サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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クリスティアン・ヴィエリ(Christian Vieri、1973年7月12日 - )は、イタリア・ボローニャ出身の同国代表、セリエA・アタランタ所属のサッカー選手。

185cm、82kgという屈強な体を武器に相手ゴールに迫る迫力満点のストライカーである。ヘディング、ポストプレーともに完璧であり、そして強烈な左足のシュートで多くの得点を重ねた。そのためか「重戦車」と評される。全盛期は世界最高のストライカーと称されていた。愛称はボボ。イタリアの伝説的なFWルイジ・リーバに「私の現代版」と言われた。寡黙で気難しく記者泣かせの選手といわれていた。フィリッポ・インザーギとは極めて仲が良く(毎日電話で連絡を取り合うほど)、互いに親友であることを公言していたが一時同じ女性に好意を抱いた時期がありその後しばらくは不仲となった。

生まれはイタリアのボローニャ。3歳の時にシドニーに渡り、少年時代はオーストラリアで育つ。本人によると、ラグビーはあまりしたことがなく、陸上競技や水泳で体を鍛えたらしい。サッカーを始めたのは14歳頃から。クリケットの熱烈なファンでもある。

デビューはセリエC1ポラト。様々なチームを転々とした末、イタリア人としては珍しく海外でその才能が花開いた選手である。1997-1998シーズン、スペインのクラブチームアトレティコ・マドリードに所属し、24試合24得点という成績で得点王を獲得。「リーガは生ぬるい」と発言し、自身の故郷に翌シーズンには当時の最高金額でラツィオに移籍、セリエAへ復帰した。 1999年から2004年にかけてインテルに所属。2002-2003シーズンには得点王も獲得した。このシーズンのビエリは23試合で24得点と出場試合数を上回る得点を記録し怪我さえなければ30得点を超えていただろう。2005-2006シーズンからはACミランへ移籍したものの出場機会に恵まれず、2006年1月にASモナコへ完全移籍することとなった。その後、わずか半年でセリエA・サンプドリアへの移籍が決定するも、サッカーに対する情熱が持てないとして現役引退を仄めかしていた。この間、イタリアの人気番組「L'isola dei famosi」に出演予定など様々な噂が流れたが、移籍期限ギリギリの8月29日(現地時間)に古巣アタランタへの復帰が決まった。 契約金は約22万とプロ最低賃金での契約であるが、1ゴールごとにオプション契約として1000万円支払われる予定である。

アズーリの常連選手でもある。代表デビューは1997年3月29日、フランスW杯欧州予選のモルドバ戦。W杯には2度出場し、フランスW杯で5試合5得点、日韓W杯で4試合4得点といずれもエースとして活躍したが、チームはフランスW杯ではベスト8、日韓W杯ではベスト16止まりであった。ドイツW杯では自身3度目のW杯を目指していたが、怪我の影響もあり選考には残らなかった。

父親はイタリア・セリエAでプレーしたサッカー選手のロベルト・ヴィエリ。弟のマッシミリアーノ(マックス)・ヴィエリ(元オーストラリア代表)もサッカー選手。また、祖父も戦前のセリエBでGKとして プレーした経歴を持ち、突如イタリア行きを宣言したヴィエリに父親は無理だと断言したが、この祖父がイタリア挑戦を 勧めたというエピソードが残っている。


■クリスティアン・ヴィエリの所属チーム

ボラト 1989-1990
トリノ 1990-1992
ピサ 1992-1993
ラベンナ 1993-1994
ヴェネツィア 1994-1995
アタランタ 1995-1996
ユヴェントス 1996-1997
アトレティコ・マドリード(スペイン) 1997-1998
ラツィオ 1998-1999
インテル 1999-2005
ACミラン 2005-2006.1
ASモナコ(フランス) 2006.1-2006.7
サンプドリア 2006.7-2006.8(合流前に退団)
アタランタ 2006.8-



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アレッサンドロ・ネスタ(Alessandro Nesta, 1976年3月19日 - )は、イタリア・ローマ出身のサッカー選手。ACミラン所属。ポジションはDF。

その風貌はとてもハンサムで、「一番かっこいいサッカー選手」に選ばれたこともある。 17歳でラツィオからデビューし、その後10代後半から主力として活躍。20代前半でラツィオのキャプテンを任された。同じくローマ出身であり、若くしてライバルチームであるASローマのキャプテンとなったフランチェスコ・トッティとはライバルであり、よき親友、常に比較されていた。1999-2000シーズンのスクデット獲得の際にもチームを牽引した。2002年、ラツィオの財政難が原因でACミランに移籍。当時ラツィオのシンボルであったネスタの移籍は衝撃的なものであり、ローマではラツィオサポーターが抗議行動を起こすほどのものであった。移籍後も高いパフォーマンスで活躍を続けており、チームに大きく貢献している。

チームの監督に「彼はなろうと思えば何にでもなれた。ただやっていたのがディフェンダーだっただけだ。」と言わしめたほど多才である。

少年時代にASローマからスカウトされたが、父親が同じローマのラツィオの熱狂的なファンであったことから、これを断ったという逸話が残っている。


■アレッサンドロ・ネスタのプレースタイル

よく言えば穴のないオールラウンドな選手で特筆すべき特徴とがないのが特徴といえる。 背が高く身体能力に恵まれ、1対1や競り合いにも強く、走力やスタミナも非常に高い。統率力、読みやカバーリング能力なども高いレベルで持っている。DFに必要とされる能力全てを兼ね備え、現代のディフェンダーの理想系とされている。世界最高のDFと評される事も多い。


■アレッサンドロ・ネスタとワールドカップ

DFとして世界的な名声を得ているネスタであるが、ことワールドカップに関しては才能を遺憾なく発揮しているとは言いがたい。 1998年フランスワールドカップではグループリーグのオーストリア戦にて負傷し、決勝トーナメントは不出場に終わる(イタリアはベスト8敗退)。 2002年日韓共催ワールドカップでもグループリーグのクロアチア戦にて負傷し、決勝トーナメントは不出場に終わってしまう(イタリアはベスト16敗退)。 捲土重来を期して臨んだ2006年ドイツワールドカップであったが、またもやグループリーグのチェコ戦にて負傷してしまい、決勝トーナメントでの出場は叶うことはなかった。 ドイツワールドカップにてイタリア代表は24年ぶり4度目のワールドカップ制覇を成し遂げたものの、ネスタ個人にとってワールドカップはまさに鬼門となりつつある。


■アレッサンドロ・ネスタの所属クラブ

ラツィオ 1993-2002
ACミラン 2002-



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アレッサンドロ・デル・ピエロ(Alessandro Del Piero、1974年11月9日 - )は、イタリア・トレビゾ(コネリアーノ)出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。

カルチョの国イタリアの歴史にその名を刻むファンタジスタのひとり。

現在は一連のカルチョ・スキャンダルでセリエBに降格したユベントスでプレーしている。


■デル・ピエロのプレースタイル

決して恵まれた体格とは言えないが、テクニックに優れプレーに豊富なバリエーションを持つFW。左サイドからゴール前にドリブルで切れ込むプレーを得意としていて、特に彼が無数の美しいゴールを決めた、ゴール前左45度は「デル・ピエロ・ゾーン」と呼ばれている。この聖域から右足のインフロントで放たれたボールが、ゆるやかな弧を描いてゴール右隅に吸い込まれる様子は多くの観客を魅了してやまない。 また短中距離のフリーキックも得意としているほか、トラップ技術も一級品で、次のプレーに最適な場所にワンタッチでボールをコントロールできる。


■デル・ピエロの略歴

1991年にセリエB(当時)のパドバでキャリアをスタート。1993年からセリエAのユヴェントス(2006-2007シーズン現在セリエB)に所属し、ミシェル・プラティニやロベルト・バッジョといった名選手たちが背負ったユベントスの背番号「10」を若くして引き継いだ。

靭帯断裂などの負傷とスランプに度々悩まされるがその度にこれを克服し、センセーショナルな復活劇を見せて観客を魅了する、華のある選手である。ユヴェントスでは1995-96シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ制覇のほか、2004年までに5度のスクデット獲得を経験している。(2004-2005、2005-2006は没収されている。)

2006年1月10日に行われたコッパ・イタリアの対フィオレンティーナ戦でハットトリックをマーク。これがユヴェントスでの185得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替えた。

イタリア代表デビューは1995年3月25日のエストニア戦。FIFAワールドカップには1998年、2002年、2006年と3大会連続で出場している。不調に苦しむ間にフランチェスコ・トッティの台頭もあり、2000年代からは背番号「10」をトッティに譲っているものの、今も「アズーリ」に欠かせない選手のひとりである。

2006年のドイツ大会ではフォワードのバックアッパーとしてメンバーに名を連ねる。準決勝のドイツ戦では延長戦から途中出場し、アルベルト・ジラルディーノからのパスを受け、十八番「デル・ピエロ・ゾーン」から2点目となるダメ押しゴールを奪った。


■デル・ピエロ備考

▽兄ステファノも元サッカー選手。

▽子供の頃に新日本プロレスのイタリア遠征を観戦して以来のプロレスファン。好きな日本のプロレスラーはアントニオ猪木と藤波辰爾で、2005年6月にユベントスの遠征で来日した際にテレビ朝日系「ワールドプロレスリング」に出演し、憧れの藤波と対面して感激していた。この時に藤波からプレゼントされたタイガーマスクを被ったデル・ピエロの写真がユヴェントスの公式サイトに掲載されている。

▽トッティに背番号『10』を譲ってほしいと言われた際も「僕は『7』の方が合っている」と言って快く譲るなど性格、人間性なども優れた人格者でイタリア国内での人気も高い。なお何故7番かといえば「初めてもらった背番号がこれだったから」、とのこと。

▽遠征先などでは、仲間の選手と一緒にテレビゲームをする。好きなゲームはマリオシリーズ。

▽元日本代表の中田英寿と公私に渡って親交がある。2006年7月の中田現役引退のニュースを聞いた際には、ワールドカップの試合前にもかかわらずインタビューで中田に対してのコメントを残している。

▽ユベントスが八百長事件によりセリエBに降格する可能性が取り沙汰される中、マンチェスター・ユナイテッドなどの誘いを断って真っ先に契約を更新。チームに残る決意をした事で、改めてファンの心を掴んだ。

▽日本のお茶が好きらしく、「夫婦でよく飲んでいる」とテレビのインタビューで答えていた。また少年時代に読んだ『キャプテン翼』の翼に憧れた、など先のプロレス以外にも日本との縁がある。

▽アメリカ合衆国にも憧れがあるといい「選手生活を終えたら、まず英語の勉強に取り組むつもりだ」と語る。

▽サッカー界のご意見番でカルチョには特に痛烈な批判をするヨハン・クライフもデル・ピエロに対しては「私はどんなイタリアのプレイヤーよりもデル・ピエロを好む。彼のプレーはとてもファンタスティックだ。ただ強いて言うなら彼はイタリアに生まれるべきではなかった。イタリアサッカーは彼がそのプレースタイルのままでいようとすることを許さないだろう。」と賛辞を送ると共に彼のプレースタイルをもっと生かせる国に生まれていたら、という意味深なコメントをしている。


■デル・ピエロの所属チーム

パトバ 1991-1993
ユヴェントス 1993-



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ロイ・キーン(Roy Keane、1971年8月10日 - )は、アイルランド出身の元サッカー選手、サッカークラブ監督。現役時代のポジションはミッドフィルダーあるいはセンターバック。


■ロイ・キーンの来歴

長く欧州屈指の名門マンチェスター・ユナイテッドの主将をつとめ、同チームの象徴的プレイヤーだった。プレミアリーグ史上最高のキャプテンともいわれている。少年時代はアマチュアボクサーだった。1999年-2000年シーズンにイングランドの年間最優秀選手に選ばれている。1998年-1999年の三冠に大きく貢献した。「闘将」の言葉がもっとも似合う人物である。

選手生活の後半は故障と戦いながらも主将として絶大な存在感を発揮し、2002-2003シーズンのプレミアシップ獲得、2003-2004シーズンのFAカップ優勝にも貢献した。しかしクラブがライバルであるアーセナルやチェルシーの後塵を拝することが多くなると、次第に若手選手の闘争心の欠如を批判する機会が増えていった。

このような流れの中、2005年11月18日、「MUTV」においてリオ・ファーディナンドを批判したとされる事件(結果的には放送されなかった)と、自身の故障がきっかけとなり、突如マンチェスター・ユナイテッドとの契約を解除。2005年12月16日、スコティッシュ・プレミアリーグの名門で、アイルランド人のサポーターが極めて多いことで知られるグラスゴー・セルティックに入団した。この移籍劇の背景には、かねてから現役生活の最後はセルティックで終わりたいと発言してきたロイ・キーンの、セルティックへの思いもあったと推測される。

ロイ・キーンのセルティックでのデビュー戦では、スタンドに巨大なアイルランド国旗が人文字で描かれ、ロイ・キーンの絶大な人気をあらためて実感させた。

ロイ・キーンは2006年3月、このシーズン限りでの現役引退を表明した。2006年5月9日にはオールド・トラッフォードでセルティックとマンチェスター・ユナイテッドによるテスティモニアル・マッチが開催され、前半はセルティック、後半はマンチェスター・ユナイテッドの選手として出場した。この試合は2万人以上のセルティック・サポーターを含む7万人弱の入場者を集め、200万ポンド以上の収益を出した。ロイ・キーンはその大部分を慈善団体に寄付する意向を示した。


■アイルランド代表でのロイ・キーン

しかし、彼の激しすぎる闘争心は、しばしば周囲との衝突にも発展してしまうことがある。2002年のFIFAワールドカップでは、直前にサイパン島で行われた合宿中に、彼が行ったアイルランド・サッカー協会批判(サイパン島のグラウンドは非常にコンディションが悪く、練習中に怪我人を出してしまった)がマスメディアにセンセーショナルに掲載されたり、練習方法を巡ってコーチのパッキー・ボナーとの対立、練習中にGKのアラン・ケリーがまじめにやらなかった事に腹をたてたキーンがケリーを殴ったりした結果、兼ねてから折り合いが悪かった監督のミック・マッカーシーとの不仲が決定的となり、ワールドカップに参加しないまま帰国を命じられた。

ロイ・キーンは後にブライアン・ケアー監督の指揮下のアイルランド代表に復帰し、2006年FIFAワールドカップドイツ大会の欧州予選ではチームの中心となって活躍したが、アイルランド代表の予選落ちが決定すると再び代表から退いた。


■監督としてのロイ・キーン

2006年8月にサンダーランドAFCの監督に就任した。当時のサンダーランドはミック・マッカーシー監督の下、泥沼の連敗にあえいでいたが、監督就任後はアイルランド代表とマンチェスター・ユナイテッドの伝手を使ってドワイト・ヨーク、リアム・ミラー、グレアム・カバナー、デヴィッド・コノリー、アンソニー・ストークスら積極的な補強を行い、クラブを一気に建て直した。このシーズンの中盤から終盤にかけての怒濤の連勝はクラブの連勝記録を更新することになった(余談となるが、この時サンダーランドの監督を解任されてウルヴァーハンプトンの監督に就任したミック・マッカーシーも、低迷していたウルヴァーハンプトンを一気にプレーオフ圏内に持ち上げるという実績を残している)。

また2006年11月には、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズとの対戦を機会にミック・マッカーシーとの和解成立を相互に表明した。彼らのインタビューによれば、マッカーシーがサンダーランドの選手の獲得を直接キーンに電話で照会し、その際に過去のわだかまりは水に流そうということで合意したのだという。


■ロイ・キーンの経歴

▽代表
1991年5月22日チリ代表戦でアイルランド代表デビュー。

▽クラブ
プレミアリーグ優勝。(マンチェスター・ユナイテッド)1994-95,1995-96,1996-97,1998-99,1999-2000,2002-03

1998-99 UEFAチャンピオンズリーグ優勝。FAカップ優勝。インターコンチネンタルカップ優勝。(マンチェスター・ユナイテッド)

他、リーグカップ、FAカップなど国内カップ戦優勝も複数回経験している。


■ロイ・キーンの主な所属クラブ

コーブ・ランブラーズ(アイルランド)1989年-1990年
ノッティンガム・フォレスト(イングランド)1990年-1993年
マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)1993年-2005年
グラスゴー・セルティック(スコットランド)2005年-2006年
2006年6月13日、現役引退を表明。



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ロマーリオ・デ・ソウザ・ファリア(Romário de Souza Faria、1966年1月29日 - )は、ブラジル出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(FW) 。 1980年代後半から90年代にかけて世界最高のストライカーのひとりであり、サッカーブラジル代表チームおよび各国のクラブチームで活躍した。

ワールドカップには1990年イタリア大会と1994年アメリカ大会に出場した。(ブラジル代表デビュー戦:1987年5月23日 対アイルランド戦)

問題児としても有名で、ホテルの窓から観光客に向かって小便をしたり、野次を飛ばしたファンに殴りかかったりと逸話は数知れず。一時期は問題児として名高いエジムンドと「バッドボーイズ」を形成した。性格に難があることは自分でも自覚しているようで、「自分が監督なら関わりたくない存在」と発言している。しかし、その気質が愛されてかブラジル国民からの人気は高い。

その存在感を示す逸話として、優勝した1994年アメリカワールドカップの南米予選時、監督と反りがあわず代表に呼ばれていなかったロマーリオが、「オレを召集したら次の試合で必ず2点取る」と公言、その通りに復帰戦で2点を決め、窮地に立っていたブラジル代表を救ったというエピソードが残されている。このような彼の有言実行ぶりは、熱狂的なファンを生んだ。

また、この1994年ワールドカップ前には移動の飛行機内でミューレルの隣の席を拒否した。

国内外の強豪クラブを渡り歩き、スペイン・バルセロナ在籍時の93~94シーズンは出場33試合で30ゴールという驚異的な決定力を発揮して得点王を獲得し、チームをリーグ優勝に導いた。そのあまりに常人離れしたプレーぶりから相手チームの監督からは「アニメの世界の住人だ」と評された。とりわけハット・トリックを達成した94年1月の対レアル・マドリード戦で奪った見事な先制ゴールは「牛の尻尾」と呼ばれ今でも現地のファンの間では語り草となっている。

2004年にフルミネンセに解雇されたが、自らがデビューしたCRヴァスコ・ダ・ガマに移籍。2005年ブラジル全国選手権で22得点を決め、得点王に輝いた。2005年末までの現役続行の予定だったが、米国下位リーグのマイアミFCに移籍し、現役を続けることになった。マイアミでは19得点を上げ、リーグの得点王になる活躍を見せた。その後、オーストラリアAリーグのアデレード・ユナイテッドに、リーグ戦4試合限定の「ゲストプレーヤー」として移籍する事が決定。前所属のマイアミFCとの親善試合なども契約に含まれている。

2007年から再び古巣のヴァスコ・ダ・ガマに復帰。1年間の内に3度移籍をしてはいけないというFIFAの規定によってFIFA側はその移籍を正式には認めていなかったが、ヴァスコ・ダ・ガマは「アデレード・ユナイテッド在籍は『招待』であり『移籍』ではない」と言う主張を掲げチームに帯同させ、試合にも出場させている。ちなみに、その復帰初戦では10分間でハットトリック達成の離れ業を演じている。

なお、ロマーリオは現役生活で通算990ゴールを挙げている(2007年2月現在)と主張しており、1000ゴールを達成するまでは現役を続けるものと予想されている。

本人曰く、プライベートでも仲が良かったのはバルセロナのチームメイトであったフリスト・ストイチコフと、ブラジル代表でチームメイトだったドゥンガ。特にドゥンガに関しては、「代表に召集されればいつでも行く」とコメントしている逆に仲が悪かったのはブラジル代表のチームメイトであったミューレルとベベット。ベベットに対しては「彼とはピッチの外では友達とはいえない」と発言している。


■ロマーリオのプレースタイル

小柄ではあるが、その卓越したポジショニングと恐ろしいほどの冷静さでゴールを量産。決して思いっきり打っているわけではないのだが、明らかに他のストライカーとはシュートタイミングが違うため、GKは何も出来ないことが多い。

またドリブルも非常に上手くスピードに乗った状態でも静止した状態からでも鮮やかに相手を抜くことが出来きる、かつてバルセロナの監督をしていたヨハン・クライフに「ロマーリオは止まった状態からでも30センチのスペースがあれば相手を抜ける、こんな選手ははじめて見た」と言われたことがる。

素晴らしいタッチのゴールによく「ロマーリオのタイミング」と評されることがある。

特に1994年のワールドカップアメリカ大会で挙げた5ゴールは屈強な守備の一瞬の隙をついた、彼らしいものだった。また多くのスーパースターがそうだったように天才的であるが故の傲慢さを併せ持ち、どんなプレッシャーの中でも平気だった。ゴール前やや左から裏へ抜け出し、右足アウトで逆サイドのネットを揺らすオランダ戦でのゴールでGKのエド・デ・フーイは全く無力だった。 世界中のどの選手よりも存在感のある選手と言われたこともあり、かのマラドーナも自著の中で「類まれなストライカーであり、過去の全ての世代をかき集めたオールスターイレブンを作るとしても迷うことなく名前を入れる」と述べている。

以前バルセロナに所属していたときエル・クラシコでハットトリックを決めた事がある、その際浮き球をエラシコでトラップして相手を抜き去り、いろんな人の度肝を抜いていた。


■ロマーリオの所属チーム

1978年 - 1980年 オラーリアAC(ブラジル)
1980年 - 1988年 CRヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)
1988年 - 1993年 PSVアイントホーフェン(オランダ)
1993年 - 1995年 FCバルセロナ(スペイン)
1995年 - 1996年 フラメンゴ(ブラジル)
1996年 - 1996年 バレンシアCF(スペイン)
1997年 - 1999年 フラメンゴ
2000年 - 2002年 CRヴァスコ・ダ・ガマ
2003年 - 2003年 フルミネンセ (ブラジル)
2003年 - 2003年 アル・サード(カタール)
2003年 - 2004年 フルミネンセ
2005年 - 2006年 CRヴァスコ・ダ・ガマ
2006年 - 2006年 マイアミFC(アメリカ合衆国)
2006年 - 2006年 アデレード・ユナイテッド(オーストラリア)
2007年 -    CRヴァスコ・ダ・ガマ


■ロマーリオのFIFAワールドカップでの活躍

ロマーリオのワールドカップは1990年のイタリア大会から始まった。イタリア大会ではカレッカ、ミューレルなどのライバルにポジションを奪われ、出場機会に恵まれなかった。

1994年のアメリカ大会では、5得点を上げてブラジルの4度目の優勝に大きく貢献、同大会のMVPと同年のFIFA最優秀選手に選出されスター選手の地位を不動のものにした。

1998年フランス大会は、直前の怪我のために出場できず。ブラジル代表は決勝でフランスに3-0で敗北し準優勝止まり。しかも、決勝ではエースのロナウドが不調で振るわなかった。

2002年の日韓共催ワールドカップでは、南米予選の後半で低迷するチームを救う救世主となるも、本大会のメンバー選考でルイス・フェリペ・スコラーリ監督の構想から外された。その事実を知ったロマーリオは、会見で人目を憚らず涙した。

2004年、代表チームからの引退。



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ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ (Ronaldo Luís Nazário de Lima, 通称「ロナウド」"Ronaldo" , 1976年9月22日 - )は、ブラジル出身のサッカー選手。セリエA (サッカー)のACミランに所属する元ブラジル代表のストライカー。


■ロナウド 怪我との戦い

1999年に右膝十字靭帯を部分断裂をするという怪我をするが2000年のラツィオ戦で今度は同じ箇所を完全に断裂するという悪夢のような出来事が起こってしまった。この怪我は普通はスキーやバレーボールの選手に起こる怪我で、サッカー選手に起こるのは稀。つまりロナウドの地を蹴るパワーが強すぎて起こってしまったのではないかと言われている。選手生命の危機が囁かれたが1年半以上に及ぶ長いリハビリの末に無事復帰する。

復帰後はリハビリで膝の筋肉を鍛えたため体重が増加し、走力とスタミナが以前より落ちたためにドリブルをする距離が短くなったと言われる。一時は100kgを越える体重を記録したこともあった。

しかし、足元のテクニックやディフェンスの裏へ抜け出ししてからの加速力とトップスピードの速さは相変わらず世界でもトップクラスであり、シュートの決定力やゴール前での狡猾さ・冷静さは若い頃より増した感がある。

シザースの名手としても知られ、左に持ち出す事が分かっていながら止められない事でも有名。

2006年6月28日(日本時間)のドイツW杯の決勝トーナメント一回戦ブラジル対ガーナ戦で、今大会3得点目、W杯通算15得点目を挙げ、ゲルト・ミュラー(西ドイツ)が打ち立てた14得点という大会得点記録を更新した。この大会では、体重の増加が「太り過ぎ」とされたことと、予選グループリーグの第1試合、第2試合でシュートを空振りするなど動きが悪かったことも重なり、母国を始めとしてメディアや評論家から「レギュラー失格」の烙印を押されていたが、第3試合の日本戦では2ゴールを挙げて批判を一気に沈静化させた。

しかしクラブではファビオ・カペッロが監督に就任後、年齢や太りすぎによる運動量の低下を理由に構想から外され出場機会は減っていった。2007年1月30日、アンドリー・シェフチェンコの放出でストライカーを探していたACミランに、移籍金11億、1年半の契約で移籍が決まった。背番号はすでに9番をフィリッポ・インザーギが着ているためか、背番号は99番になった。この契約に関し、ライバルクラブでありロナウドの古巣であるインテルのモラッティ会長が「不快である」とコメントした。


■ロナウド・ルイス・ナザリオ・ジ・リマ

▽ここぞという場面での決定力は世界1。そのプレイぶりから「怪物」、「フェノーメノ」 (fenômeno、ポルトガル語で信じられないような現象・人の意)というあだ名を持つ。

▽「攻撃の戦術が無い」と批判された当時のインテル監督ルイジ・シモーニが「私の戦術はロナウドだ」と言い返したのは有名な逸話で、卓越した個の力で高レベルの守備組織をも凌駕して1人で得点を取れる世界でも数少ない選手で歴史に残る偉大なストライカーの一人である。

▽20代前半までは鋼のような体で世界最高峰のボディバランス、瞬発力、トップスピードを誇っており、長い距離をドリブルしGKまで抜き去ってのシュートというのが度々見られた。テクニックも非常に高いものも持っておりストライカーとしての資質をすべて備えている。左右両足で正確で強烈なシュートをうてるのも特徴である、インサイドで流し込むシュートは非常に高い確率で枠を捉える。スピードだけではなくシュート技術の高さ、ポジショニングの上手さもロナウドの大きな武器のひとつ。ヘディングは不得意。相手からは「ボールを渡さない」、「反則でしか止められない」と言われたほど。膝の十字靭帯を断裂するという大怪我からの復帰後は、全盛期のような豊富な運動量こそなくなったが、ボールを持てば相手のDFを一瞬で置き去りにできる速さと巧さを合わせ持ち、怪物たる所以とされる。全盛期のロナウドに対しある雑誌では「ロナウジーニョのプレーは子供たちが真似をする、しかし、ロナウドのプレーは真似などできるわけがない」と評していた。

▽趣味にF1観戦があり、ヨーロッパで開催されるレースを中心にしばしば姿を見せているほか、2005年には、この年に開幕した国別対抗チームによる自動車レース選手権A1グランプリでブラジル代表チームの共同出資者の一人として名を連ねている。その他、ゴルフを趣味としている。


■ロナウドのエピソード

▽1993年クルゼイロECの一員として日本に来日。ジュビロ磐田とのプレシーズンマッチに出場しハットトリックを達成(試合は3対1)。なおこの際の試合会場は東京ドームである。

▽1996年のアトランタオリンピックにブラジル代表として出場したときの登録名称は「ロナウジーニョ」だった。また同大会のハンガリー戦では後半開始前のグラウンド上で座り込んで股間をボールで隠しながら放尿をするという前代未聞の行為をやってのけている。

▽1996年のバルセロナ移籍後のコンポステーラ戦で約60メートルをドリブルで次々とDFを交わしながら決めたゴールはナイキ社のCMにも使用され知名度が飛躍的に上がるきっかけとなった。

▽1997年、イタリア・セリエAに移った初年度に25ゴールを挙げ、同リーグにおいて1年目の外国人選手によるものとしての最多ゴール記録を樹立した。この記録は未だに破られていない。

▽2002年の日韓ワールドカップの途中に、前髪のみを三角形に残して残りの髪を全部剃るという奇抜な髪型にしたことがある(日本では、三角の前髪を海苔に見立てて「おにぎりカット」、またはドラマ『子連れ狼』の登場人物から「大五郎カット」と呼ばれた)。本人は非常に気に入っていたようだが、世界中のファン、果ては自分の息子からも「変だ」と総バッシングを食らい、結局ワールドカップ終了後すぐにやめてしまった。が、それは自身が緊張するあまりフランス大会で活躍できなかった轍を踏むまい、そして仲間達に踏ませまい、との心遣いだった。事実、当時のキャプテンことカフーから「至上最悪の髪型」と揶揄されるほどだったが、セレソン全てが和む事が出来、決勝戦での勝利という最高の形に繋げる事が出来た。

▽2002年の日韓ワールドカップ優勝の翌日、ロナウド1人が夜遊びから宿泊ホテルになかなか戻らず、このためチーム全員の出発時間が遅れた。

▽2002年のワールドカップ終了後、帰国に際して、空港でちょんまげのかぶり物をかぶりながら飛行機に乗っていった。
レアル・マドリードでのチームメイトだったジダンとともに、2003年から国連開発計画(UNDP)の親善大使を務めており、貧困撲滅キャンペーンへの協力とチャリティマッチを開催している。

▽2005年にスペイン国籍を取得した。ブラジル国籍は放棄していない二重国籍であり、所属チームの外国人枠を空けるための選択。なお、イタリアに移籍した現在でも規定によりスペイン国籍はEU圏内なので外国人とはみなされない。


■ロナウドの経歴

▽代表
代表デビュー 1994年3月24日 アルゼンチン代表戦
1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会 - 優勝(出場機会は無し)
1996年 アトランタオリンピック - 3位(銅メダル)
1998 FIFAワールドカップ・フランス大会 - 準優勝・MVP
2002 FIFAワールドカップ・日韓大会 - 優勝・得点王(8得点)
2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会 - ベスト8

この大会で3得点を挙げ、ゲルト・ミューラー(14得点)を抜きワールドカップ通算得点歴代1位(15得点)になる


▽クラブ
1996-97 UEFAカップウィナーズカップ - 優勝 (FCバルセロナ)
1997-98 UEFAカップ - 優勝 (FCインテル・ミラノ)
2002-03 トヨタ ヨーロッパ/サウスアメリカ カップ- 優勝 (レアル・マドリードCF)
2002-03 リーガ・エスパニョーラ - 優勝 (レアル・マドリードCF)


■ロナウドの主要な個人タイトル

1996年 - FIFA最優秀選手賞受賞
1997年 - FIFA最優秀選手賞受賞、バロンドール受賞
2002年 - FIFA最優秀選手賞受賞、バロンドール受賞

▽リーグ
1994-1995 オランダリーグ得点王(33試合30得点)
1996-1997 スペインリーグ得点王(37試合34得点)
2003-2004 スペインリーグ得点王(32試合24得点)

▽代表
2002年 FIFAワールドカップ 得点王(7試合8得点)


■ロナウドの所属チーム

89-91 ソシアル・ラモス(ブラジル)
91-93 サンクリストバン(ブラジル)
93-94 クルゼイロEC(ブラジル)
94-96 PSVアイントホーフェン(オランダ)
96-97 FCバルセロナ(スペイン)
97-02 FCインテル・ミラノ(イタリア)
02-07 レアル・マドリード (スペイン)
07- ACミラン (イタリア)



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テオフィロ・クビジャス(Teófilo Cubillas、1949年3月8日-)は、ペルー・リマ・プエンテ・デ・ビエドラ出身の元サッカー選手。

ペルーサッカー史上最大のスター選手の現役時代のポジションは攻撃的MF。フリーキックの名手としても知られた。

16歳の時にアリアンサ・リマでキャリアをスタートさせ、20歳でワールドカップメキシコ大会ではペルー代表の準々決勝進出に貢献。1972年には南米年間最優秀選手賞にも輝いた。 スイスのFCバーゼル、ポルトガルのFCポルト、再びアリアンサ・リマを経て、NASL(北米サッカーリーグ)でプレイ。

現在は、自身が所有する少年サッカースクールがあるフロリダ州・コーラルスプリングスに住み、サッカー解説者としても活動している。


■テオフィロ・クビジャスの所属クラブ

アリアンサ・リマ(ペルー)1964-1973
FCバーゼル(スイス)1973
FCポルト(ポルトガル)1973-1977
アリアンサ・リマ(ペルー)1977-1978
フォートローダーデール・ストライカーズ(USA)1979-1983
サウスフロリダ・サンフォートラーダーデール(USA)1984
アリアンサ・リマ(ペルー)1984
サウスフロリダ・サンフォートラーダーデール(USA)1985
アリアンサ・リマ(ペルー)1987


■テオフィロ・クビジャスの代表歴

ペルー代表(81試合26得点)
1970年 ワールドカップメキシコ大会(ベスト8、4試合4得点)
1974年 ワールドカップ西ドイツ大会(2次リーグ、6試合5得点)
1975年 コパ・アメリカ(優勝)
1982年 ワールドカップスペイン大会(1次リーグ、3試合0得点)


■テオフィロ・クビジャスの個人タイトル

1972年 南米年間最優秀選手賞


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ロベルト・リベリーノ(Roberto Rivelino、1946年1月1日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身のサッカー選手、指導者である。フォワード、ミッドフィールダーとしてプレイした。ニックネームはリーバ。

利き足である左足から巧みなフェイント、正確なパスや強烈なシュートを放ち、またフリーキックの名手でもあることから左足の魔術師と呼ばれた。


■リベリーノの略歴

1962年に名門クラブコリンチャンスに入団。1965年にトップチームの公式戦にデビュー。同年ブラジル代表に初選出されハンガリー戦に出場。

1969年にブラジル代表デビュー。メキシコワールドカップでは左ウイングのレギュラーとして3得点をあげるなど活躍し優勝に貢献した。ペレを擁したブラジルは圧倒的な強さを見せつけ史上最強のブラジル代表といわれた。

ペレの引退後のブラジル代表ではトップ下の位置で背番号10をつけ、ペレの後継者として活躍した。1974年のワールドカップでも3得点をあげた。この大会では対東ドイツ戦でみせたトリッキーなフリーキックが印象に残った。相手選手の作った壁の間にはいったブラジル選手(ジャイルジーニョ)がリベリーノがボールを蹴る直前にしゃがみ込む。ボールはそのわずかなすき間を通過しゴールにつきささった。全力で蹴ったにもかかわらず完璧なまでのコントロールであり、GKも一歩も動けない、まさにマジックのようなFKであった。

1978年のワールドカップではジーコを含めた若い選手の台頭もあり3試合の出場にとどまった。リベリーノはワールドカップに3度出場、15試合6得点。代表公式戦には通算94試合出場、26得点をあげた。

晩年はサウジアラビアのアル・ヒラルでプレーし1982年に引退。

1994年に清水エスパルスの監督に就任したが成績不振のためセカンドステージのみで辞任した。

2003年から2004年までコリンチャンスでゼネラルマネージャーを務めた。


■エラシコ

エラシコはリベリーノが得意にしていたフェイントの一種でポルトガル語で輪ゴムの意。 リベリーノのエラシコは左足のアウトサイドをボールに軽く当て相手にその方向へ行くと思わせ、すぐ次の瞬間に同じ足のインステップで切り返し相手を抜き去るという難易度の高い技である。インステップで切り返した時にボールが指ではじいた輪ゴムのように素早く移動することからエラシコと名付けられた。 リベリーノがエラシコの発明者といわれることもあるが、一説にはコリンチャンスのチームメイトであったセルジオ越後がリベリーノに教えたともいわれる。 現在の使い手としては同じブラジルのロナウジーニョがあまりにも有名。彼によってエラシコの名が一躍有名になったと言っても過言ではない。


■リベリーノの所属クラブ

コリンチャンス(ブラジル) 1962-1975
フルミネンセ(ブラジル) 1975-1978
アル・ヒラル(サウジアラビア) 1979-1982



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エドソン・アランテス・ド・ナシメント KBE(Pelé, 本名Edson Arantes do Nascimento, 1940年10月23日 - )は、ブラジルトレス・コラソンエス出身の元サッカー選手。


■サッカーの王様『ペレ』

20世紀最高、あるいはサッカー史上最高と評される選手。「サッカーの王様」と称される。

171センチと小柄であるが身体能力が抜群で、バランス感覚に優れ自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった。ペレのプレースタイルは、「パーフェクトバランス」という言葉に集約される。ペレは左右の足を完璧に、強弱の差なく使いこなした唯一のプレーヤーであるともいわれる。また、小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングも得意としており、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせているなど、サッカー選手に必要な全ての才能を持ち合わせていた。 その一方で、自分勝手で傲慢なプレーに走ることは決してなく、自らのゴールを減らしてでも周りの選手の能力を最大限に引き出す献身的なプレイヤーでもあった。

自らの実力に絶対の自信を持ち、マラドーナやミシェル・プラティニも上回ると自らを評するヨハン・クライフが、唯一賞賛を惜しまない相手こそ、このペレである。

ブラジル代表デビューは1957年7月7日で、当時まだ16歳。ワールドカップには、1958年のスウェーデン大会に17歳で初出場。準決勝でジュスト・フォンテーヌを擁するフランスを相手にハットトリックを達成し、世界中を驚かせた。その後計4大会に出場し、3度の優勝に大きく貢献。 ワールドカップでは、「ヨーロッパ大会では南米勢は優勝できない」、というジンクスがあるが、スウェーデン大会で唯一このジンクスを破ったのがペレである(ワールドカップのもう一つのジンクスである「開催国は強い」というジンクスから、スウェーデンが優勝する事が予測されたが、ペレの技がそのジンクスを上回った事になる。その上手さは、ペレがゴールしたとき、スウェーデンのディフェンス陣が、余りにも見事に抜かれたためペレの元へ祝福に駆け寄った、という逸話がある)。 1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年。生涯通算成績、1363試合出場、1281ゴール。 公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である。 1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックはなんと92回。1試合最多得点は8点。

ペレは後述のエピソードが表すように人格的にも非常に尊敬されており、引退後も仕事が後をたたなかった。この為ペレが生涯稼いだ金は現役時代よりも、引退後の仕事で得た報酬のほうが多い。

スパイク契約はプーマである(後年プーマのCMにも出演した)。彼にあやかってプーマのスパイクを愛用したサッカー選手は数多い。


■ペレのエピソード

現役時代には、ペレのプレーを見るためにナイジェリアとビアフラの内戦が中断した、ペレの暴言にレッドカードを出した主審が逆に退場を命じられる、ユベントスにいたっては、ペレに対し「好きな金額を書いてください」と言わんばかりに白紙の小切手を送ってきた、など数々の逸話がある。

▽1981年にはサッカーを題材とした映画「勝利への脱出」(原題:ESACEPE TO VICTORY)に出演。

▽1995年から3年間はブラジルのスポーツ長官を務め、他にも多くのスポーツ団体への寄付など、スポーツ普及のため尽力。

▽1999年にブラジルで自動車強盗に遭遇したが、強盗に向かって「ペレだが」と告げたところ強盗は「すみません」と謝って何も盗らず逃走したという。以前自動車強盗にあったロマーリオは金を奪われたため、やはり選手としての格が違うと語られることになった。

▽バイアグラのCMに出演していたことがあるが、ペレ自身はEDではない。94年には22歳年下の女性と再婚し、前の夫人との間に1男2女、現在の夫人の間に2女、隠し子で1女の計1男6女がいる。

▽「ペレ」の愛称の由来はペレの父親の所属していたサッカーチームのGKのベレの大ファンであったが、そのころのペレは幼かったのでBの発音が出来なくてPと言っていたのでPel?が愛称になった。本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、友人と喧嘩になったこともある。

▽ブラジルの国民的英雄のひとりではあるが、ブラジル中に隠し子がいるというスキャンダルもあり、ブラジル人からはペレよりジーコの方がより英雄視されているという。

▽FIFAワールドカップの優勝国予想がことごとく外れ続けることで有名であったが、2006年ドイツ大会のイタリアの優勝で、連敗にピリオドを打った。

▽2002年のF-1ブラジルグランプリでゲストに招かれ、チェッカーフラッグを振る役を任された。しかし最終ラップでスタッフと打ち合わせしている間に1位のミハエル・シューマッハ、2位のラルフ・シューマッハが通過してしまい、3位からようやくチェッカーを振るという珍事となった。


■ペレの所属クラブ

1954 - 56 : バングー
1956 - 74 : サントス
1974 - 77 : ニューヨーク・コスモス (アメリカ)



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パウロ・ロベルト・ファルカン(Paulo Roberto Falcão、1953年10月16日 - )は、ブラジル出身の同国代表サッカー選手・サッカー日本代表元監督。

サッカーブラジル代表のMFとして活躍、特に全盛期はジーコ、トニーニョ・セレーゾ、ソクラテスとともに黄金のカルテットと称された。クラブチームではイタリアのASローマで長く活躍し、リーグ優勝に貢献した。「ローマの鷹=ファルカン」とも称された。

現役引退後、ハンス・オフトの後を継ぎサッカー日本代表監督を務めたが、成績不振のため、1年ともたず解任された。これにより、親日派のジーコとは対照的に日本嫌いになったと言われる。


■パウロ・ロベルト・ファルカンの監督評価

現役時代のファルカンは、ドトール(先生・博士)と称され事実整形外科医でもあるソクラテスに劣らず、その言動、振る舞いより理知的なサッカー選手として知られ、卓越した戦術眼により「走る指揮官」の異名をとった。そのことから現役引退後は、誰もが「名監督」になると信じて疑わなかった。

しかし、引退後のファルカンは、今日に至るまで「名監督」の評価を得ていない。それどころか「凡将」という評価が一般的であるとすら言ってよい。

しかし、ファルカンを「凡将」と単純に定義すべきかは疑問の余地がある。

1991年にセレソン・ブラジル代表監督に就任。カフーら若手選手を中心に代表招集し、コパアメリカに挑み、準優勝の成績を上げるが解任の憂き目に会う。この時、ファルカンが抜擢した選手の多くが、数年後、ブラジル代表の中心選手となっていくのだった。

「ドーハの悲劇」後、ハンス・オフトの後任として1994年、日本代表監督に就任する。この頃、日本サッカー協会には外国人指導者の情報・ルートはほとんど無かった。当時の強化委員長・川淵三郎もファルカンをよく知らないで起用した。テレ・サンターナには高額年俸を吹っ掛けられ、その他弱小国の日本に優秀な指導者が進んで来る筈もなく、名前だけでファルカンを起用した。世界から大きく遅れをとった当時の現状とも言えた。ファルカンは当然、4年後のフランスワールドカップまで指揮をしていくものと考え、オランダ2部エクセルシオールで実績を上げ帰国した小倉隆史はもちろんのこと、前園真聖、名塚善寛、岩本輝雄、山口敏弘ら、多くの若手選手を代表に抜擢する。

しかし、就任直後のキリン杯にフランス代表に惨敗、広島で行われたアジア大会準々決勝で韓国代表に敗れると日本サッカー協会に解任され「コミュニケーションに問題があった」として加茂周を新監督に任命する。

解任されたファルカンは、「アジア大会の結果で契約更新が決まるとは聞いていない。もしそうなら、若手でアジア大会に臨まない」と大いに不満を述べた。敗れた韓国戦は、およそホームとは思えない疑問が残る韓国優位のジャッジで、決勝点も不可解なジャッジでのPKであった。アジア大会に臨時代表スタッフに入ったセルジオ越後氏も、ファルカンの采配は妥当なものだったと弁護している。しかしながらその後もファルカンは、クラブチームの指揮をしているが目立った成績を残せていないのが実情である。


■パウロ・ロベルト・ファルカンの所属クラブ

インテルナシオナル(ブラジル)1963-80
ローマ(イタリア) 1980-85
ヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)1985-86
サンパウロ(ブラジル)1986-89
国際Aマッチ通算36試合9得点



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ニウトン・サントス(Nílton Santos、1927年5月16日-)は、ブラジル出身の元サッカー選手。

エンシクロペディア(百科事典)のニックネームを持ち、ブラジル代表とボタフォゴで活躍した左サイドバック。若い頃はフォワードだったこともあり、守備よりもスピードのある攻め上がりや、左足の強烈なシュートが持ち味だった。

ブラジル代表としては右サイドバックのジャウマ・サントスと共に攻撃的な両サイドバックとして活躍し、2度のワールドカップ優勝に貢献した。


■ニウトン・サントスの所属クラブ

フレチェイレス(ブラジル)-1948
ボタフォゴ(ブラジル)1948-1964


■ニウトン・サントスの代表歴

ブラジル代表(1949年-1963年、75試合3得点)
1954年 FIFAワールドカップ(ベスト8、3試合0得点)
1958年 FIFAワールドカップ(優勝、6試合1得点)
1962年 FIFAワールドカップ(優勝、6試合0得点)



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ソクラテス(本名Sócrates Brasileiro Sampaio de Souza Vieira de Oliveira、1954年2月19日-)は、ブラジル出身のサッカー選手。実弟は同じくサッカー選手のライー。

1982年、1986年のFIFAワールドカップにブラジル代表として出場。 1982年スペインワールドカップの、ブラジル代表中心メンバーの一人で、ジーコ、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとともに黄金のカルテットと呼ばれた。 コリンチャンスでプレーしていた。

キックの大半は右足からの正確なインサイドキックであったが、ヒールキックは、彼が世界に広めたといっても過言ではない。またPKの蹴り方がきわめて独特であり、ほとんど助走をつけず、蹴る前に一瞬間を作って蹴る。

現在は医師。その免許は現役時代に取得しており、「ドトール」の愛称で呼ばれた。


■ソクラテスの選手経歴

ボタフォゴFC(ブラジル)1974-1978
コリンチャンス(ブラジル)1978-1984
フィオレンティーナ(イタリア)1984-1985
フラメンゴ(ブラジル)1986-1987
サントスFC(ブラジル)1988-1989
ボタフォゴFC(ブラジル)1989


■ソクラテスの代表歴

ブラジル代表(1979年-1986年、63試合25得点)



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ジュニオールことレオヴェジウド・リンス・ダ・ガマ・ジュニオール(Leovegildo Lins da Gama Júnior 1954年6月29日-)は、ブラジル出身の元サッカー選手。ポジションはDF(左サイドバック)、MF。

ワールドカップスペイン大会のブラジル代表と言えば、ジーコなど「黄金の四人」に注目が集まりやすいが、左右サイドバックに入ったジュニオールとレアンドロの攻め上がりを抜きにしては語れない。特に足元の技術に長けたジュニオールは、サイドバックながら多くの時間を中盤より前のエリアでプレイし、ブラジル代表のサイド攻撃を支えた。

1980年代中盤頃からはMFとしてプレイし、ワールドカップメキシコ大会にはMFとして出場した。

2006年には、チッタとともにスカウティング担当として、ジーコ監督率いるワールドカップドイツ大会の日本代表スタッフに加わった。


■ジュニオールの所属クラブ

フラメンゴ(ブラジル)1973-1984
トリノ・カルチョ(イタリア)1984-1987
ペスカラ(イタリア)1987-1989
フラメンゴ(ブラジル)1989-1993


■ジュニオールの代表歴

ブラジル代表


■ジュニオールの指導者歴

フラメンゴ監督(ブラジル)1993-1994
フラメンゴ監督(ブラジル)1997
コリンチャンス監督(ブラジル)2003


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ジーコ(Zico、本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ〔Arthur Antunes Coimbra〕、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身のサッカー選手、現サッカー指導者である。

「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィッコとなる。現在でも、ブラジルではペレやF1のセナと並ぶ国民的英雄である。


■ジーコのプロフィール

父親はポルトガル系移民である。元鹿島アントラーズ監督のエドゥーを含む兄2人もサッカー選手だった。 幼少時代は、兄たちに混じってサッカーをすることが多かった。体は小さくやせっぽっちだったにも関わらず、テクニックは群を抜いていて上級生に混じっても簡単に活躍できる才能があった。

▽フラメンゴ
入団当初はテクニックは通用するが「やせっぽち」であることが致命的になり、ジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった。そして、計画は成功して競り合いに負けない強靱な体を手に入れた。その後リオデジャネイロを代表するサッカーチームで、ブラジルリーグの名門、フラメンゴのミッドフィールダーとして活躍し、ホームスタジアムから「マラカナンの英雄」といわれた。また、同じくブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ、「白いペレ」とも呼ばれていた。

▽ワールドカップ
FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場。1982年のスペイン大会ではソクラテス、ファルカン(元日本代表監督)、トニーニョ・セレーゾ(前鹿島監督)とともに「クワトロ・オーメンズ・デ・オーロ(黄金の4人)」を形成。今も「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられる。自身はスルーパスとフリーキックを武器に世界中のファンを魅了した。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金の4人」はこのチームが語源。

▽来日
1990年に一度現役を退き、ブラジルスポーツ省の初代長官に就任したが、1991年に住友金属サッカー部(現・鹿島アントラーズ)に入団。旧2部リーグの弱小チームを日本を代表するサッカークラブに成長させ、Jリーグ初のハットトリック記録など日本のサッカー界を積極的に盛り上げ、鹿島町(現・鹿嶋市)からも表彰される。1994年第1ステージで現役を退き、同チームのテクニカル・アドバイザーとなる。

▽日本代表チーム監督
2002年7月22日にサッカー日本代表チーム監督に就任。

▽2006年以降
日本代表監督を退任後、2006年7月4日にトルコ・シュペルリガのフェネルバフチェの監督に就任。以前より希望していた欧州クラブの監督ではないものの、UEFAに所属しているリーグの監督となった。


■ジーコの評価

2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。また、ペレに次ぐブラジル歴代代表3位の66得点(88試合。MFでありながらこの数字には驚くべきである)を刻んだジーコが見事栄冠に輝いた。

サッカー日本代表の親善試合でイギリス遠征中、ジーコやスタッフの待機する控え室にベッカムが「少年時代のヒーローだった」と正装姿で突然訪れたり、ブラジル代表のアドリアーノがジーコのサインを欲しくて中田英寿に直接交渉したりと、現代のスーパープレイヤー達も崇拝する名実共にサッカー界の英雄であり、その知名度ゆえ各国のメディアに対する発言力も大きい。

▽「サッカーの神様」
飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多い。ただしジーコ自身はカトリック教徒であるため、日本の宗教観念を理解してはいるものの、この呼称を好ましくは思っていない。


■ジーコのプレイスタイル

ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせた1980年代の10番の典型。右足から繰り出される長短のパスの正確さは世界最高で、前線に張る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングで正確無比なパスを飛ばす。むろんプレースキックも大きな武器だった。得点能力という点ではFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MFのお手本とも言える。

ジーコが活躍した当時のブラジル代表には才能溢れる選手(ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾなど)が沢山いた。その中でなぜジーコが際立って目立ったのだろうか。それは、おそらくジーコが「ボールを持てば何かを起こせる」選手であり、「0からワンプレーで、そして一瞬でチャンスを創り出す」力を持った選手であったからである。これは、ブラジル代表の10番に最も求められる能力で、ペレからジーコへ、ジーコからリバウド、そしてドイツワールドカップではロナウジーニョへと受け継がれてきた。この先にもカカやロビーニョなど、10番を背負うだけの力のある選手たちが次々と現れている。昔とはサッカーのスタイルが変わってしまった現代においてもその伝統は脈々と受け継がれている。



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カルロス・アウベルト・トーレス(Carlos Alberto Torres、1944年7月17日 - )は、ブラジル・スドナバラ出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー(右サイドバック、センターバック)。

攻撃的サイドバックの創始者とも言える選手で、クラブチーム・代表チームの両方で「王様」ペレのチームメイトとして活躍した。サントス時代には5度のリーグ優勝に貢献。

カラーテレビ放映が開始された1970年のW杯メキシコ大会にはブラジル代表キャプテンとして出場。 特に決勝戦での得点は彼のハイライトとも言うべきもので、完全に相手ディフェンダーの裏を取ってオーバーラップし、そこからダイレクトでファーサイドのゴールを射抜いてみせた。ブラジルに最後のジュール・リメ杯をもたらしたこのスーパーゴールは、ブラジル国民の魂を熱く喚起させる素晴らしいものだった。

現役引退後はフラメンゴや各国代表チームの監督を歴任。2004年、ペレが選ぶ世界の名プレーヤー「FIFA 100」のひとりに選ばれた。

1995~99年にJリーグの名古屋グランパスエイトで活躍したトーレス(Carlos Alexandre Torres)は実の息子に当たる。


■カルロス・アウベルトの所属クラブ

1963-65 フルミネンセ(ブラジル)
1965-71 サントス (ブラジル)
1971   ボタフォゴ (ブラジル)
1972-76 サントス(ブラジル)
1976   フルミネンセ(ブラジル)
1977   フラメンゴ(ブラジル)
1977-81 ニューヨーク・コスモス(USA)
1981   ニューポート・ビーチ(USA)
1982   ニューヨーク・コスモス(USA)


■カルロス・アウベルトの指導経歴

1983-85 フラメンゴ(ブラジル)
1986-87 ナウチコ(ブラジル)
1987-93 マイアミ・シャークス(USA)
1995-97 ナイジェリア
2000-01 オマーン
2001   ザマレク(エジプト)
2004-05 アゼルバイジャン


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マリオ・アルベルト・ケンペス (Mario Alberto Kempes, 1954年7月15日-)は、アルゼンチン出身のサッカー選手。ポジションはFW。

華麗な身のこなしとその得点力から『エル・マタドール(闘牛士)』と称されたストライカー。

地元開催となった1978年アルゼンチンワールドカップで6得点を挙げ得点王となり、アルゼンチンのW杯初優勝に大きく貢献した。

2004年3月にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』に選出された。

代表デビュー:1973年9月23日
代表通算:43試合出場 20得点


■マリオ・アルベルト・ケンペスのワールドカップ経歴

1974年西ドイツW杯: 6試合 無得点(2次リーグ)
1978年アルゼンチンW杯: 7試合 6得点(優勝)
1982年スペインW杯: 5試合 無得点(2次リーグ)
W杯通算: 18試合 6得点


■マリオ・アルベルト・ケンペスの個人タイトル

ワールドカップ得点王:1回
1978年:6得点
リーガ・エスパニョーラ得点王:2回
1976-77年:24得点
1977-78年:28得点
南米年間最優秀選手:1回
1978年


■マリオ・アルベルト・ケンペスの所属チーム

1971-73年 インスティトゥート・コルドバ(アルゼンチン)
1974-76年 ロサリオ・セントラル(アルゼンチン)
1976-81年 バレンシア(スペイン)
1981-82年 リバープレート(アルゼンチン)
1982-84年 バレンシア(スペイン)
1984-86年 エルクレス(スペイン)
1986-87年 ファースト・ヴィエナ(オーストリア)
1987-90年 サンクト・ペルテン(オーストリア)
1990-92年 クレームス(オーストリア)
1995年 フェルナンデス・ビアル(チリ)
1996年 ペリタ・ジャワ(インドネシア)


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ハビエル・ペドロ・サビオラ(Javier Pedro Saviola, 1981年12月11日 - )は、アルゼンチン共和国ブエノスアイレス出身、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナに所属するアルゼンチン代表のサッカー選手。 ポジションはFW。

愛称は「コネホ(ウサギ)」。ヘルマン・ブルゴスが名付け親である。

生家はブエノスアイレス市内でも有数の富裕層が住む住宅街にあり、彼の家も富裕層といえる。 10歳でリーベル・プレートのユースに加入し、1998年に16歳でトップチームに昇格。翌年には大活躍を見せ、南米年間最優秀選手に輝いた。

更に2001年のワールドユースでは、7試合11得点でU-20アルゼンチン代表の優勝に貢献するとともに、自身も得点王とMVPを受賞した。

その活躍が認められて2001年、スペインのFCバルセロナへ移籍。後の移籍までの3年間連続で年間20ゴール以上の活躍を見せた。 前会長ジョアン・ガスパールと結んだ法外な契約とサミュエル・エトーとラーションが加入したことにより2004-2005シーズンにASモナコ、翌年はセビージャへと、相次いでレンタル移籍してプレーした。

レンタル期間の終了によりFCバルセロナへ戻るもそこには2シーズン続けて年間30ゴール以上決めたサミュエル・エトーが大エースとして君臨しており、クラブはレンタル先で著しい結果を残せなかったサビオラを他クラブへ完全移籍させることを切望したが、サビオラ本人は高額な年棒が保障されるバルサとの契約を選択し残留。FCバルセロナ所属のまま2006/07シーズン開幕を迎えた。背番号22が与えられ、プレシーズンのアメリカ遠征にも召集された。

前会長の負の遺産とも言われるサビオラの契約は年棒500万ユーロ以上、さらに1ゴール6000ユーロ+タイトルボーナスと言われており、これはチームメイトのロナウジーニョ、サミュエル・エトーの次に高額でチームの心臓であるデコやシャビよりも高額。

またその幼い顔つきから女性に圧倒的に人気があり、「サビオラは女性にしかサインしない」と揶揄されたこともある。

好きな選手はパブロ・アイマールとシャビ。また、2人とは親友関係にあり、サビオラへのアシストの供給源でもある。


■ハビエル・ペドロ・サビオラのプレースタイル

やや引いた位置でボールを受け、抜群の敏捷性とスプリント力を生かした高速ドリブルやワンツーで相手を置き去りにしゴールを決める。 シュートレンジは広くないもののエリア内での動きは俊敏でヘディングも得意。


■ハビエル・ペドロ・サビオラの所属チーム

1998-1999 リーベル・プレート 20試合 7得点
1999-2000 リーベル・プレート 31試合 17得点
2000-2001 リーベル・プレート 35試合 20得点
2001-2002 FCバルセロナ  36試合 17得点
2002-2003 FCバルセロナ  36試合 13得点
2003-2004 FCバルセロナ  33試合 14得点
2004-2005 ASモナコ     29試合 8得点
2005-2006 セビージャFC  29試合 9得点
2006-2007 FCバルセロナ


■ハビエル・ペドロ・サビオラのタイトル

1999年 アルゼンチン前期リーグ得点王
1999年 アルゼンチン前期リーグ最優秀選手
1999年 アルゼンチン前期リーグ新人王
1999年 南米年間最優秀選手
2001年 FIFAワールドユース選手権 得点王・MVP
2004年 アテネ・オリンピック 金メダル


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ハビエル・サネッティ(Javier Zanetti、1973年8月10日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の同国代表プロサッカー選手。ポジションはDF。

イタリアのインテル・ミラノでプレー。アルゼンチン代表としても長く活躍している。キャプテンシーに溢れ、その闘志溢れるプレーはファンにこよなく愛されている。右サイドならどこでもプレー出来、チーム状況によってはサイドハーフからウイング気味のプレイまでこなす鉄人。最近ではセントラルな位置でもプレーしている。サイドの選手ではあるが、サイドからクロスを上げるよりも、中に切れ込んでいくドリブルを得意としている。ドリブルで2~3人抜くことはざらにある。2006年FIFAワールドカップでの活躍も期待されていたが同僚のワルテル・サムエルと共に惜しくも落選した。故障も少なく常に試合に出場できる安定感抜群の選手である。

インテル在籍は10年を越え、欧州カップ戦100試合出場、セリエA出場500試合という記録を残している


■ハビエル・サネッティの所属クラブ

CAタジェレス(アルゼンチン) 1992-1993
CAバンフィールド(アルゼンチン) 1993-1995
インテル(イタリア) 1995-


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ディフェンダー (defender) は、サッカーにおけるポジションの一つであり、主に守備を担当する。略号はDF。かつてはバックスとも呼ばれた。

一般に必要とされる能力は相手のドリブルなどに対応できるスピード、他の選手への的確なコーチング、確実性。能力の高い選手は展開を読んでDFラインを統率したり、フィジカルの強さで相手FWを止めたりすることができる。近年のサッカーではさらに高さ(ヘディング)への対応も重要になってきたことから、DFには長身の選手を据えることが多くなっている。そういった選手は味方のコーナーキックなどのチャンスには攻撃参加するなどの攻撃に対する意識も問われる。


■サイドバック (SB)
(英) fullback

4バックのディフェンスラインの外側、左右両サイドに位置するディフェンダーのこと。基本的にはピッチ両サイドの守備を担当するが、ディフェンスラインのラインコントロールにも参加し、CBのカバーに回ったりもする。またチャンスの時には、積極的にサイドをオーバーラップして攻撃に参加、クロスを上げるなどして、前線で攻撃的選手の手助けをする。攻め上がる回数はセンターバックよりは多いが、ウイングバックと比べると少ない。

相手チームのサイドアタッカーを1対1の勝負で抑えこめる体格や守備技術、試合中ずっとサイドラインを駆け上がっては戻るということを繰り返すための持久力や運動量が求められる。 その特性上1対1の突破よりも、主にサイドアタッカーのサポートやスペースへの動き出しが重要視される。

(サイドバックは和製英語で、英語では fullback、特に左の fullback を left back、右の fullback を right back と呼ぶ。ただし、最近の日本製サッカーゲームによって、sideback という言葉が海外に逆輸出されている)。


■センターバック (CB)
(英) centreback (centerback)、central defender、centre half (center half)

ディフェンス・ライン中央のゴール前方に位置するディフェンダーのこと。 相手選手のマークをし、地上でも空中戦でも相手を抑え込むことを担当する。 また最終ラインの統率、及び攻撃面でのビルドアップを担当することもある。


◇ストッパー (ST)
(英) stopper

センターバックのうち、相手フォワードをマークして攻撃の機会を奪う役割の選手のこと。


◇スイーパー、スウィーパー (SW)
(英) sweeper

センターバックのうち、特定の相手選手を1対1でマークせず、他のディフェンダーの後ろに位置し、カバーリングや他のディフェンダーへ指示を出す役割の選手のことを言う。


◇リベロ (LIB)
(伊) libero

スイーパーの中でも、チャンスのときには積極的に攻撃参加する選手のことを言う。元々は、イタリアのカテナチオという戦術におけるスイーパーのこと。相手FWをマンマークをする他のDFとは別に、1人余って特定のマークする相手を持たない=「(マンマークの守備から)自由な人」ということで、イタリア語で「自由」を意味する『リベロ』と呼ばれた。その後、旧西ドイツ代表のフランツ・ベッケンバウアーが、機を見て攻撃参加のために前線に上がるというこのポジションのスタイルを確立したと言われている。(それに対し元オランダ代表ヨハン・クライフが始めたポジショニングこそが正しいリベロと言う意見もあるが、一般的ではない。この場合はイタリア語の「自由」の意味通り、全く固定の位置はなかった)。



■ウイングバック (WB)
(英) wing back

3-5-2のフォーメーションで、「5」の両サイドに位置する選手のこと。日本ではMFに分類されることが多い。ウイングのような攻撃的な位置からバックスの守備的な位置まで動き回るポジション。サイドでのディフェンスからフォワードまでの役割を全てこなす。つまりウイングのような動きをするサイドバックのことで前線に上がる回数はサイドバックと比べると多いが、サイドを一人で担当することになる為、より運動量が必要。

この呼称は、もともと90年代初頭にドイツなどで使われるようになったものである(3-5-2のシステム自体は80年代半ばからあった)。3バック自体は、4-4-2のフォーメーションの2トップに対応して生まれた。それまでは4バックが主流だったのが、FWを2人にするのが当たり前になってきたため、「2人のFWに対して4人で守る必要は無い」との考えから、センターバックの人数を1人増やし、2トップにつけた2人のマンマーカーとそのカバーリングをするスイーパー1人の計3人が最終ラインに残った。その代わりに、マークすべき相手がいなくなったサイドバックが、より前方に位置するようになったのである。攻撃もサイドバックより積極的に上がるようになり、「ウイングのような役割もするバック」ということでウイングバックと呼ばれるようになった。

上がったウイングバックのカバーは、守備的MFが務める。


■ディフェンダー 関連記事

ゴールキーパー
リベロ
ミッドフィールダー
センターハーフ
ボランチ
サイドハーフ
ゲームメーカー
トップ下
フォワード
ウイング



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リベロ(Libero)はサッカーのポジションの一つ、ディフェンダーの一種。 イタリア語で「自由な人」という意味。元々はマンマークすべき相手のいない「自由な」ディフェンダーであったことから、そう呼ばれるようになった。

スイーパーの一種で、守備においてはフィールドプレーヤーの最後尾で、ディフェンスラインの後ろのスペースをカバーしつつ、チーム全体の守備を統率する。そしてチャンスがあれば、相手陣内まで上がって攻撃参加する。


■リベロの起源

冒頭で述べたように、イタリア語で「自由」という意味を持つポジション。なぜ「イタリア語」なのかというと、それは、イタリアのカテナチオという戦術の中でのポジション名だったからである。 カテナチオとは、FW以外のほとんどの選手を相手チームの選手にマンマークでつかせ、ディフェンスラインの後ろ、チームの最後尾に一人だけ、マークすべき選手を持たない「自由に守る」選手を置いた戦術のこと。

カテナチオの基となる戦術自体は他国で生まれたものだったが、それを使いこなして有名にしたのはイタリアのクラブ、インテルであった。そのため、カテナチオ、リベロとも、イタリア語で歴史に名前を残すこととなった。

一方、このポジションのことを、英語ではスイーパーと呼んだ。スイーパーとは、DFの中で、マーク相手を持つストッパーの後ろでそのカバーをする役目の選手のことである。だからこの時までは、リベロ=スイーパーであった。

しかしその後、ドイツのフランツ・ベッケンバウアーが、スイーパーとしての役割をこなしつつ、攻撃にも参加するという新たなスイーパーのスタイルを確立した(スイーパーは元々、マーク相手を持たないので、攻め上がることは容易であった)。そして、それまでのスイーパーと区別するために、攻撃に参加するドイツ流のスイーパーをあらためて「リベロ」と呼んで区別するようになったのである。


■ドイツのリベロ

ドイツ流のリベロには、攻め上がるというその役割上、かなり高い能力が求められる。もちろん「攻め上がる」というのは、チーム戦術にそれが組み込まれているという意味で(DFが時々攻め上がること自体はそんなには特殊ではない)、自由気ままに、という意味ではない。

「リベロ=自由人」というと、「自由に攻め上がる」と勘違いする人が多いが、実際に攻め上がるのはかつてのドイツのリベロくらいなもので、本当に自由に攻め上がる「フリーポジション」という意味でのリベロにいたっては、オランダのルート・フリットくらいのものだろう(実際フリットは、サンプドリア時代、「フリーロール(=自由な役割)」と呼ばれていた)。リベロの攻め上がりを基本戦術とするということは、選手個人にかなりの能力を期待して戦略を立てるということであり、もちろんそんな能力を持った選手は、それほど多くはないからである。

ただドイツの場合、以前は優れた能力を持った選手は、一度はリベロをやらされていた。アンドレアス・メラーなどもリベロに置かれたことがあるくらいである。


■現代サッカーにおけるリベロ

現在、スイーパー型のリベロは存在するが、ドイツ式のリベロは、ほとんど見られない。現代サッカーでは、試合の流れの中で守備陣が攻撃参加する戦術としては、サイドバックあるいはウイングバックがオーバーラップする形が主流だからである。 リベロは今で言うCBのポジションであるが、そこから前線へ攻め上がる姿は稀に見られる程度である。それもあくまでCB個人の状況判断によるものであって、戦術としては現代の主流ではない。 今でもディフェンスラインを3バックで構成する場合、ストッパー2+リベロ1の形が多いが、その場合のリベロは、大体スイーパーである。近年ではダブルボランチを置くチームが多く、うち一人が攻撃に参加する場合が多いため、更に中央のディフェンスが、リスクを冒してまで攻撃に出る必要がないという事もある。

ドイツのリベロも、90年代初頭のローター・マテウスの頃にはすでに、DFラインに欠かせない存在ではなくなっていた。その頃のリベロは、リベロとはいってもフォア・リベロ(フォアシュトッパー)だった。守備力ではなく中盤でゲームを構成する力(攻撃力)を持った選手(例えばトーン、マテウス、ザマーなど)を、ディフェンスラインの前に配置するというものであった。つまりディフェンダーから、DFラインの前に位置する戦術的制約を受けない下がり目のミッドフィールダーへと変化していたのである。そして彼らの上がったスペースを消すために、3バックの相棒2人には強力なストッパーを配置した(アウゲンターラー、ヘルマー、コーラー、ブッフバルト等)。

ドイツ人以外の他にリベロといえば、ロナルト・クーマン、フランコ・バレージ、ガエターノ・シレア、ダニエル・パサレラ等が有名。

日本でリベロというと井原正巳や、韓国では洪明甫がそう呼ばれたことがある。彼らはシュート力があった(洪明甫は中盤としてもプレーできるタイプであった)ので攻撃に参加することがあったが、それは負けている試合の最後の攻撃であるとか、クラブチームやアジア1次予選など、相手が滅法弱い場合に限ってのことで、相手が強かったりビッグゲームでリスクを冒して前に出る事は無かった。

守備重視、堅守速攻が主流のサッカーが世界的に続いているため、実質絶滅しているポジションかもしれない。



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トレクァルティスタ(TREQUARTISTA)は、イタリアのサッカーのポジションを表す言葉。イタリア語で、「4分の3の人」という意味。すなわち、フィールドを四等分したとき、三番目の位置(つまりハーフウェイラインから敵陣ペナルティーエリアまでのゾーン)を主戦場にすることから、こう呼ばれる。いわゆる「トップ下」の選手のこと。

しかし、日本でイメージされるようなパサータイプのトップ下(日本で言うトップ下というのはゲームメーカーで、レジスタという)ではない。純粋なフォワードではないが、フォワードのような得点力を持つ選手を指すことが多い。

代表的な選手としては、ASローマのフランチェスコ・トッティ、 ACミランのカカなど。



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サッカーにおける中盤(ちゅうばん)とは、「フィールドの中央部」、あるいは、「フィールドの中央部でプレイする選手」を意味する日本語。ミッドフィールドとも言う。

中盤に位置する選手のことは、「中盤」「中盤の選手」などと呼ぶ。

また、中盤より前方の部分は「前衛」「前線」「トップ」、後方の部分は「後衛」「最終ライン」「DF(ディフェンス)ライン」などと呼ぶ。

中盤は、英語ではMidfield(ミッドフィールド)と呼ばれ、中盤に位置する選手のことは「Midfielder(ミッドフィールダー)」、あるいは「Halfback(ハーフバック)、Half(ハーフ)」と呼ぶ。他の言語でも、それに準じた呼び方をする。

「中盤の選手」に関する詳細は、次の項目などを参照してください。

ミッドフィールダー
ボランチ
ゲームメーカー
トップ下
司令塔
サイドハーフ



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ポストプレイヤーとは前線でゴールに背を向けてボールを受け、体を張ってそのボールをキープしたり、後方から上がってくる味方にパスを返したりするプレーを得意とする選手、あるいはその役割を与えられた選手のこと。


■代表的ポストプレイヤー

鈴木隆行( 日本)
フェルナンド・モリエンテス( スペイン)
ルカ・トニ( イタリア)
ヨン・カリュー( ノルウェー)
ヤン・コラー( チェコ)
クラウディオ・ピサーロ( ペルー)
イグリ・ターレ( アルバニア)
エルナン・クレスポ( アルゼンチン)
ヤン・フェネホール・オフ・ヘッセリンク( オランダ)


■関連記事
ポストプレイ



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フルバック (full back)(FB)は、スポーツのポジション用語。後衛。バックスのポジションの一つ。ラグビー、アメリカン・フットボール、サッカー、ホッケーなどで用いられる。 もともとは最後尾に位置する選手のことであったが、現在では必ずしもそうとは限らない。

サッカーでは時代とともに守備の選手が増えたことで、このポジションの選手はディフェンダーと呼ばれるようになった。そのため、現在の日本では使われなくなった呼び方。一方、英語圏では、最後尾の選手が左右に開いて日本で言うサイドバックになったため、今ではそのポジションのことをフルバックと呼ぶ。



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■サッカー文化

サッカーは世界中で最も多くの国で行われているスポーツと言われており、特に盛んなイギリス・ブラジル・アルゼンチン・イタリアなどの国ではその国の文化と密接な関係を持っています。

日本のサッカー  アメリカ合衆国のサッカー  イギリスのサッカー  アルゼンチンのサッカー  スペインのサッカー  イタリアのサッカー  ドイツのサッカー  オランダのサッカー


■FIFA 100

FIFA 100 は、国際サッカー連盟(FIFA)の創設100周年を記念して2004年3月4日にロンドンで開催された記念式典。この式典でペレが選んだ『偉大なサッカー選手100人』が発表され、対象者は2004年3月4日時点での存命者が条件で、実際は125人が選ばれた。この中には2人の女子選手も含まれている。選出者の内訳は引退選手が75人、現役選手が50人。日本からも中田英寿選手が選ばれた。

▽FIFA 100 各国の選手
南米(6ヶ国 31名)  北中米(2ヶ国 3名)  ヨーロッパ(21ヶ国 84名)  アフリカ(5ヶ国 5名)  アジア(2ヶ国 2名)


■審判員について

審判員  審判員のルール上の規定  審判員の資格  審判員の用具・用品

線審  副審  スペシャルレフェリー







テオフィロ・クビジャス(Teófilo Cubillas、1949年3月8日-)は、ペルー・リマ・プエンテ・デ・ビエドラ出身の元サッカー選手。

ペルーサッカー史上最大のスター選手の現役時代のポジションは攻撃的MF。フリーキックの名手としても知られた。

16歳の時にアリアンサ・リマでキャリアをスタートさせ、20歳でワールドカップメキシコ大会ではペルー代表の準々決勝進出に貢献。1972年には南米年間最優秀選手賞にも輝いた。 スイスのFCバーゼル、ポルトガルのFCポルト、再びアリアンサ・リマを経て、NASL(北米サッカーリーグ)でプレイ。

現在は、自身が所有する少年サッカースクールがあるフロリダ州・コーラルスプリングスに住み、サッカー解説者としても活動している。


■テオフィロ・クビジャスの所属クラブ

アリアンサ・リマ(ペルー)1964-1973
FCバーゼル(スイス)1973
FCポルト(ポルトガル)1973-1977
アリアンサ・リマ(ペルー)1977-1978
フォートローダーデール・ストライカーズ(USA)1979-1983
サウスフロリダ・サンフォートラーダーデール(USA)1984
アリアンサ・リマ(ペルー)1984
サウスフロリダ・サンフォートラーダーデール(USA)1985
アリアンサ・リマ(ペルー)1987


■テオフィロ・クビジャスの代表歴

ペルー代表(81試合26得点)
1970年 ワールドカップメキシコ大会(ベスト8、4試合4得点)
1974年 ワールドカップ西ドイツ大会(2次リーグ、6試合5得点)
1975年 コパ・アメリカ(優勝)
1982年 ワールドカップスペイン大会(1次リーグ、3試合0得点)


■テオフィロ・クビジャスの個人タイトル

1972年 南米年間最優秀選手賞



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ロナウジーニョ・ガウーショ(Ronaldinho Gaúcho, 本名 ロナウド・デ・アシス・モレイラ:Ronaldo de Asiss Moreira, 1980年3月21日 - )はブラジル・ポルト・アレグレ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード、ミッドフィルダー(主に1.5列目)。2006年現在、スペインのFCバルセロナに所属している。

ロナウジーニョは「小さなロナウド」の意味で、入団当時、代表に既にロナウドがいたのでこの愛称で呼ばれている。また、ガウーショとはカウボーイを意味し、ブラジル国内では南部地域、とりわけリオグランデ・ド・スル州とサンタカタリナ州出身の男性(気質)を強調する際に用いられる語である。(戦争の時にカウボーイが活躍したため) ブラジルでは、ロナウドをFenômeno(フェノーメノ、天変地異、転じて「怪物」)、ロナウジーニョをGaúcho(ガウーショ、ロナウジーニョ・ガウーショ)と呼び区別している。 2006年には、ゴマブックスから人生を叙事的につづった『ロナウジーニョ The Smiling Champion』が出版された。

ロナウジーニョの代理人である実兄のロベルトは、1999年にアシスという登録名でコンサドーレ札幌に在籍していた。


■ロナウジーニョの来歴

2004年、2005年と2年連続でFIFA選出の世界最優秀選手に選ばれた。また2005年には欧州最優秀選手(バロンドール)にも選ばれ、ペレが選んだ偉大なサッカー選手100人『FIFA 100』、2006年にUEFAクラブ・フットボール年間最優秀選手に選出される。

試合中随所に見せる美麗なボール捌きは、見るものを魅了する。また、ペレ・ジーコ・リバウドなど、その世代で一番上手く、奇跡を起こせる選手に継承されているセレソン(ブラジル代表)の10番に必要な能力をすべて継承している選手である。

ブラジルA代表デビューは1999年6月26日のラトビア戦。その直後に開催されたコパ・アメリカのメンバーにも選ばれ、対ベネズエラ戦の技ありゴールはブラジル国民に希望を与えた。1999年のFIFAコンフェデレーションズカップと2000年シドニーオリンピック予選で得点王を獲得。2002年の日韓W杯では、ロナウド・リバウドと共に強力な攻撃ユニットを組み(3人のイニシャルから「3R」と呼ばれた)、優勝に貢献した。2006年のドイツW杯ではクラブでの活躍やバロンドールを獲得していることなどから「ロナウジーニョのための大会」とまで言われ注目を集めたが、結局1ゴールも挙げないままチームは準々決勝でフランスに敗れてしまい戦犯扱にされた。このことにブラジル国民は怒り、ブラジルにあるロナウジーニョの像が燃やされる事態にもなってしまった。

クラブでは、2003年にフランスのパリ・サンジェルマンからリバウドの後釜となり得る人材を探していたFCバルセロナに移籍。レアル・マドリードやマンチェスター・ユナイテッドとも交渉を行っていた。セレソンの先輩であるリバウドも背負った10番を身にまとい、ローテーションを取り入れたチームの中でも中心として君臨し、ソシオ(バルセロナを支える熱心なファン)たちに愛されている。彼がチームの攻撃に与える影響は大きく、彼がいる時といない時では周りの選手の動きも違う。

ナイキのCMに出演しており、主にその華麗なボール捌きを題材にしている。特に、ボールを一度も落とす事なく4連続でクロスバーに命中させた映像は、実際のプレーなのか合成映像なのか論争となった(現在も真偽は不明であるが、本人は合成であることを否定している。また、ナイキジャパンのスタッフで現地にいた人間がおり、『あれは実際にやったプレー』と証言している)。また日本の企業・コニカミノルタのオフィス用コピー機のCMモデルとして出演し、その時にはGKを含む11人の選手を1人で全員こなす役柄を演じた。また2006年放送の同社CMではキックターゲット(かつて筋肉番付シリーズで放送されたゲーム)のパネルに書かれた数々の妙技に挑戦するものが放送された。その中にはドラムを叩きながらヘディングをしたり、ダチョウの卵を使ってのリフティング、更にはボールを触れることなくシュートするものまで登場している。

2006年にはナイキとの縁で、ファンであるマイケル・ジョーダンと対談した。スーパースターであるロナウジーニョも、さすがに憧れのジョーダンの前では子供のように目を輝かせていたのは印象的であった。


■リバウドとロナウジーニョ

ロナウジーニョにとってロナウドは特別な存在であることは良く知られているが、リバウドへの思いはあまり知られていない。とある雑誌で、FCバルセロナ加入時に「リバウドやロナウドのような僕のアイドルのあとを追う事が出来るのはとても嬉しい」と言っていた。「リバウドの後釜を任されるのはとても光栄だ」と親しい友にもらしたこともあるようだ。

リバウドの退団に伴いバルセロナはその後釜の獲得に急ぎ、最初に10番の後釜として獲得したのがファン・ロマン・リケルメだった。リケルメは2006年W杯アルゼンチン代表の主軸を担う才能あるプレーヤーであるが、当時の彼はプレーにムラがあり、力不足であった。リバウドはジダンらと並び称されるほどの世界最高のプレーヤーである。その選手が抜けた穴は大きく、チームの成績も下降していった。そんな中バルサが目をつけたのが、当時パリ・サンジェルマンに所属していたロナウジーニョだった。

スペインはフランスと違いポルトガル語が通じる上に生活習慣にも共通点が多く、元々ロナウジーニョはスペインに行きたいという願望があったようだ。FCバルセロナがブラジル代表とFCバルセロナで10番を背負った自分の憧れであるリバウドというプレーヤーの後釜として自分を指名してくれた事が、本人にとって何よりも嬉しかったのである。その証拠として、バルセロナより金銭的に良い条件を出していたマンチェスター・ユナイテッドからのオファーを蹴ってまでバルサにこだわった。おそらくリバウドは、ロナウジーニョにとって「10番」としての手本であったのかもしれない。


■ロナウジーニョのプレースタイル

2004年ドリブルでのステップを刻むリズムにおいて、観客を楽しませることが出来る選手。他の一流選手と比較しても、ボールタッチが異常なまでに多い。このことが相手選手がボールを取りに来たのを見てからかわせる秘訣と思われる。左足の精度と守備の意識は高くはない。

所属クラブであるバルセロナでのプレイエリアは主に攻撃的なポジションの中央や左サイドでプレイする。左サイドが多く、いわゆるウイングのポジションではあるがサイドを駆け上がるのではなく外から中のゴールに向かってプレイをすることが多い。そこからドリブル、シュート、そして空いたスペースへ味方にパスを送る。06/07年のUEFAチャンピオンズリーグでの2ndレグにおけるリバプールとの試合の時はセンターのポジションでプレーしていたが、これはおそらく奇をてらった監督の采配によるものだと思われる。

かつてパリSGに所属していたときはMFなのかFWなのかわからないようなポジショニングをとっていてそれが論議の的となったこともある。彼のセンター付近でのプレーは激しいチャージに晒されることも多く、活躍できないこともしばしばだった。セレソンにおいてウイング的なポジショニングに慣れることによって更に才能が開花することとなった。

バルセロナ移籍当初は中央で使われることも多かったが左サイド起用がメインとなっている。

幼少時代は線の細さを指摘されていたようだが、ブラジル時代のクラブチームの方針で筋力トレーニングを重ねフィジカルの強さも手に入れている。2005/2006年のUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦(チェルシーVSバルセロナ)では屈強で有名なチェルシーのジョン・テリーのショルダーチャージを弾き飛ばしたこともある。

子供の頃はフットサルをしていて、ナイキ社のCMでは子供の頃の彼のフットサルをする映像が使われている。

▽ドリブル
持ち前のスピードとボディバランス、絶妙なボールタッチのフェイント、独特のステップにより相手を一瞬で抜き去る。中でも足首を使った“Elastico(エラシコ)”と呼ばれるフェイントが得意技の一つ。スポーツ工学の専門家が検証を行ったところ、横に移動しながらでも重心が身体の中心からほとんどずれていないことが確認された。

▽パス
敵ディフェンスを引き付け、持ち前の多彩なパス(スルーパス、ノールックパス、ヒールパス等)で周りの選手の能力も引き出す。DFにとって、近づけばドリブルで抜かれ、離れれば短いモーションでパスやシュートを放つため、やっかいであり、これが彼自身の能力を底上げしている。味方選手の二列目、三列目の選手の飛び出しを使いこなせるなど視野の広さと30m程度のミドルパスでも正確に出せる技術を持つ。

試合中に味方からのパスを背中で他のFWに落としてアシストを記録し、周りを驚かせたことも。インタビューでそのプレーについて質問をされた時、本人は狙ってやったと笑顔で答えていた。同時に練習でやっていないことは本番でもやはりできないとコメントを残している。

▽シュート
テクニックが確かで、局面に応じてコースをつくシュート、パワー重視のシュートを使い分ける。中でも右足を振りぬいて巻き込むようにカーブをかけたシュートを好む。膝下だけを振りぬくようなシュートだけにモーションが少ないといえる。ミドルシュートは得意ではない。

チームではFKとPKのキッカーを任されている。

中でも印象深いのは2004/2005年のUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント1回戦(バルセロナVSチェルシー)でゴール前のシュートチャンスにまず腰だけを3,4回ほど回しディフェンスを惑わし、そして右足だけを振りぬきゴールを決めた。GKのチェフは反応ができなかった。

▽メンタル
大変な負けず嫌いで、遊び(ミニゲームやサッカーのTVゲーム)などでも手を抜かず勝者のメンタリティーも持ち合わせる。日本代表だった小野伸二曰く、世界一サッカーを楽しんでいる男である。本人もサッカーを楽しむことを忘れないためには笑顔が一番だと述べ、試合中もたびたび笑顔をちらつかせながらプレーしている。これほど笑顔を絶やさずプレーする選手は、かつてのセレソンの英雄ガリンシャとロナウジーニョをおいて他にいないだろう。


■ロナウジーニョのタイトル

▽代表
1997年 FIFA U-17ワールドカップ - 優勝
1999年 コパ・アメリカ - 優勝
2002年 FIFAワールドカップ - 優勝
2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ - 優勝

▽クラブ
2005-2006 FCバルセロナ UEFAチャンピオンズリーグ - 優勝 
2005-2006 FCバルセロナ リーガ・エスパニョーラ - 優勝 
2004-2005 FCバルセロナ リーガ・エスパニョーラ - 優勝
2005-2006 FCバルセロナ スペイン・スーパーカップ - 優勝

▽個人
1997年 FIFA U-17ワールドカップ得点王
1999年 FIFAコンフェデレーションズカップ得点王
1999年 FIFAコンフェデレーションズカップMVP
2000年 シドニー五輪南米予選得点王
2004年・2005年 FIFA最優秀選手賞
2005年・2006年 FIFPro最優秀選手賞
2005年 バロンドール
2006年 FIFAクラブワールドカップでブロンズボール賞


■ロナウジーニョの所属チーム

▽1998年-2001年 - グレミオ(ブラジル)
1998年 5試合 0得点
1999年 19試合 6得点
2000年 11試合 8得点
2001年 0試合 0得点

▽2001年-2003年 - パリ・サンジェルマン(フランス)
2001年/2002年 28試合 9得点
2002年/2003年 27試合 8得点

▽2003年- 現 在 - バルセロナ(スペイン)
2003年/2004年 32試合 15得点
2004年/2005年 35試合 9得点
2005年/2006年 29試合 17得点



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フリオ・セサール・ロメロ(Julio César Romero、1960年8月28日-)は、パラグアイ出身のサッカー選手。MF。ロメリト(Romerito)の愛称で親しまれた。

ユース代表からA代表に昇格して臨んだ1979年のコパ・アメリカで26年ぶりの優勝に貢献。1980年には巨額の年俸により北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスに移籍。スター選手らと共にプレイした。

1985年には母国を36年ぶりのワールドカップ出場に導く活躍で、南米年間最優秀選手賞にも輝いた。


■フリオ・セサール・ロメロの所属クラブ

スポルティーボ・ルケーニョ(パラグアイ)1977-1980
ニューヨーク・コスモス(USA)1980-1983
フルミネンセ(ブラジル)1984-1989
FCバルセロナ(スペイン)1989
プエブラFC(メキシコ)1990
スポルティーボ・ルケーニョ(パラグアイ)1991
オリンピア(パラグアイ)1992
ラ・セレナ(チリ)1995
セロ・コラ(パラグアイ)1995


■フリオ・セサール・ロメロの個人タイトル

1984年 ボーラ・ジ・プラッタ
1985年 南米年間最優秀選手賞
2004年 FIFA 100


■フリオ・セサール・ロメロの代表歴

▽U-20パラグアイ代表(1979年)
1979年 FIFAワールドユース選手権

▽パラグアイ代表
1979年 コパ・アメリカ(優勝)
1986年 FIFAワールドカップ(ベスト16、4試合2得点)



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エリアス・フィゲロア(Elías Ricardo Figueroa Brander、1946年10月25日-)は、チリ出身の元サッカー選手。史上屈指のセンターバックとされる。

母国のサンティアゴ・ワンダラーズで頭角をあらわす。移籍したペニャロール、インテルナシオナルといった国外名門クラブでも欠かせぬ存在となり、1974年から3年連続の南米年間最優秀選手賞に輝いた。

チリ代表としても長きに渡ってディフェンスリーダーとしてプレイし、1966年、1974年、1982年と一回おきで計3回のワールドカップに出場するという珍しい記録も持っている。


■エリアス・フィゲロアの所属クラブ

ウニオン・ラ・カレラ(チリ)1965
サンティアゴ・ワンダラーズ(チリ)1965-1967
ペニャロール(ウルグアイ)1967-1971
SCインテルナシオナル(ブラジル)1971-1977
パレスティノ(チリ)1977-1980
フォートローダーデール・ストライカーズ(USA)1980-1981
コロコロ(チリ)1982


■エリアス・フィゲロアのクラブ代表歴

チリ代表(70試合2得点)
1966年 FIFAワールドカップ(3試合0得点、グループリーグ敗退)
1974年 FIFAワールドカップ(3試合0得点、グループリーグ敗退)
1982年 FIFAワールドカップ(3試合0得点、グループリーグ敗退)


■エリアス・フィゲロアのクラブ受賞歴

1967年 ウルグアイ最優秀選手
1968年 ウルグアイ最優秀選手
1972年 ボーラ・ジ・オーロ
1974年 南米年間最優秀選手賞
1975年 南米年間最優秀選手賞
1976年 ボーラ・ジ・オーロ
1976年 南米年間最優秀選手賞
2004年 FIFA 100



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