1日 対トルコ代表戦

▽ワールドカップ戦績
初出場 2006年 6月14日 対スペイン代表戦 0-4
初ゴール 2006年 6月18日 対サウジアラビア代表戦 4-0(三点目に決める)

ウクライナリーグ優勝 5回(1995年 - 1999年)
ウクライナカップ優勝 3回(1996年、1998年 - 1999年)
ウクライナリーグ得点王 1回(1999年)
セリエA得点王 2回(2000年、2004年)
UEFAチャンピオンズリーグ優勝 1回(2003年)
UEFAチャンピオンズリーグ得点王 2回(1998年-1999年, 2005年-2006年)
バロンドール(欧州年間最優秀選手)受賞 1回(2004年)


■アンドリー・シェフチェンコの所属チーム

1994年-1999年 - ディナモ・キエフ(ウクライナ)
1999年-2006年 - ACミラン(イタリア)
2006年- 現 在 - チェルシーFC(イングランド)




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デビッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム OBE(David Robert Joseph Beckham OBE, 1975年5月2日 - )は、イギリス(イングランド)のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(主に右サイドハーフ)。レアル・マドリード移籍後はセンターハーフ(ボランチ)でもプレイ、この経験から守備の意識が高まり、華やかな外見や評判からは想像しがたい献身的な働きを見せている。愛称は「貴公子」「Becks」。日本では、「ベッカム様」とも。妻は元スパイス・ガールズのヴィクトリア・ベッカム(ヴィクトリア・アダムス)。2006年には自身が強迫性障害であることをメディアに告白した。

多くの企業とスポンサー契約を交わし、幾多の広告・テレビコマーシャルにも出演。現在はブラジル代表のロナウジーニョに次ぐ、世界第二位のお金持ちサッカー選手である。ロンドン郊外に大邸宅を構えており、「ベッキンガム宮殿」と呼ばれている。

イングランド代表として100試合出場を目標としているが、現在のマクラーレン監督からは代表の構想外であると告げられたため、ドイツW杯以降は代表メンバーから外れている。

2007年1月12日、レアル・マドリードとの契約は延長せずメジャーリーグサッカー(アメリカ合衆国)所属のクラブチーム、ロサンゼルス・ギャラクシーと2007年8月から5年契約を結ぶことを明らかにした。


■デビッド・ベッカムの略歴

▽父の影響から、幼少のころよりイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッド(以下、マンチェスターU)の大ファンであった。しかし祖父はトッテナム・ホットスパーの大ファンだったため、父と祖父を両方喜ばせるため、下半身はトッテナムのショーツ、上半身はマンチェスターUのTシャツを身に着けていた。

▽少年期に憧れていたプレイヤーはブライアン・ロブソン。

▽1986年、11歳でマンチェスターUのサッカースクールに入学。
一時期、トッテナムのユースに所属するも、14歳の誕生日である1989年5月2日にマンチェスターUに加入する。

▽1991年、16歳のときにマンチェスターUと練習生契約。ユースで実績を積み、1993年1月23日にアレックス・ファーガソン監督の希望によりプロ契約。

▽2部のプレストン・ノースエンドにレンタルに出され、1993年4月2日プレミアデビュー。

▽1996年9月1日 イングランド代表デビュー(モルドバ戦)。

▽1997年、エリック・カントナの後を受けマンチェスターUのエースの証、「背番号7」を背負う。

▽1998年、フランスワールドカップに出場。決勝トーナメント1回戦・対アルゼンチン代表戦において、シメオネのタックルで倒された際に報復行為をはたらき一発退場。チームも敗退し、大きな批判を受ける(「10人のライオンとひとりの愚か者」)。後に当時の状況を「多くのチームメイトが僕を白い目で見たが、キャプテンのトニー・アダムスだけはずっと僕のそばに寄り添っていてくれたんだ」と振り返っている。また、イングランド代表のキャプテンに就任した際、「目標はトニー・アダムス」と語っている。

▽98-99シーズンのマンチェスターUの3冠(FAプレミアリーグ、FAカップ、UEFAチャンピオンズリーグ)達成に主力選手として貢献。

▽1999年5月、女性アイドルグループ、スパイス・ガールズのヴィクトリア・アダムズと結婚。

▽2000年11月よりイングランド代表キャプテンを務める。

▽2002年、日韓ワールドカップに出場。直前の親善試合で足の甲を骨折し本調子ではなかったものの、得意のクロスとプレースキックで観客を魅了。チームをベスト8に導いた。地元開催のコモンウェルスゲームズ開会式で難病の少女と共に最終バトンランナーを勤めた。

▽2003年、以前より噂されていたマンチェスターU監督・アレックス・ファーガソンとの確執から、6月にスペインのレアル・マドリードへ電撃移籍。背番号は23。

▽2006年、FIFAワールドカップ ドイツ大会に、イングランド代表キャプテンとして出場を果たす。決勝トーナメントの準々決勝でポルトガル代表に敗れベスト8に終わる。敗退後の会見でサッカーイングランド代表の主将から退くことを発表。

▽同年8月、代表新監督のスティーブ・マクラーレンの下、新体制初のメンバー発表でベッカムは代表メンバーの選考から漏れる。

▽2006-07シーズンはファビオ・カペッロが監督に就任。カペッロの構想から外れベンチを暖める機会が多くなっていた。2007年1月12日、レアル・マドリードとの契約は延長せずメジャーリーグサッカー(アメリカ合衆国)所属のクラブチーム、ロサンゼルス・ギャラクシーと2007年8月から5年契約を結ぶことを明らかにした。ベッカムが手にする収入は5年総額約2億5000万ドル(約300億円)と見られる。

▽上記により、カペッロが「今後、ベッカムを(試合で)使わない」と発言。ベンチ入りも許されずスタンド観戦する日々が続いた。このことから、LAギャラクシー入団が前倒しになる可能性が高まっている。しかしその後、カペッロ監督は1月17日(現地時間)の会見でベッカムの起用の可能性が無くなったわけではないと発言し、ベッカム起用の可能性に含みを持たせていた。

▽ベッカム不在のチームは格下のチームに2連敗し、そのためメディアやファンからカペッロ解任の声も高まりつつあった。そのような状況から、一転して次のレアル・ソシエダ戦で久々に出場機会を与えられた。そして、その試合でそのフリーキックを決め、3連敗を免れた。


■デビッド・ベッカムのプレイスタイル

イングランドが世界に誇るスター選手。 右足で蹴る「inch perfect」と称される正確なクロスボールとロングパスを得意とし、ゴールキーパーが触れることすら出来ないコースにカーブを描いて放たれるロングシュートは、時に「残忍なロングシュート」と形容される。アーリークロスの精度は世界一との評判もある。また、世界屈指のプレースキッカーとしても知られ、「黄金の右足」と呼ばれる右足は正確無比。スタミナも十分にありサイドを何度も往復出来る、守備面でも積極的に相手にプレスしチームに貢献している。

2002年日韓ワールドカップ出場を決定づけたギリシャ戦のフリーキックでのゴールはイングランド代表の歴史に残る名場面である。また運動量も豊富で献身的なプレーも厭わずチームの状況によってはサイドバックでプレーさせられることもあった。

一方、ドリブルや守備が不得手な事から「止まっているボールを右足で蹴らせたら世界一」(ヨハン・クライフ)と揶揄する声もあり、評価は分かれている。


■デビッド・ベッカムのクラブでの活躍

下部組織からの生え抜きであり、ファーガソン監督の眼鏡にかなったこともあり、若くしてアタッカー的役割を任せられた。エースの証である背番号7を背負い、マンチェスターU時代後期はクラブのエース・顔として君臨した。 中盤の右サイドでプレイし正確なクロスを上げチャンスを演出していた。一番得意とするフリーキックやコーナーキックでは独特な姿勢から放たれ急激に曲がるボールは世界屈指。

レアル・マドリードに移籍後は会長の意向を具現化するように、右にベッカム、左にルイス・フィーゴ、中にジダンという並びにしたが、余りにもバランスが悪く守備に負担が掛かるために、フィーゴを右に戻し、ベッカムを1列下がったポジションでプレイさせることになった。これにより彼はロブソンと同じポジションをすることになった。フィードでは貢献したもののピボーテとして機能はしなかった。フィーゴの退団後は中盤の右サイドでプレイし、ルシェンブルゴ監督下では徐々に本来の輝きを取り戻すに至った。しかし、カペッロ監督の構想から外れ、新加入のレジェスとロビーニョにポジションを奪われた。

2007年に入るとカペッロは「シーズン中に移籍を決めた選手は忠誠心がない」としてベッカムを出場させない決断をしていたが、常に練習を懸命に行う彼の姿を見てラウールやグティがカペッロに出場を懇願し、カペッロもレアル・ソシエダ戦にて撤回されたのは上記の通り。


■デビッド・ベッカムの代表での活躍

1996年の代表デビュー以来、代表に定着。1998年のフランスW杯では準々決勝でアルゼンチン戦でシメオネに報復攻撃を加え退場するなど血気盛んなこともあった(「10人のライオンと1人の愚かな若者」という標語をつけられた)。 2000年11月よりイングランド代表主将としてチームを引っ張り、日韓W杯、ドイツW杯をはじめとして多くの国際大会に出場した。アルゼンチン戦のPK、エクアドル戦のFKは素晴らしい場面であるが、欧州選手権では大事なPKをミスしたり、ドイツW杯ではケガで途中交代し敗退の憂き目に遭うと優勝することはおろか決勝進出も叶わなかった。 ドイツW杯の後、会見で「代表主将の座を退く」と会見した。しかし新しく就任したスティーブ・マクラーレンの下、新体制初のメンバー発表でベッカムは代表メンバーの選考から漏れてしまった。本人は代表キャップ100を希求している。


■「ベッカム様」

2002年W杯以降、持ち前の甘いマスクで日本の女性たちから絶大な人気を獲得し、付いたアダ名が「ベッカム様」。
ソフトバンクモバイル(旧・ボーダフォン日本法人)、ペプシ・コーラ、アディダス、東京ビューティーセンター (TBC)、明治製菓、リニューカー、M702iS(NTTドコモ)などのテレビCM出演でもお馴染みとなった。彼が来日する際には空港に多くのファンが殺到し、“ベッカム様フィーバー”を引き起こす。

プレミアシップ発足後、マンチェスターU(プレミアシップ優勝 8回)をはじめ、多くのタイトル獲得に(特に1998年のフランスW杯での失態以降は)貢献した。しかし、チームの勢いが失墜し始めた頃、アレックス・ファーガソンとの確執が露呈し試合でもスタメン出場の機会が減り始めた。ベッカムのプレーからは泥臭さが消え、勝負をしかけることも少なくなっていった。ファーガソンは「昔はあんな奴じゃなかった」と語り、その原因が妻のヴィクトリアにあることをほのめかした。この確執が原因で、03-04シーズンからレアル・マドリードに移籍した。この移籍の直後、マンチェスターUはクリスティアーノ・ロナウドを獲得し、背番号7は彼がつけている。しかし、本人はインタビューにて「僕がイングランドに帰るとしたら、マンチェスター・ユナイテッドにしか行くつもりはないし、親父(ファーガソン)のことは今でも尊敬している」と語っている(ファーガソン自身も「デビッドの心には常にユナイテッドがある。」と語っている)。

なお、マンチェスターU在籍最後の2002-03シーズンはプレミアシップ優勝を果たしており、ベッカム移籍後のマンチェスターUは2002-03以来、FAカップ、リーグカップのタイトルは獲得しているものの、リーグ優勝から離れている。また、現在所属するレアル・マドリードも2002-03のリーグ優勝以来3シーズン連続で無冠に終わっている。

主に右サイドのMFとしてプレーしているが、本人はセンターハーフを好んでいる。これはもちろんロブソンの影響。

その容姿からマーケティング面での貢献が非常に高く、レアル・マドリードは彼を獲得するために用意した約46億円ともいわれる移籍金を、彼のユニフォームの売上代金のみで取り戻し、さらに利益を得たとも言われる。一方、チームは彼が加入して以来、優勝から遠ざかっているため、ファンからは「彼がレアルにした貢献はユニフォームの売り上げを伸ばしたことだけだ」と皮肉られている。

鳴り物入りでレアル・マドリードに加入したが、いまだに優勝を経験していない。攻撃的なスター選手の多いチームにおいては、守備的な選手の重要性が問われており、特にベッカム獲得の代償としてクロード・マケレレを放出したことはレアル・マドリードにとって最大の失敗と言われている。それ以降3シーズン守備が安定せず、カマーチョ以後の監督の必須命題になっているがカペッロ・ミヤトビッチ体制になっても変わっていないことから、ベッカム本人の問題の域を超えている。

レアル・マドリードに加入した際、背番号7はラウール・ゴンサレスが既に着用しており、ベッカムの背番号に注目が集まったが、その番号はなんと23番であった。驚きをもって迎えられたが、本人曰く「マイケル・ジョーダンを尊敬していて、それにちなんだ」と話している。


■デビッド・ベッカムの所属チーム

マンチェスター・ユナイテッド 1991 - 1994
プレストン・ノースエンド 1994 - 1995
マンチェスター・ユナイテッド 1995 - 2003
レアル・マドリード 2003 - 2007
ロサンゼルス・ギャラクシー(予定) 2007 -




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マイケル・オーウェン(Michael Owen、1979年12月14日 - )は、イギリス・チェスター出身のサッカー選手(FW)。


■マイケル・オーウェンの経歴

リバプールのユースチームで才能を発揮し、1995年にリバプールとプロ契約を交わす。1997年5月にプロデビューを果たすと、1998年2月にはイングランド代表史上最年少で代表に招集され、5月には初ゴールをマーク。さらに18歳のときフランスW杯に出場しアルゼンチン戦ではセンターサークルあたりからドリブルで独走して、ディフェンダー2人を抜き去り、敵陣を一人で切り裂くという鮮烈なゴールを決め、サッカーファンの度肝を抜き、「ワンダーボーイ」と呼ばれて、世界にその名をとどろかせた。

FAプレミアリーグでは1997-1998、1998-1999の2シーズンで得点王を獲得。2001年にはバロンドールを獲得した。

日本では2003年12月から洋服の青山のCMに出演している。2004年にはリーガ・エスパニョーラ・レアル・マドリードへ移籍したが、ロナウド、ラウールらスーパースターがいるためなかなかスタメンに定着できず、監督に「試合に出してくれ」と直訴したこともある。途中出場で結果も出し続けたがそれでもレギュラーは奪えず、出場機会を求め2005-2006シーズンより故郷であるイングランドに戻り、アラン・シアラーの誘いでニューカッスル・ユナイテッドへ移籍した。

期待されて臨んだ2005/2006年シーズンだったが、職業病とも言える中足骨の骨折により大半を棒に振る。その後、最先端の医学を駆使して治癒させた後、2006年5月8日、自身3度目となるドイツW杯のメンバーに選ばれるも、6月20日に行われたグループリーグ最終戦、対スウェーデン戦の試合開始1分で右ひざの十字靭帯を断裂。全治5ヶ月の怪我を負ってしまい、チームから離脱してしまった。ちなみに試合開始1分での退場はワールドカップ記録である。

イングランド代表得点ランクで歴代第3位(現役第1位)の36得点を誇る。ここ10年間、サッカーの母国のイングランドの絶対的なエースとなっている。近年は慢性的な怪我により十分な活躍をすることが出来ていないが、まだまだこれからもイングランド代表のエースとしてウェイン・ルーニーとともに活躍するだろう。

趣味はゴルフと競馬。競馬好きは相当の熱の入れようで、年間1億円近く負けてるらしい。(本人談)また、日韓大会でも競馬をやっていたほど。2005年6月、幼馴染のルイーズ・ボンサルと結婚した。なお二人の間には、2003年5月に誕生した娘が一人いる。生真面目で物静かな好青年と評されており、デイヴィッド・ベッカムやウェイン・ルーニーとは仲は良いものの好対照である。

オーウェンがレアルマドリーからイングランドのニューカッスル・ユナイテッドに移籍し、2006年12月26日、初めて敵としてアンフィールドに帰還した時、アンフィールドのファンはマイケルに対して愛憎入り混じった感情を胸に秘めていた。事実、試合前の選手紹介では、Booと同じ位の拍手がKopグランドスタンドやメインスタンドからマイケルに送られた。 またオーウェンが試合中に初めてボールを受けた時も、一部のファンから「'Where were you in Istanbul?'=イスタンブールの何処にいたんだ?(CL決勝の地イスタンブールまで進めなかった、チームやそれに所属する選手を皮肉って歌う) 」のチャントが出たものの、それほど感情的なものではなかった。事実いまだにリバプールFCのファンの間でのマイケル・オーウェンの扱いは「Legend=伝説」と「Judas=裏切り者」の評価が五分五分である。

しかし、試合の後半、シャビ・アロンソに対するファウルによって、リー・ボウヤーがレッドカードを受けると、アンフィールドの雰囲気が一変する。 マイケルがボールを受ける度、前述した「'Where were you in Istanbul?' 」はもちろん、「'what a waste of your talent!'=マドリーなんかに行って、試合から干される、なんていう才能の無駄遣い!(皮肉)」や「you've joined the big club!=ビッグクラブ(ニューカッスル)に移籍しておめでとう。(オーウェンはリバプールからマドリーに移籍する際、チャンピオンズリーグに優勝できるビッグクラブに移籍したい、と発言し、アンフィールドのファンを大いに落胆させた。皮肉にもマイケルが移籍した年、リバプールはチャンピオンズリーグで5度目の優勝を遂げる。 しかし1年後には北東部のクラブであるニューカッスルへ戻ってきた。ニューカッスルはチャンピオンズリーグ出場の常連では、もちろんない。そのための皮肉)」

マージーサイドのスカウザー(=Scouseというアクセントを話す英国人。リバプール市内やマージーサイド方面の訛り。キャラガーの訛りが代表的な例。)のマイケル・オーウェンに対する心情は、マイケル以前にもマッカ(マクマナマン)事件や、 (=マッカはボスマン条約によって無料でマドリーに引き抜かれた後、有名な"銀河系軍団"の形成に巻き込まれ、飼い殺しに近い扱いになり、主にベンチを暖めるようになったあげく、怪我もありマドリーを解雇された。) さらにはジェラードまでがマドリーの引き抜きのターゲットになるなど、オーウェン個人以外の要素が複雑に絡みあうため、非常に微妙なものがある。またこのような一連の出来事のためスカウザーにとって「マドリード」とは忌み嫌われる怨念の地の代名詞でもある。

このスカウザー達の複雑な心情がボウヤーのレッドカードによって一気に爆発したため、上記のような容赦ないブーイングがマイケルに浴びせられた。このことに対して、オーウェンと共にリヴァプールアカデミー出身のキャプテン、スティーヴン・ジェラードは『マイケルは今でもリヴァプールのレジェンドでファンは拍手で歓迎するべきだ』とコメントし、また試合後にもジェラードやキャラガーがマイケルに対するブーイングは非常に残念で悲しかったと発言するなど、オーウェンが未だにリヴァプールの現選手(特にアカデミーから一緒の選手)にとって偉大な存在であることが改めて浮き彫りとなった。

が、当のジェラード本人も、この年の夏、CL優勝したのでリバプールに残留すると言ったにも関わらず、土壇場でチェルシーへ移籍しかかり、激怒した1部のファンがアンフィールド(注:しかもシャンクリーの銅像の近辺で、である)でジェラードのユニフォームを燃やすという事件が発生しており、Kopのマイケルに対する激烈な反応をみて、ジェラード自身チェルシーに移籍していたら無事では済まない、という事を再認識したと思われる。

このような一連のオーウェンとジェラードの例もあり、1部のファンにとっては、本当のローカルヒーローはジェラードではなく、ジェイミー・キャラガーとロビー・ファウラーだけだと主張する者も居る。(キャラガーはリバプール以外のチームでプレーする事に全く興味はなく、ファウラーはアカデミー上がりであったがウリエとの確執でシーズン途中なのにリーズに売却された。ちなみにファウラーはリバプールアカデミーに入る前はエヴァートンのファンでイアン・ラッシュの事が大嫌いだったらしい。理由はラッシュがリバプール黄金時代のエースとして点を取りまくり、エヴァートンに5-0で勝ったりと、トフィーのファンにとって”ラッシィー”は目の上のタンコブであった。これはLFCの有名なチャントの一部でもある。=Poor Scouser Tommy.)

ジェラードは今でもオーウェンとイングランド代表だけでなく、リヴァプールでもプレーを行いたいとの発言をし続けており、かなり多くのリヴァプールサポーターもオーウェンの『レッズ復帰』を心から待ち望んでいる。 また、今現在においても、オーウェンのことを「Judas」と呼ぶ一部スカウザー達も、もしマイケルの復帰が実現すれば掌を返すように歓迎する雰囲気は多分にあるだろう。


■マイケル・オーウェンの所属チーム

リバプール(イングランド) 1995-2004
レアル・マドリード(スペイン) 2004-2005
ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド) 2005-




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サー・ボビー・チャールトン CBE(Sir Robert "Bobby" Charlton CBE、1937年10月11日 - )は、イギリス・ノーサンバーランド州アシントン出身の元イングランド代表サッカー選手(FW、MF)。


■ボビー・チャールトンの来歴・人物

イングランド史上最高のフットボーラーの一人。叔父はニューカッスル・ユナイテッドの伝説的選手、ジャッキー・ミルバーンの兄弟。すなわちボビーはミルバーンの甥であり、フットボーラーとして最高の環境に生まれたと言える。ただし、彼にフットボールの手ほどきをしたのは叔父ではなく、母親だったのは有名な話。叔父の名を受け継いだ兄のジャッキー・チャールトンもワールドカップ優勝メンバーである。

1954年17歳でマンチェスター・ユナイテッドに入団。当初は控えが続いていたが、1956年にレギュラーに定着、中心選手となり、1956-57シーズンにはリーグ優勝を経験した。しかし1958年2月6日、チャンピオンズカップの準々決勝、レッドスター・ベオグラード戦からの帰路、『ミュンヘンの悲劇』と呼ばれる飛行機事故に遭い、彼が最も尊敬する選手だったダンカン・エドワーズを含む多くの仲間を失ってしまう。奇跡的に大きな怪我なく命をとりとめたボビーだったが、この年のワールドカップには帯同するも、精神的なショックもあり全くボールを蹴ることが出来なかったという。

しかしその後、不屈の精神でチームの建て直しに貢献する。1960年代には若手のジョージ・ベスト、デニス・ロー等と共に一時代を築き、1963年にはFAカップを、1965年と1967年にはリーグを制するなど、黄金時代を築き上げる。個人としても1966年に欧州最優秀選手であるバロンドールを受賞。そして悲劇から10年後の1968年、チャンピオンズカップ決勝でベンフィカを下し、悲願の、そしてイングランドのチームとして初めての欧州タイトルを手にした。

イングランド代表デビューは1958年4月19日スコットランド戦。デビュー戦でもゴールを挙げている。しかし、代表の3試合目が不運なことに悲劇を思い起こさせるベオグラードでのユーゴスラビア戦だった。この試合でボビーは著しく精彩を欠き、その年のワールドカップまで精神的なダメージを引きずることになるのである。

1962年のチリにおけるワールドカップでは中心選手として活躍するも、準々決勝でブラジルに敗れる。

しかし1966年、自国開催のイングランドワールドカップで母国初の優勝に貢献する。1970年のメキシコ大会にも出場した。通算3度のワールドカップに出場し14試合出場4得点。

名実ともにイングランドを代表したフットボール選手として、1994年にはナイトの称号『サー』を授かる。代表試合成績は106試合で、49得点をあげた。

テクニックとパワーを兼ね備えた選手であり、特に左足から放たれる強烈なシュートは『キャノンシュート』と呼ばれた。またキャプテンとして冷静沈着なプレーぶりは模範的なものだったが、私生活でも常によき夫、よき2人の娘の父であり続けた。それがゆえに人望もあったが、正反対の奔放な生活を続け後に「世界最初のフットボール・スター」と呼ばれたマンチェスター・ユナイテッドの後輩ジョージ・ベストの人気を際立たせる結果にもなった(2人の仲が悪かったわけではない)。しかしもちろん、ボビーが冷淡な人間だというわけではなく、死線を生き抜いてきた男だからこその人間性だったのだろう。チャンピオンズカップの決勝に勝ち、10年越しの忘れ物を取り返したその日、祝勝会をボビーは欠席し、自室で一人涙にくれながら妻のノーマに「関係のないメディアの連中と馬鹿騒ぎをするのには耐えられないんだ。この勝利は僕たち(ミュンヘンの悲劇に遭った人たち全員を含む)の物だ」と言った。


■ボビー・チャールトンの選手経歴

マンチェスター・ユナイテッド 1954 - 1973
プレストン・ノースエンド 1974 - 1975




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ゴードン・バンクス(Gordon Banks、1937年12月30日 - )は、イギリス(イングランド)・シェフィールド出身のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。元イングランド代表。


■ゴードン・バンクスのプレースタイル

生まれながらの恵まれた体格、驚異的な身体能力と判断力を兼ね備え、安定したプレーからイングランド史上最高のゴールキーパーと称される。その鉄壁のセービングと名前から、強固な金庫を蔵するイングランド銀行になぞらえ「Banks of England」の異名を持つ。


■ゴードン・バンクスの略歴

1956年、チェスターフィールドに加入した翌年のこと、チームはFAユースカップの決勝に進出するが、ボビー・チャールトン率いるマンチェスター・ユナイテッドの前に惜しくも敗れてしまった。

1964年、レスター・シティに所属していた頃、イングランド・リーグカップ優勝を果たす。

1972年10月22日、自動車事故により右目を失明。引退を余儀無くされる。

1975年、アメリカで再起を図るが、怪我をする以前の輝きを取り戻せることはなく、1977年にそのキャリアを終えた。

2004年 3月にFIFAが100周年を迎えるにあたって、元ブラジル代表・ペレが選出したFIFA 100(偉大なサッカー選手125人)に選出される。


■ゴードン・バンクスのイングランド代表歴

1963年の4月6日にスコットランド戦にて代表デビュー。

1966年のイングランドW杯では、予選リーグから準々決勝のアルゼンチン戦まで無失点に抑える活躍で代表の勝利に貢献。続く準決勝のポルトガル戦後半37分にエウゼビオがその牙城を崩すまで無失点記録(443分)は続いた。同大会を通じて失点は僅かに3点。母国開催での優勝に大きく貢献した。

1970年のメキシコW杯では、チームはベスト8に止まるも、バンクスはサッカー史上に残るプレーを披露している。1次リーグのブラジル戦、序盤から攻勢に出たブラジルだったが、絶好調のバンクスは悉くゴールを阻止する。前半18分、センタリングが上がった際、ニアサイドを警戒していたバンクスの裏をかき、ペレが逆サイドに走り込んできた。ペレがフリーで無人のゴールにヘディングシュートを叩き込んだかに思えたその刹那、バンクスは驚異的な跳躍によりゴール寸前でボールを掻き出して見せた。のちにペレはこのプレーを「私が今まで見た中で最高のセーブ」と称している。



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ジョセフ・ケビン・キーガン OBE(Joseph Kevin Keegan OBE、1951年2月14日 - )は、イングランド・ドンカスター出身のサッカー選手(FW)。

小柄ながら豊富なスタミナでフィールドを駆け回り『マイティ・マウス』と呼ばれた。

1968年スカンソープ・ユナイテッドでプロデビュー。3シーズンを過ごした後、1971年にリヴァプールへ移籍。1976-77年にはチャンピオンズカップ決勝でアラン・シモンセン擁するボルシアMGを3-1で破り初優勝を飾る。1978-79年と2年連続でバロンドール(欧州最優秀選手)を受賞した。

監督としても、イングランド代表を率いてEURO2000で指揮をとった。

2004年3月にペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』に選出された。 指導者としてはニューカッスルユナイテッド、フルアム、マンチェスターシティ、イングランド代表と指揮するが 結果を残せていない。戦術家というよりは、選手のモチベーションを上げる事が上手い指導者である。


■ケビン・キーガンのタイトル

▽クラブ
リーグ優勝:3回
1972-73年/1975-76年/1976-77年

FAカップ:1回
1973-74年

ドイツ・ブンデスリーガ優勝:1回
1978-79年

ドイツカップ:1回
1978-79年

UEFAチャンピオンズカップ:1回
1976-77年

UEFAカップ:2回
1972-73年/1975-76年

▽個人
リーグ得点王:1回
1981-82年(26得点)

バロンドール:2回
1978年/1979年


■ケビン・キーガンの代表

代表デビュー:1971年11月15日 vs ウェールズ戦
通算:63試合 21得点

▽ワールドカップ
1982年スペインW杯
1試合 無得点


■ケビン・キーガンの経歴

▽選手
スカンソープ・ユナイテッド 1968 - 1971
リバプール 1971 - 1977
ハンブルガーSV 1977 - 1980
サウサンプトン 1980 - 1982
ニューカッスル・ユナイテッド 1982 - 1984

その他、1985年にプレシーズンマッチ特別出演という形で全日空サッカークラブ(=後の横浜フリューゲルス)に参戦した。

▽監督
ニューカッスル・ユナイテッド 1992.2 - 1997.2
フルハム 1998 - 1999
イングランド代表 1999 - 2000
マンチェスター・シティ 2001 - 2005.3



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ゲーリー・リネカー(Gary Winston Lineker、1960年11月30日 - )は、イングランド・レスター出身の元イングランド代表サッカー選手(FW)。ガリー・リネカー、ギャリー・リネカーと表記されることも多い。

青果商の息子として生まれ、1974年に地元のクラブチーム・レスター・シティに入団。1984年5月26日のスコットランド戦にてイングランド代表チームに初招集される。1986年のメキシコW杯では直前に手首を怪我しギプスをつけた状態で出場、一次リーグ最終戦のポーランド戦で前半だけでハットトリックを達成するなど6得点を挙げて得点王に輝き、1990年のイタリアW杯でも4得点を挙げ、その大会以降はブライアン・ロブソンの後を継ぎ主将をつとめた。

イングランド代表通算歴代2位の48得点で迎えた1992年5月17日に行われたブラジルとの親善試合では自ら得たPKを外してしまい、歴代1位のボビー・チャールトンの代表49得点に並ぶ事が出来ず。直後に行われた欧州選手権でも得点を記録出来ないままにイングランド代表から身を引いた。イングランドA代表通算80キャップ48得点。ワールドカップ通算12試合出場10得点。現役通算333得点。

1984-85シーズンはレスター・シティで24得点、1985-86シーズンはエバートンで30得点、1989-90シーズンはトッテナムで24得点と得点王を3度獲得。全て異なるチームであった。

1993年のJリーグ開幕時に名古屋グランパスエイトに移籍。当時のJリーグ最高年俸(3億円)だった(リーグ戦通算18試合出場4得点)。2年目の1994年シーズン終了後に怪我を理由に現役を引退した。後に、2006 FIFAワールドカップでイングランド代表の主将であったベッカムが、翌年アメリカのクラブチームに移籍する際に、自身の日本でのキャリアになぞらえて、「それは半引退に等しいね。僕もキャリアの最後には日本に行って同じようなことをした。日本人にサッカーを広めて金を稼ぐことは面白い経験だった。」と発言している。

13年間の現役生活で一度もレッドカードどころかイエローカードすらも貰ったことが無く、1991年には「FIFAフェアプレー賞」を受賞している。

現在はイギリス・BBCのサッカー番組「Match of the Day (en:Wikipedia)」(1964年から続くサッカーのニュース番組)の司会を務める他、新聞などのコメンテーターとして活躍中。洒脱な語り口と紳士的な人柄から同国民に大変人気があるが、労働者階級の一部からは違和感を指摘されることもある。

2002年には古巣レスター・シティが経営破綻した際には、私財を提供し救い、翌2003年にはイングランドサッカー栄誉の殿堂 (English Football Hall of Fame)入りを果たした。


■ゲーリー・リネカーの選手経歴

レスター・シティ(イングランド) 1974-1985 
エヴァートンFC(イングランド) 1985-1986
バルセロナ(スペイン) 1986-1989
トッテナム・ホットスパー(イングランド) 1989-1992 
名古屋グランパスエイト(日本) 1993-1994



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アラン・シアラー(Alan Shearer、1970年8月13日 - )は、イギリス(イングランド)・ニューカッスル出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。2006年引退。

1990年代のイングランドを代表するエースストライカー。イングランド代表チームではキャプテンも務めた。


■アラン・シアラーのプレースタイル
 
マークしてくるDFの裏を取ったり、マークを外すのが非常にうまい。 技術はそれほどでもないが、ポジショニングの巧みさ、両足から放たれる超強烈なシュート力、パワー、スピードを持ち、そして鋼の精神を持つイングランドの古き良きセンターフォワードのスタイルを受け継いでいるストライカー。プレーとしては、「華麗」よりも「泥臭い」タイプ。


■アラン・シアラーの経歴

サウサンプトンFCのユースチームを経て、1987年にトップチームに昇格。デビュー戦となったアーセナル戦でいきなりハットトリックを達成する活躍を見せた。以降、ゲーリー・リネカー引退後のエースストライカーとしてファンの期待を集め、イングランド代表にも招集。1992年2月19日のフランス戦で代表デビューを果たす。同年プレミアリーグに昇格したばかりのブラックバーン・ローヴァーズへ移籍すると、1994-95シーズンにクラブを優勝に導くとともに自身も得点王に輝き、このシーズンでリーグ通算100ゴールを達成した。

その後活躍が認められ、ビッグクラブからのオファーが相次いだ(マンチェスターには家まで買っていたという)が、故郷であるニューカッスル・ユナイテッドでプレーすることを決意。自らが尊敬する元代表フォワード、ケビン・キーガンが監督を務めていたことも後押しとなった。ニューカッスル移籍後も順調に活躍し、3年連続プレミアリーグ得点王の快挙を達成した。1996年に地元開催となったEURO1996では、チームはベスト4に終わったものの得点王に輝いている。

キャリアの中で度重なる故障に見舞われたが、1998年のフランスW杯ではキャプテンを務め、チームの柱として活躍。2000年、EURO2000を最後に代表を引退したが、長らく代表復帰を望む声が根強かった。

2002年、プレミアリーグ創設10周年を記念して国内最優秀選手に選出。また2004年には、国際サッカー連盟(FIFA)創設100周年記念式典でペレが選出した、“偉大なサッカー選手100人” 「FIFA 100」のひとりに選ばれている。

2004-05シーズンでの引退を一度は発表していたが、ファンの強い要望からこれを撤回しもう1シーズンプレーすることを決意。2005-06シーズンはマイケル・オーウェンの加入により、新旧イングランド代表フォワードの2トップを形成した。2006年2月6日のポーツマスFC戦で、ニューカッスルの往年の名選手、ジャッキー・ミルバーンの持つ同チームでの通算200ゴールの記録を更新(但しミルバーンの記録は第二次大戦中のものが加算されていない)。同年5月11日、本拠地セント・ジェームズ・パークで引退試合が盛大に開催され、多くのファンが愛するストライカーとの別れを惜しんだ。 06年には「ゴール」で映画出演

クラブチームで通算651試合出場、283得点。イングランド代表では通算63試合出場、30得点。


■アラン・シアラーの選手経歴

サウサンプトンFC(イングランド) 1987年 - 1992年
ブラックバーン・ローヴァーズ(イングランド) 1992年 - 1996年
ニューカッスル・ユナイテッド(イングランド) 1996年 - 2006年


■アラン・シアラーの経歴・タイトル

プレミアリーグ得点王 3回 (1994年/1995年 - 1996年/1997年、3シーズン連続受賞)
EURO1996得点王 (1996年)
プレミアリーグ優勝 1回 (ブラックバーン、1994年/1995年)



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ロベルト・バッジョ(Roberto Baggio 1967年2月18日 - )(バッジオ/バッジォと表記することもある)は、イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。「イタリアの至宝」と称され、現役を退いた今も世界中に多くのファンをもつ。華麗なプレースタイルはアレッサンドロ・デル・ピエロやフランチェスコ・トッティらが、その系譜となる。今ほどCSやBSが普及していなかった頃からでさえ、彼の名は日本で知られていた(それとは別だが親日家である)。イタリアの女性が求める「力強さと美しさ」を併せ持つ稀な存在。

趣味はハンティング。通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。03-04シーズンで現役引退。セリエA通算205ゴールは歴代5位。使用スパイクはデビューから引退までディアドラ(1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用)。


■ロベルト・バッジョのプレイスタイル

一言でいえばファンタジスタ。重心の低いドリブルはスピードとテクニックを兼ね揃えディフェンダーは彼の間合いになる前にボールを奪う必要がある。シュートはコースをついたテクニカルさを持ち味とし、キーパーのキャッチしづらいコースを狙う。この点では、シュートとは「スピード」でなく「コントロール」が重要である、ということの証明であり現役選手のよき見本であろう。プレースキッカーとしても一流で、FKは非常に精度が高く、元ブラジル代表のジーコに「バッジョのFKは素晴らしい、もし同じ時代にプレーしていたなら習っていただろう」と言わしめた。 ここ一番の無類の勝負強さを持ち合わせており、代表、クラブのいずれでも発揮された。晩年は、さすがに多少スピードは衰えたが絶妙なボールコントロールと見事な動きで得点感覚も衰えることはなく03-04シーズンには、パサーやゲームメーカーとして、生粋のストライカーではないにも関わらず、セリエA史上5人目となる通算200得点も達成した。


■ロベルト・バッジョの信仰その他

カトリック信者の多いイタリアにおいては珍しい熱心な仏教徒(創価学会インターナショナル会員)であるが、これは若手時代に膝の怪我で苦しんでいた頃に信心し始めたもの。漢字で「必勝」と書かれたキャプテンマークを巻くこともあった(これは創価学会員から特別にプレゼントされたもので、以後バッジョはそのキャプテンマーク、後にそのキャプテンマークから必勝の文字が消えても、創価学会旗の柄である黄・赤・青の3色ボーダー柄を好んで使った。なお、この三色ボーダーはチームが用意したのではなく、バッジョが自ら持参している。バッジョはこのキャプテンマークを使用前、プラダのスカーフをキャプテンマークとして使用していたりした)。また彼の自伝に、創価学会名誉会長兼創価学会インターナショナル会長の池田大作氏が、端書を寄せている。


■ロベルト・バッジョのクラブチーム

1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビューした。1984-85シーズンに12得点を記録し、1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。ところがフィオレンティーナ移籍後に右膝十字靭帯断裂の怪我を負い、移籍後の1985-86シーズンは未出場(コッパ=イタリアでの試合には出場)、1986-87シーズンも数試合の出場にとどまってしまう。だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点(ヴィオラはUEFAカップ出場)、1989-1990シーズンには17得点という活躍をした。

1990年には、当時史上最高の移籍金、150億リラで鳴り物入りでユヴェントスに移籍。1992-93シーズンにはバッジョは21得点を挙げ、チームはUEFAカップを優勝して久々のヨーロッパタイトルを獲得、この功績が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを獲得した。

その後、若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭、若返りを進めるチームはライバルチームであるACミランへ1995年に放出。ACミランではファビオ・カペッロ(およびアリゴ・サッキ)監督が(ポジションが重なるためとはいえ)FWにはデヤン・サヴィチェヴィッチを重用し、さらにバッジョ本人の怪我もあって、在籍2シーズンを通じてインパクトのある活躍はできなかった。

しかし、ワールドカップシーズン直前の1997-98にボローニャに移籍すると、カルロ・マッツォーネ監督の庇護の下、自己ベストの22得点をマークして結果を残す。このためイタリア代表監督チェーザレ・マルディーニ(当時)は、バッジョの召集を見送ることができなくなってしまった。

1998年から、 インテルで2シーズン過ごす。しかしここでも怪我と(特にマルチェロ・リッピ)監督との確執によって再び出場機会が減少してしまう。

このインテル時代のハイライトは、2000年5月23日のパルマ戦(CL出場権プレーオフ)であろう。このシーズンは、スクデット争いにさえも参加できない低調で無様なシーズンであった。そのため、クラブ首脳陣はせめてCL出場権を獲得しなければ、監督更迭をも視野に入れていた。この試合は、まさにバッジョのためのゲームだった。前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪う活躍を見せ、ガゼッタ・デロ・スポルト誌での評価点“10”を獲得(通常、最高評価点で有る10が出ることは滅多に無く、引退する選手へのご褒美もしくは生命を救った選手に与えられる)。この試合でバッジョは退団、有終の美を飾り、CL出場権を獲得したリッピは監督続投決定、というなんとも皮肉な結果に終わる。

2000年から、 ブレシアで4シーズンを過ごし、再び信頼するカルロ・マッツォーネ監督の下でいぶし銀の活躍を見せる。2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦(2-4で敗戦)を最後に引退した。この試合で83分にバッジョの途中交代(コルッチが出場)を告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の引退後も、新しいレプリカユニフォームにNo,10/BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。

独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった(監督の立場としては、怪我が多く常時戦力と期待できない面もあった)。しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスは何処でもまばゆい輝きを放ち続けた。


■ロベルト・バッジョのイタリア代表・W杯

1988年11月16日 オランダ戦でイタリア代表デビュー。'89年4月22日ウルグアイ戦でアズーリ初ゴール。1990年イタリア、1994年アメリカ、1998年フランスワールドカップに出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーをつとめている。

1990年の地元開催では、司令塔にジュセッペ・ジャンニーニがいたためスーパーサブ的立場であったが、グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去り鮮烈なゴールを決めた。これはしかし、バッジョ自身のハイライトのひとつとして考えられようが、同じくサブメンバーから大会得点王になったサルバトーレ・スキラッチほどは注目されなかった。とはいえこの得点は、大会のベストゴールのひとつと数えられ、バッジョはイタリア代表の新たな旗手として世界に名を知られることになった。彼がスタメンから外れた準決勝ではイタリアはアルゼンチンに1-1の後PK戦で破れ、バッジオを先発させなかったビチーニ監督に非難が集中した。フル出場した三位決定戦のイングランド戦では先制点を記録し、決勝点となるPKを誘い(蹴ったのは大会得点王のかかったスキラッチ)、幻に終わった試合終了間際のゴールの基点となるなど、存分に持ち味を発揮した。

3大会中、最も存在感を示したのは1994年のアメリカワールドカップである。ヨーロッパ予選ではイタリアの10番、まさにエースと呼ぶにふさわしい活躍で、さらには前年の1993年にバロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。ところが大会直前に右足に怪我を負ってしまう。一抹の不安を抱えたまま、1994年ワールドカップを迎えた。

不安は現実となり、予選グループ初戦を落としたイタリアは、1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメント進出という低調にあえいだ(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。気温40度を超すピッチで「ゾーンプレス」戦術が機能しにくかったことが苦戦の原因だが、無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。さらに屈辱的だったのは、第2戦ノルウェー戦でペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際、アリゴ・サッキ監督が控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョをベンチに下げたこと(このとき、バッジョはサッキに対して「狂っている」と漏らしたといわれる)である。試合後に監督は「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明したが、エースと監督の信頼関係は微妙なものになっていった。

しかし、チーム内は徐々に意識統一が明確となり、サッキは1人の力に依存する方法に否定的ではあったが、選手達にはバッジョを中心とした攻撃態勢が整いつつあった。 決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦も先制を許し、しかも反撃の切り札で投入したゾラが退場処分となり1点を追い掛ける苦しい展開になった。しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが劇的な同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めてエースの真価を証明した。同点弾は冷静にコースを狙ったバッジョらしいシュートで、地元新聞は「アズーリを帰りの飛行機のタラップから引きずり下ろした」と見出しを打って賞賛した。

その後も、眠りから醒めたようにバッジョはゴールを量産した。準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから決勝点をあげて、2-1で勝利。準決勝のブルガリア戦でも続けざまに芸術的な2得点を挙げて2-1と勝利した。決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。しかし、準決勝で右足を再び痛め、決勝への出場が危ぶまれた。

決勝のブラジル戦はバッジョとロマーリオのエースFW対決(大会得点王争い)が見所のひとつであったが、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。ブラジルがリードを保ったまま最終キッカーであるバッジョの番となるが、激しい疲労のためゴール上に打ち上げてしまい、イタリアは優勝を逃した。このとき撮影された、呆然とするバッジョの後姿の写真はあまりにも有名である。大会MVPはロマーリオに譲ったが、バッジョは悲劇の英雄としてサッカーファンの胸に感動を刻んだ。しかし、後にサッキ監督がバッジョのスタメン志願を「チームに不利益を招いた」と非難し、しばらく代表から遠ざかる結果となった。

1998年フランスワールドカップではデル・ピエロに10番を譲ったが、負傷開けの後輩に代わり要所でベテランらしい仕事ぶりを見せ、2得点1アシストをマークした。初戦チリ戦では因縁のPKを決めてトラウマを払拭。準々決勝のフランス戦も途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つ。難しい体勢からながらも全盛期のバッジョを彷彿とさせる一瞬であったが、イタリアにとっては惜しくも(そしてフランスにとっては胸をなでおろす)ボールはクロスバーを越えていった。結局、イタリアは3大会連続PK戦敗退という失望を味わうが、今回最後に失敗したルイジ・ディ・ビアージョを優しく慰めるバッジョの姿が印象的であった。

この後も現役を続けたが、1999年以降は代表からは遠ざかる。現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。 尚、ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴール数は56試合27ゴール。そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話を持つ。


■ロベルト・バッジョの所属チーム

ヴィチェンツァ(イタリア) 1979-1985
フィオレンティーナ(イタリア) 1986-1990
ユヴェントス(イタリア) 1990-1995
ACミラン(イタリア) 1995-1997
ボローニャFC(イタリア) 1997-1998
インテル(イタリア) 1998-2000
ブレシア(イタリア)2000-2004



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フランチェスコ・トッティ(Francesco Totti、1976年9月27日 - )は、イタリア出身のサッカー選手。ポジションは攻撃的MF、FW。


■フランチェスコ・トッティのプレースタイル

高いテクニックとパスセンスを持っているが、同時に強靭なフィジカルも併せ持ち強烈なミドルシュートやダイレクトボレーシュート、ヘディングも得意とする穴が少ない選手。十八番はダイレクトパスやヒールパス、チップキックで中でもチップキックはサッカー欧州選手権2000の準決勝オランダとのPK戦で決めて(PKではパネンカと言う)以来強いこだわりを持っており、自らクッキアイオ(イタリア語でスプーンの意。ループシュート)と名づけるほどの入れ込みようである。日本ではそのままクッキアイオ、またはスプーンキックと訳されることがある。また、自伝のタイトルにもしている。


■フランチェスコ・トッティ

イタリアのクラブチーム、ASローマとイタリア代表の司令塔。1992年シーズンにわずか16歳でローマのトップチームでデビューし、1995年にはレギュラーを確保。甘いマスクで、生粋のローマ育ちのロマニスタであることから、ファンからはジュセッペ・ジャンニーニに次ぐ「ローマの王子様(イル・プリンチペ)」と呼ばれ特別な存在となっている。20歳代前半にしてキャプテンとなりチームを牽引。当初はFWだったが司令塔にコンバートされてから才能が開花し、シュートを積極的に打つなど得点意識が非常に高い一方で、柔らかいタッチのパスを出せるようになり、万能型の世界的な選手へと成長した。セカンドトップもこなす事ができるが、現在の所は司令塔での起用が多くそれに見合った活躍を披露している。2006-2007シーズンではワントップ気味で起用されているがそこでもポストプレーを初めとする多くの役割を難なくこなしている。

クラブではもちろんのこと、イタリア代表でも背番号10番を背負う。そしてこのナンバーに強いこだわりをもっており、2002年ワールドカップではデル・ピエロに掛け合って背番号を譲ってもらうなどプライドが高い。イタリア代表でも高いパフォーマンスを発揮する一方で、チームが際立った結果を残せないため、ロベルト・バッジョを始めとするイタリア歴代の英雄と比べて並び称されないもどかしさも持っている。2002年ワールドカップの韓国戦ではシミュレーションをとられ退場(後にFIFAが誤審を認める)、EURO2004では、予選リーグ、デンマーク戦で相手選手の顔面に唾を吐いたシーンが映像に残ったため3試合出場停止処分を受け、それぞれイタリア敗退の原因を作った。

2006年は2月前半、好調のトッティは9連勝というクラブ新記録達成に貢献。しかし、10連勝をかけたエンボリ戦において、開始まもなくバックチャージをうけ転倒し、足に骨折、靭帯損傷と大怪我を負う。手術は上手くいったとはいえ、イタリア国民、そしてリッピ率いる代表もトッティのWカップ出場は不可能だろうと考えていた。しかしトッティはリハビリを続け、脅威の回復力を見せた。そして、セリエAの最終節のACミラン戦でピッチに復帰。みごとWカップ代表に選ばれ、オーストラリア戦では決勝のPK(後にFIFAが誤審を認め、ブラッター会長はオーストラリアに謝罪)を決め、本調子でないもののイタリアの優勝に貢献した。


■フランチェスコ・トッティの性格

ユーロ2004のデンマーク戦においてクリスティアン・ポウルセンの執拗なマークに怒り、唾を吐くなど精神的な脆さが以前のトッティには見受けられた。しかし2005年に結婚し息子も生まれたことにより、精神的な強さを見せるようになってきている。普段は控えめな好青年とされている。

また、アントニオ・カッサーノが入団したときは、トッティは自ら兄貴分をかって出た。二人の息のあったコンビネーション・プレーはファンの間でも人気が高く、そこにヴィンツェンツォ・モンテッラを加えた3トップは当時のセリエAにおいて屈指の攻撃布陣を形成するに至った。しかし、カッサーノの問題児ぶりは解消されず、トッティに対しても傲慢さを見せるようになり、2005年の秋にトッティは兄貴役を解消した。その後もカッサーノは説得を試みるものの、翌年、カッサーノはレアル・マドリードに移籍してしまった。それでも、親交は保っているとされる。

しかし一方では非常にお茶目な性格であり、このような二面性からファンも多い。

▽いまや十八番のチップキックによるPKはEURO2000準決勝のPK戦において"ウイニングイレブン"の技を真似て実践、成功したことに端を発する。チームメイトには「二度とやるな」と怒られたらしいが、2006年ワールドカップのオーストラリア戦でロスタイムに奪ったPKを蹴る際も一瞬だけだがやろうかと思った、と述べている。

▽漫画「キャプテン翼」の大ファンで、登場人物の日向小次郎の放つ雷獣シュートを実際に練習し、骨折したという噂も囁かれている。(このことに対しては、真相はわからない)


■フランチェスコ・トッティ その他

▽EURO2004の合宿中、足の付け根を痛めその原因を当時契約していたナイキのスパイクであると発言。これに対して、ナイキはスパイクではなくイタリア代表のスポンサーであるプーマのソックスが原因と抗議し、大会終了後にナイキ側から契約を破棄された。その後トッティはディアドラと契約している。

▽私生活では長年交際していたタレントのイラリー・ブラージと2005年6月18日に結婚。2005年11月6日に第一子となる長男、クリスティアン(Cristian)が誕生した。

▽(日本の)一部のサッカー専門誌が、トッティの結婚、子供の誕生等のプライベートの充実と選手としての成熟を評して「ローマの王子様、イタリアの王様へ」と題したことがあるが、ローマの王子様のイメージが強かったため定着しなかった。

▽好きな食べ物はきゅうり。

▽トッティは漫画Roma君の登場人物である。

▽2006年ワールドカップでは自慢の長髪をばっさりとカットし、ファンを驚かせた。




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フランコ・バレージ(Francheschino "Franco" Baresi、1960年5月8日 - )は、イタリアの元サッカー選手。

イタリアカルチョ界を代表する名ディフェンダーとして、1980年代から90年代にかけて活躍。その現役生活のすべてをACミランに捧げた。ACミランで長年彼が背負った背番号「6」は、引退後クラブの永久欠番となっている。

2007年現在は同クラブのプリマヴェーラ(ユースチーム)で後進の指導にあたっている。

兄のジュゼッペ・バレージ(Giuseppe Baresi)もプロサッカー選手(元インテル所属、元イタリア代表)。


■フランコ・バレージの経歴

1960年5月8日、イタリアロンバルディア州ブレシア県のトラヴァリアートに生まれる。

1974年、セリエAの下部組織への入団を希望し各クラブのテストを受けるが、最初に受験したアタランタBCは当時164cmで華奢だった彼を不合格とした。次に実兄ジュゼッペが所属していたインテルを受けるが、再び身体が小さいという理由で不合格。そこをACミランの関係者に誘われ、ミランのプリマヴェーラに入団する。高いディフェンス能力を買われてということもあったが、当時のACミランに若いディフェンダーが不足していたという事情もあったという。これで念願叶ったと思った矢先、同年に父が交通事故により急死する悲運に見舞われる。幼少時に母を亡くしていたバレージは14歳の若さで両親を失った。

1978年、下部チームで実力を増したバレージはトップチームに昇格。同年4月23日に対エラス・ヴェローナ戦でプロデビューを飾る。

1979年、2年目にしてレギュラーポジションを奪取しリーグ戦30試合に出場。期待の若手として注目を集め、当時の主将でありこのシーズン限りで現役を退いたジャンニ・リベラと共にリーグ優勝に貢献した。リベラ引退後バレージは一躍クラブの主役となったが、翌1980年、大規模な不法賭博スキャンダルが発覚し、事件に関与したとされたACミランはSSラツィオと共にセリエBへの降格処分となった。

思わぬ形で2部リーグでのプレーを余儀なくされたが、1981年に1シーズンで這い上がる。しかし、スキャンダルの余波で有力選手が次々と移籍。クラブ自体の人気も落ち、収益も減収した。またこのシーズンはさらに追い討ちをかけるように、バレージ本人もウイルス性疾患を患い数ヶ月戦列を離れた。これによりミランは14位でシーズンを終え、処分ではなく、実力不足によるセリエB降格となった。オフシーズン、バレージの元に複数のクラブから魅力的な移籍話が届くが、その一切を断りミランに残留。この決断によりバレージはミラノのファンの心を掴んだ。

1982年、W杯スペイン大会の代表メンバー(背番号2)に選ばれ優勝を経験するが、自身の出場機会はなかった。

1983年にミランはセリエAに復帰したが、トップグループに一歩及ばない成績が続き人気も下降。当時のインタビューによれば、選手たちへの給料配布も週給となり、経営難から支払いが止まることもあったという。

1986年、実業家シルヴィオ・ベルルスコーニがミランの会長に就任するとクラブの経営状況は一変。豊富な資金力で翌1987年に2人のオランダ人フォワード、ルート・フリットとマルコ・ファン・バステンを獲得、さらに当時無名であったアリゴ・サッキを監督に就任させた。サッキ監督の提案するゾーンプレスに、独創的なパスサッカーを目指すイタリア選手は当初懐疑的であったが、バレージはサッキ戦術のキーマンとしてチームを牽引。マウロ・タソッティや当時若手だったパオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタとともに強固なバックラインを形成した。このシーズン早くもチームは機能し、ディエゴ・マラドーナを擁したSSCナポリを押さえスクデットを獲得した。

1988年、フランク・ライカールトを加えより厚みを増したミランは、主将バレージ率いる守備陣と「オランダトリオ」によって見事な機能美を見せ、圧倒的な強さでUEFAチャンピオンズカップを奪取。以降1990年代半ばまでの数年間、ACミランはリーグ優勝、チャンピオンズカップなど多くのタイトルを獲得する黄金期を築きあげ、バレージは不動のディフェンスリーダー、キャプテンとしてチームを纏め上げた。

イタリア代表としてもバレージはその能力を発揮し、1990年W杯イタリア大会ではキャプテンとして全7試合にフル出場し3位。1994年アメリカ大会は大会中に膝を痛め一時戦線離脱するもすぐに手術を行い、決勝の対ブラジル戦で復帰。病み上がりとは思えないパフォーマンスでブラジル攻撃陣を零封したが、PK戦でバレージ自身も失敗しチームは敗れ準優勝に終わった。

1997年6月23日、自身の体力の衰えを理由に現役引退を発表。最後のシーズンは36歳というサッカー選手では高齢でありながらシーズン26試合に出場した。同一クラブにおける通算試合出場数「541」は、セリエA歴代2位の記録である(2007年1月現在。1位はパオロ・マルディーニ)。引退後バレージはACミランプリマヴェーラのコーチとクラブの名誉副会長職に就任。またバレージの偉大な功績に敬意を表し、彼の代名詞ともなっていた背番号「6」は永久欠番とされた。

また、キャリア晩年のバレージは偉大な選手として審判からも一目おかれる存在だった。 サッカーではルール上、シャツの裾は常にパンツの中に入れる事を義務付けられており、時にそのルールを厳密に適用する審判もいた。だが、「もそもそするから嫌なんだ」という理由からバレージだけは事実上黙認されていた。

現役生活の中で数々のタイトルを獲得したバレージだが、地味な「裏方」のイメージが強いディフェンダーであるが故か、唯一ヨーロッパ最優秀選手(バロンドール)だけは縁がなかった。そんなバレージの現役引退セレモニーの中で、バロンドールそっくりのレプリカトロフィーが贈られた。これは、チームオーナーにしてバレージの一番のファンであったベルルスコーニ会長がバレージに対する最大級の敬意と感謝を込めた、粋な計らいであった。バレージはそのレプリカトロフィーを観客席のスタンディング・オベーションに包まれながら掲げて見せ、多くのファンに感謝の意を現した。


■フランコ・バレージの獲得タイトル

▽クラブ
セリエA 優勝 6回(1978/79、1987/88、1991/92、1992/93、1993/94、1995/96)
スーペルコッパ・イタリアーナ 優勝 4回(1988、1991、1992、1993)
UEFAチャンピオンズカップ 優勝 3回(1988/89、1989/90、1993/94)
UEFAスーパーカップ 優勝 3回(1989、1990、1994)
インターコンチネンタルカップ 優勝 2回(1989、1990)

▽代表
FIFAワールドカップ 優勝 1回(1982年スペイン大会)




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パオロ・ロッシ(Paolo Rossi,1956年9月23日-)はイタリア出身のサッカー選手。

セリエBのヴィチェンツァで才能を開花させ、1976-77年21ゴールを挙げセリエA昇格、翌季もセリエAで24得点を上げ得点王に輝く。

順調な選手生活を送っていたが、1979-80年ペルージャ時代に八百長疑惑がかかり、裁定の結果2年間の出場停止処分を受けてしまう。

1982年スペインW杯直前に出場停止が解け代表に復帰。1次リーグこそ無得点に終わるが2次リーグ、黄金のカルテットを擁する優勝候補ブラジル戦でハットトリックを決め見事復活した。続く準決勝ポーランド戦でも2得点、決勝西ドイツ戦でも先制点を挙げ1938年以来44年振りとなるワールドカップ優勝に大きく貢献、自身も6得点を挙げ得点王となる。

なお、「史上最強」と言われたセレソンが敗れたことにブラジル全土は非常に大きなショックを受けており、いまだに「パオロ・ロッシ」の名はブラジルでは禁句である。

怪我により29歳で引退している。引退後は建設関係の仕事を営み、またOBによるオールスターマッチにもたびたび出場し、姿を見せている。華奢な体型は当時と全く変わらない。

2004年3月にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』に選出された。


■パオロ・ロッシの所属チーム

ACプラート
ユヴェントス
コモ・カルチョ
ヴィチェンツァ
ACペルージャ
ACミラン


■パオロ・ロッシの経歴

▽代表
代表デビュー:1977年12月21日 vs ベルギー(1-0)
代表通算:46試合出場 20得点
1982年FIFAワールドカップ優勝。6得点をあげ得点王になった。

▽クラブ
セリエA優勝:2回
1981-82年/1983-84年

セリエB優勝:1回
1976-77年

コッパ・イタリア:1回
1982-83年

UEFAチャンピオンズリーグ:1回
1984-85年

UEFAカップウィナーズ・カップ:1回
1983-84年

UEFAスーパーカップ:1回
1984年

FIFAワールドカップ優勝:1回
1982年


■パオロ・ロッシの個人タイトル

ワールドカップ得点王:1回
1982年スペインW杯:6得点

バロンドール(欧州年間最優秀選手):1回
1982年

セリエA得点王:1回
1977-78年 24得点



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パオロ・マルディーニ(Paolo Maldini、1968年6月26日 - )は、イタリア・ミラノ出身のサッカー選手。ACミラン所属。

イタリア1部リーグセリエAのACミランの主将であり、元イタリア代表選手。イタリア代表でもキャプテンをつとめた。父は息子と同じくACミランのキャプテンであり、1962-63シーズンのUEFAチャンピオンズカップを優勝するなどし、イタリア代表監督も経験したチェーザレ・マルディーニである。

弱冠16歳でセリエAにデビューしたのち、以降20年以上もなお一線級でプレイし続ける驚異的な存在であり、イタリア代表でも史上最多の126というキャップ数を記録した他、2004年にセリエA単一クラブ最多出場記録を更新。2005年にはディノ・ゾフが持っていたセリエA最多出場記録570試合を更新している。ミランのバンディエラ(旗手)として絶大な人気を誇っている。果敢な攻撃参加、1対1での圧倒的な強さ、状況判断の良さ、世界最高とも言われる戦術理解能力で、10年近く世界最高の左サイドバックの座を守り続けた。また、フランコ・バレージからキャプテンシーを継承している。

近年は膝の怪我に悩まされており2004年には引退をほのめかしたが周囲からの強い慰留により現役を続行している。 一時期は衰えを指摘されスピード不足を露呈したが、本格的にセンターバックにポジションを変え、代表チームを引退して「2足の草鞋」を脱いでしまうと、再び世界トップレベルのDFとして復活した。

代表試合でのタイトルや個人的な賞の獲得はないが、世界でもっとも偉大な現役選手の一人であり、フランコ・バレージのつけていた背番号6と同様に、彼がACミランでつけている背番号3は永久欠番になる事が既に決定されている。 2005年10月18日、マルディーニの長男クリスティアン(Christian, 1996年6月14日 - )がACミランの下部組織に入団。親子3代のACミラン入りということで注目が集まっている。

近年は度重なる左膝の怪我や故障から、アレッサンドロ・コスタクルタと共に2007年7月末の契約満了をもって現役引退を示唆している。だが、体力面で全盛期には程遠いとはいえ、能力的にはセリエAはもとより世界に於いてもいまだトップクラスのディフェンダーの一人であり、更に平均年齢が34歳を超えたミランのディフェンダー陣再構築が遅々として進んでいないため、シルヴィオ・ベルルスコーニ会長らクラブ首脳陣は1年間の契約延長を求めており、サッカーで一時代を率いてきた選手の進退に対して注目が集まっている。

2007年2月20日、チャンピオンズリーグの対セルティック戦においてチャンピオンズリーグ通算100試合出場を達成した。更に同年3月11日には史上初となるセリエAの単一クラブ600試合出場を達成。奇しくもこの日の試合はライバル、インテルとのミラノ・ダービーであったが白星を飾ることはできなかった。クラブ、ユース代表、A代表の現役合計通算1000試合出場までもあと十数試合と目前に控えている。

コスタクルタとはユース時代からの友人でミラノ市内にレストランバーとディスコを共同経営している。 しばしば練習中に大音量で音楽を流し、コスタクルタに怒られることがあるひょうきん者の一面もある。


■パオロ・マルディーニの経歴

▽代表
1988年 ユーゴスラビア戦で代表デビュー
1990年 ワールドカップ・イタリア大会出場 (3位)
1994年 ワールドカップ・アメリカ大会出場 (準優勝)
1998年 ワールドカップ・フランス大会出場 (ベスト8)
2002年 ワールドカップ・日韓大会出場 (ベスト16)

▽クラブ
1987-88 セリエA優勝
1988-89 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1989-90 UEFAチャンピオンズカップ優勝
1991-92 セリエA優勝
1992-93 セリエA優勝
1993-94 UEFAチャンピオンズカップ優勝、セリエA優勝
1995-96 セリエA優勝
1998-99 セリエA優勝
2002-03 UEFAチャンピオンズリーグ優勝、コッパ・イタリア優勝
2003-04 セリエA優勝


■パオロ・マルディーニの所属チーム

ACミラン(イタリア) 1984年-




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ディノ・ゾフ(Dino Zoff、1942年2月28日 - )は、イタリア出身のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。

「氷のゴールキーパー」の異名通りユヴェントス在籍時の1973-1974シーズンに1143分間連続無失点記録を樹立。ユヴェントス在籍時にセリエA、コッパ・イタリア、UEFAカップウィナーズ・カップなどの栄冠を手にしている。また40歳にしてイタリアが優勝した1982年W杯で代表キャプテンを務め、チームをまとめた。「おいぼれ」と揶揄される中、見事優勝し「ゴールキーパーはワインと同じ。年を重ねるほど味が出る」との名言を残す。全世界歴代ゴールキーパーで3本の指に入ると賞されている。

引退後はイタリア五輪代表監督を務め、1989年から古巣ユヴェントスを率いてUEFAカップとコッパイタリアで優勝した。1990年からはラツィオで監督を務め、1994年からは同クラブの会長に就任。1998年にイタリア代表監督に就任すると、EURO2000でフランスに敗れたものの準優勝に導いた。その後再びラツィオの監督に復帰したが、2001年9月に成績不振で解任された。 2005年1月から6月まではフィオレンティーナの監督を務めた。


■ディノ・ゾフの所属クラブ

ウディネーゼ(イタリア) 1960-1963
マントヴァ(イタリア) 1963-1967
ナポリ(イタリア) 1967-1972
ユヴェントス(イタリア) 1972-1983


■ディノ・ゾフの代表経歴

1968年 UEFA欧州選手権優勝
1982年 FIFAワールドカップ優勝


■ディノ・ゾフの監督経歴

ユヴェントス(イタリア) 1988-1990
ラツィオ(イタリア) 1990-1994
ラツィオ(イタリア) 1996-1997
イタリア代表 1998-2000
ラツィオ(イタリア) 2001
フィオレンティーナ(イタリア) 2005



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■アイルランド(1)
ロイ・キーン

■イタリア(14)
アレッサンドロ・デル・ピエロ
アレッサンドロ・ネスタ
クリスティアン・ヴィエリ
ジャシント・ファケッティ
ジャンニ・リベラ
ジャンピエロ・ボニペルティ
ジャンルイジ・ブッフォン
ジュゼッペ・ベルゴミ
ディノ・ゾフ
パオロ・マルディーニ
パオロ・ロッシ
フランコ・バレージ
フランチェスコ・トッティ
ロベルト・バッジョ

■イングランド(7)
アラン・シアラー
ゲーリー・リネカー
ケビン・キーガン
ゴードン・バンクス
デビッド・ベッカム
ボビー・チャールトン
マイケル・オーウェン

■ウクライナ(1)
アンドレイ・シェフチェンコ

■オランダ(13)
ウィリー・ファン・デ・ケルクホフ
エドガー・ダーヴィッツ
クラレンス・セードルフ
デニス・ベルカンプ
パトリック・クライファート
フランク・ライカールト
マルコ・ファン・バステン
ヨハン・クライフ
ヨハン・ニースケンス
ルート・ファン・ニステルローイ
ルート・フリット
レネ・ファン・デ・ケルクホフ
ロブ・レンセンブリンク

■北アイルランド(1)
ジョージ・ベスト

■クロアチア(1)
ダヴォール・シューケル

■スコットランド(1)
ケニー・ダルグリッシュ

■スペイン(3)
エミリオ・ブトラゲーニョ
ラウル・ゴンサレス
ルイス・エンリケ

■チェコ(2)
パベル・ネドベド
ヨゼフ・マソプスト

■デンマーク(3)
ピーター・シュマイケル
ブライアン・ラウドルップ
ミカエル・ラウドルップ

■ドイツ(10)
ウーベ・ゼーラー
オリバー・カーン
カール=ハインツ・ルンメニゲ
ゲルト・ミュラー
ゼップ・マイヤー
パウル・ブライトナー
フランツ・ベッケンバウアー
ミヒャエル・バラック
ユルゲン・クリンスマン
ローター・マテウス

■トルコ(2)
エムレ・ベロゾール
リュストゥ・レチベル

■ハンガリー(1)
フェレンツ・プスカシュ

■フランス(14)
エリック・カントナ
ジネディーヌ・ジダン
ジャン・ピエール・パパン
ジュスト・フォンテーヌ
ダビド・トレゼゲ
ティエリ・アンリ
ディディエ・デシャン
パトリック・ヴィエラ
マリウス・トレゾール
マルセル・デサイー
ミシェル・プラティニ
リリアン・テュラム
レイモン・コパ
ロベール・ピレス

■ブルガリア(1)
フリスト・ストイチコフ

■ベルギー(3)
ジャン・マリー・プファフ
フランキー・ヴァン・デル・エルスト
ヤン・クーレマンス

■ポーランド(1)
ズビグニェフ・ボニエク

■ポルトガル(3)
エウゼビオ
マニュエル・ルイ・コスタ
ルイス・フィーゴ

■ルーマニア(1)
ゲオルゲ・ハジ

■ロシア(1)
リナト・ダサエフ




ジュゼッペ・ベルゴミ(Giuseppe Bergomi, 1963年12月22日-)は、イタリア・ミラノ出身の元サッカー選手。現役時代のポジションは主にディフェンダー(サイドバック、センターバック)。愛称は「ツィオ」(おじさん)。

1981年のデビュー以降、そのキャリアのすべてをインテルで過ごした「Mr.インテル」。単一クラブでの出場試合数519という、セリエA最多記録を持っていたが、2004年にパオロ・マルディーニ(ACミラン)により塗り替えられた。 。

強靭な体躯と鋭い戦術眼を持ち合わせ、イタリア代表守備陣の要としても長年活躍した。ワールドカップには実に4回出場。特に18歳で出場した1982年のスペイン大会では、準決勝と決勝戦にフル出場しイタリアチーム優勝の立役者となった(この時はヒゲをたくわえ、とても18歳には見えない風貌であった)。地元開催の1990年大会では26歳にしてメンバー22人中最多国際Aマッチ出場者であったためキャプテンをつとめ、3位という成績を残した。すっかりイタリア代表から遠ざかった1998年フランス大会に突如復帰、試合にも出場し活躍した。代表出場歴は通算81試合、6得点。 1999年に引退した後はテレビのサッカー中継の解説を中心に、評論家・コメンテーターとして活躍中。 背番号2番は準永久欠番扱い。




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ジャンルイジ・ブッフォン(Gianluigi Buffon、1978年1月28日 - )は、イタリア・カッラーラ出身の同国代表、セリエB・ユヴェントス所属のサッカー選手。

日本においてはブフォンと表記されることもある(日刊スポーツや読売新聞提供のYOMIURI ON-LINEなど)。愛称ジジ(Gigi)。


■ブッフォンのプレースタイル

高い身体能力と正確な判断力を併せ持ったユヴェントスとイタリア代表の守護神。もちろんキャッチング、飛び出しのタイミング、ハイボールの処理、精神力、どれをとっても超一流であり、脈々と受け継がれているイタリア代表の名GKの系譜に名を刻む選手である。

やや身体が硬く、コーディネーションの能力が不足しているものの、学習能力が高く、一度ミスしたプレーは二度と繰り返さない。


■ブッフォンの生い立ち

父(アドリアーノ)は砲丸投げ、母(マリア・ステラ・マソッコ)は円盤投げ、2人の姉(グエンダリーナ、ヴェロニカ)は共にバレーボールのオリンピック選手、そして1962年ワールドカップ・チリ大会のイタリア代表正GKロレンツォ・ブッフォンを親戚(祖父の従兄弟)に持つというスポーツ一家に生まれたブッフォンは、幼少時は「よく点を決めていた」と本人が言うように、トスカーナ州選抜に選出されたり、1988-1989シーズン、スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで行われたインテル対エラス・ヴェローナの前座試合に出場するなどフォワードや右サイドアタッカー(少年時代の憧れの選手はローター・マテウス)として活躍。しかし、12才のとき「とりあえず1年間だけGKをやってみよう」とGKに挑戦。その年(1990年)に開催された1990 FIFAワールドカップのカメルーン代表GK、トーマス・ヌコノのプレーに感化され、本気でGKへの転向を決意する。


■ブッフォンのクラブでの活躍

▽1991年
ACパルマのエルメス・フルゴーニGK育成コーチ兼スカウトに見いだされ、同チームの下部組織に入団。

▽1995-1996シーズン
下部組織入団からわずか4年でネビオ・スカラ監督によってACパルマのトップチームに昇格。その時ブッフォンはまだ17才だった。1995年11月19日、ファビオ・カペッロ監督率いるACミラン戦でセリエAデビュー(17歳9ヶ月)。その試合でこの年のバロンドールを受賞するジョージ・ウェアの至近距離からのシュートを顔面でセーブするなどスーパーセーブを連発し、0-0の引き分けに貢献した。結局、このシーズンは9試合に出場した。

▽1996-1997シーズン
正GKとしての地位を確固たる物とし、のちにユヴェントスで再びチームメイトとなる、リリアン・テュラム、ファビオ・カンナヴァーロと共に強固な守備陣を形成。チームはセリエA2位という躍進を果たす。

▽1998-1999シーズン
堅守を武器にチームはコッパ・イタリア優勝、UEFAカップ優勝、イタリア・スーパーカップ優勝という快挙を成し遂げる。

▽2000-2001シーズン
キャリア初となるセリエA全試合出場を果たし、2001年7月、ACパルマでプレーした5年間でセリエA168試合出場159失点(1試合平均0.94失点)という実績を引っ提げ、GKとしては史上最高額の移籍金となる5230万ユーロ(約56億円・当時)でエドウィン・ファン・デル・サールの後釜を探していた、マルチェロ・リッピ監督(前イタリア代表監督)率いるユヴェントスに加入。当初はGKにこれほど多額の移籍金を支払ったユヴェントスに懐疑的な見方をする専門家が多かったが、「サッカーをよく理解していない者の戯言」とブッフォンは反論し、その年のスクデット獲得に大きな貢献をする。

▽2002-2003シーズン
昨シーズンに引き続きユヴェントスはセリエAを連覇するが、UEFAチャンピオンズリーグ決勝のACミラン戦でPK戦の末、敗れてしまう。しかし、このシーズンの活躍が認められてUEFAチャンピオンズリーグのMVP(GKとしては史上初)と最優秀GKに選出される。

▽2004年
3月にFIFAが100周年を迎えるにあたって、元ブラジル代表ペレ氏が選出したFIFA 100(偉大なサッカー選手125人)に選出される。

▽2005-2006シーズン
8月14日に行われたACミランとの親善試合でカカと激突し、右肩を脱臼。長期の戦線離脱を余儀なくされ、ユヴェントスはその代役としてクリスティアン・アッビアーティをACミランから獲得。一旦、同年12月1日のコッパ・イタリア、フィオレンティーナ戦で復帰するが、ファビオ・カペッロ監督のまだ十分に回復していないとの判断により、その後の試合には出場せず。1月15日のレッジーナ戦で再度復帰。以降は正GKの座を奪還した。

▽2006年6月-7月
カルチョ・スキャンダルでイタリアサッカー界が揺れる中、ブッフォン自身にも違法なサッカー賭博に関与したのではないかとの容疑が掛かり、パルマ地検とトリノ地検から事情聴取を受ける。

▽2006-2007シーズン
所属チームであるユヴェントスの八百長行為によりチームがセリエBへ降格することが決定し、ファビオ・カンナヴァーロやジャンルカ・ザンブロッタなど多くのチームメイトが移籍していく中、アレッサンドロ・デル・ピエーロやパベル・ネドベドらと同じくユヴェントスに残留する意向であることを代理人を通じてラジオで発表した。

▽2006年11月
2006 FIFAワールドカップでの活躍によりバロンドール受賞が噂されたが、投票の結果2位に終わり、イタリア代表のチームメイトであるファビオ・カンナヴァーロにその栄誉を譲った。


■ブッフォンのイタリア代表歴

▽代表デビュー
1997年10月29日にモスクワで行われた1998 FIFAワールドカップ欧州予選プレーオフ・ロシア戦の第1戦(ジャンルカ・パリュウカの負傷による途中出場)。ちなみに18歳11ヶ月での代表デビューはイタリア代表のGK史上2番目の若さ。

▽1998 FIFAワールドカップ
20才の若さで最終メンバーに選出されるも、出場機会はなし。チームは準々決勝でフランスに敗れる。

▽EURO2000
大会直前に左手を故障し、メンバーに選出されず。

▽2002 FIFAワールドカップ
正GKとしてプレーするも、ベスト16で韓国に敗退。

▽EURO2004
3試合2失点(うちPKで1失点)と奮闘したもののグループリーグ敗退。

▽2006 FIFAワールドカップ
自身のサッカー賭博疑惑による試合への影響が心配されたが、驚異的なセービングを連発。大会7試合を通じて2点しかゴールを許さず(1点はクリスティアン・ザッカルドのオウンゴール、1点はジネディーヌ・ジダンのPK、いわば2点とも特殊な形の失点であり、試合の流れの中でゴールを割られることはなかった)、さらに、W杯史上4番目の長さとなる460分連続無失点という記録を達成し、イタリアを優勝に導き、最優秀ゴールキーパーとしてレフ・ヤシン賞を受賞。


■ブッフォンのタイトル

▽クラブ
セリエA優勝:2回(2001-2002、2002-2003)
コッパ・イタリア優勝:1回(1998-1999)
イタリア・スーパーカップ優勝:3回(1999、2002、2003)
UEFAカップ優勝:1回(1998-1999)

▽代表
FIFAワールドカップ優勝:1回(2006)
U-21欧州選手権:1回(1996)

▽個人
レフ・ヤシン賞:1回(2006)
UEFAチャンピオンズリーグMVP:1回(2002-2003)
UEFA年間最優秀選手GK部門:1回(2002-2003)
セリエA最優秀GK:2回(2000-2001、2001-2002)
IFFHS世界最優秀GK賞:2回(2003、2004)


■ブッフォンの所属チーム

ACパルマ 1995-2001
ユヴェントス 2001-



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ジャンピエロ・ボニペルティ(Giampiero Boniperti、1928年7月4日-)は、イタリア・ノヴァーラ出身の元サッカー選手。ポジションはFW・MF。

攻撃的なポジションであればどこでもこなせる柔軟性と強い精神力を持ったユヴェントスの往年の名プレーヤー。プロキャリア全てをユヴェントスに捧げ、2006年1月10日にアレッサンドロ・デル・ピエロに抜かれるまで45年間ユヴェントスのクラブ最多得点者を保持していた(182得点)。 現役引退後はユヴェントスの会長に就任し、若き日のデル・ピエロを発掘するなどクラブの発展に尽力した。


■ジャンピエロ・ボニペルティの所属クラブ

ユヴェントス 1946-1961



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ジャンニ・リベラ(Gianni Rivera, 1943年8月18日 - )は イタリア出身のサッカー選手。ポジションはMF。

イタリア史上最高のファンタジスタとも称される天才司令塔。類稀なパスセンス、優れた得点感覚、創造力溢れるプレーで観客を魅了した。『ゴールデンボーイ』、『超頭脳』の愛称がある。

1953年地元クラブ・アレッサンドリアと契約。1960年に名門ACミランへ移籍。1961-62シーズンにはスクデット、翌季にはチャンピオンズカップ優勝に貢献、この年のバロンドールの投票ではレフ・ヤシンに次ぐ第2位に選出された。その後もスクデット2回、コパ・イタリア優勝4回、チャンピオンズカップ優勝1回、得点王1回(72-73 17得点)を記録。 1969年には遂にバロンドールを獲得した。 ちなみにデメトリオ・アルベルティーニは、彼の再来とまで言われた。

▽代表デビューは1962年5月13日vsベルギー戦
▽代表通算 60試合出場 14得点
▽1970年メキシコワールドカップではサンドロ・マッツォーラとの熾烈なポジション争いに敗れ控えに回ってしまう。
▽ワールドカップ通算 9試合出場 3得点


■ジャンニ・リベラの所属チーム

1953-60年 アレッサンドリア
1960-79年 ACミラン



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ジャチント・ファッケッティ(Giacinto Facchetti、1942年7月18日 - 2006年9月4日)は、イタリア・トレヴィーリオ出身の元同国代表サッカー選手(DF)。

イタリア代表としてワールドカップに3回、欧州選手権に1回出場。1968年欧州選手権では優勝、1970年ワールドカップでは準優勝に貢献。 代表出場試合数94はディノ・ゾフに更新されるまで歴代1位。(現在はパオロ・マルディーニ、ファビオ・カンナバーロも更新している)

クラブレベルでは「グランデ・インテル」の一人として、チャンピオンズカップ2連覇をはじめ、リーグ9回、コッパ・イタリア1回、インターコンチネンタルカップ2回の優勝を経験している。

2004年1月からインテルの会長職に就いていたが、2006年9月4日肝臓がんのためミラノで死去。インテルは彼が選手時代に使用していた背番号3を永久欠番とすることを決めた。


■ジャチント・ファッケッティのプレースタイル

俊足で元FWという経歴と189cm86kgの堂々たる体躯で当時のサイドバックの概念を覆した左サイドバック。 強靭なフィジカルを生かした守備でボールを奪った後、その俊足で自ら前線まで駆け上がりカウンターの基点となるプレースタイル、フランツ・ベッケンバウアー等リベロの登場やオランダ代表によるトータルフットボールの発明以前に通算634試合で75ゴールという数字はディフェンダーとして異色の存在であった。 またキャリアの中で退場処分を一度も受けていないクリーンさと冷静さ、攻撃と守備ともに中心的存在であることなどからイタリア代表、インテルでキャプテンを務め、代表でのキャプテンとしての出場数70試合はパオロ・マルディーニに更新されるまで歴代1位であった。


■ジャチント・ファッケッティの所属クラブ

CSトレヴィリエーゼ(イタリア)-1960
インテル(イタリア)1960-1978



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