サッカーの用語・戦術と技術・ルールの掲載
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ミュンヘンの悲劇(Munich air disaster)は、1958年2月6日、ドイツ・ミュンヘンのリーム空港(現在のミュンヘン国際空港とは異なる)で起こった航空事故のこと。乗員・乗客43名のうち、23名が死亡した。イングランドフットボールリーグのチーム、マンチェスター・ユナイテッドのチャーター機であり、主力選手の命が多く失われたことから人々に長く記憶されている。


■「ミュンヘンの悲劇」の背景

1955年から開始されたヨーロッパのクラブ選手権であるチャンピオンズカップに初めてイングランド代表として乗り込んだのが、当時黄金時代を迎えていたマンチェスター・ユナイテッドだった。しかしこの参戦は孤立主義を掲げていたイングランドサッカー協会の警告を無視したもので、国内リーグの日程を調整してもらうこともできず、強行日程を強いられることとなっていた。

準々決勝に進出したマンチェスター・ユナイテッドはユーゴスラビアの強豪、レッドスター・ベオグラードと対戦。ホームで2-1と勝利したのち、2月5日(水曜日)に敵地・ベオグラードに乗り込み3-3の引き分け、総計5-4で準決勝進出を果たす。現代でこそ当たり前になった水曜・土曜の連戦だが、まだ飛行機の事情も良くなく、移動に労力を費やしていたこの時代に共産圏の国で試合をしてまた帰ってくるというのは信じがたい強行軍であった。また、土曜日にはブラックバーン・ローヴァーズとの上位直接対決が控えており、帰国を焦っていた事情もあった。更に、この時期は欧州全土を寒波が襲っていたという。


■「ミュンヘンの悲劇」事故とその原因

英国欧州航空(BEA)のチャーター機・BE609便は選手の一人がパスポートを忘れたためベオグラードを1時間遅れで出発した。当時のプロペラ機はブリテン島まで無着陸飛行する能力がなく、ミュンヘンに給油のために立ち寄った。給油後、2度離陸を試みるがエンジン出力が上がらず中止。不安に駆られた乗客の中には当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にもこれは犠牲者を増す結果となってしまった。午後3時4分、3度目の離陸を試みる。しかし離陸に必要な速度に達せず、機体は空港の端のフェンスを突き破り空き家に側面から激突して止まった。機体は大破し、多くの乗客の命が失われた。乗客のうち乳児一人は生存した選手であるハリー・グレッグが爆発の危険を顧みず命がけで助け出した。

原因については当初、翼の上に付着した雪または氷が影響したこと、またこのことについて操縦士が判断を怠ったためとされた。しかし後の事故調査委員会の調査で、離陸前の写真から翼に異常はなかったことが判明。更に操縦士の証言を元に実験を行うなどして検証した結果、滑走路に積もったシャーベット状の雪または氷が機を失速させたことが明らかとなり、操縦士の責任ではないことが明らかとなった。この事故で得られた経験はこれ以降、世界中の常識となった。しかし、機長のJames Thainは二度と操縦桿を握ることなく、54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏を営み暮らしたという。


■マンチェスター・ユナイテッドのその後

「ミュンヘンの悲劇」祈念碑8名の死者のほか、2名が再起不能であり、当然チームは大きな打撃を受けた。チャンピオンズカップの準決勝も控え選手中心で臨むが敗退。しかし、奇跡的に生還した監督マット・バスビーと、その後精神的打撃からも立ち直ったボビー・チャールトンが中心となってクラブを再建。若手選手の目覚しい成長もあり、マンチェスター・ユナイテッドはFAカップとフットボールリーグを制覇。ミュンヘンでの事故から10年後の1968年には、悲願のチャンピオンズカップを奪取し、イングランドのクラブとして初めてヨーロッパ制覇を成し遂げた。

これらの歴史的な背景から、マンチェスター・ユナイテッドはイングランドリーグを代表するクラブとして世界中のフットボールファンに認知され、長年名門クラブとして活動を続けているのは周知の事実であろう。

マンチェスター・ユナイテッドのホームスタジアム、オールド・トラフォードの一角には、事故の犠牲者を追悼する祈念碑が掲げられている。




Wikipediaより出典 - Article - History - License:GFDL
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スペルガの悲劇(伊:Tragedia di Superga)とは、1949年5月4日、イタリア・トリノ郊外の丘陵地、通称「スペルガの丘」で起きた航空機墜落事故のこと。乗員・乗客31名全員が死亡し、この中にはイタリアのプロサッカークラブ、ACトリノの選手18名と監督以下スタッフ5名が含まれていた。


■「スペルガの悲劇」背景・概要

当時のACトリノはイタリアのトップリーグ、セリエAの強豪クラブとして名を馳せ、ファンからは "Grande Torino" (偉大なるトリノ)と称えられていた。1948年から始まったシーズンもエースのヴァレンティーノ・マッツォーラを中心に好調を維持し、リーグ5連覇も目の前という状況にあった。

1949年5月4日、クラブ一行はポルトガル・リスボンで行なわれたベンフィカとの親善試合を終え、アリタリア航空のフィアットG.212型機(3発レシプロ機、機体記号I-ELCE)でトリノへの帰路に就いた。この時トリノ周辺の天候は激しい雷雨で、視界不良の状態にあった。ACトリノの面々を乗せた飛行機はコントロールを誤り、トリノ郊外にある丘陵地の上に建つスペルガ聖堂の外壁に激突し大破した。事故機で原型をとどめていたのは尾翼附近だけであった。この事故でマッツォーラを含むACトリノの選手18名と、監督・コーチおよびクラブのフロントら5名、そして乗員ほか8名の計31名全員が死亡した。

ACトリノの主力メンバーであったサウロ・トマ (Sauro Tomà) は負傷を理由に遠征に帯同しておらず、また当時イタリアに亡命していたハンガリー人フォワード、ラディスラオ・クバラが同じ親善試合に参加するため行動を共にする予定であったが、息子の病気を理由に急遽辞退し、それぞれ難を逃れている。


■「スペルガの悲劇」事故後

この時のACトリノのメンバーの大半はイタリア代表にも名を連ねる選手達であり、彼らを失ったことはイタリアサッカー界全体にとって大きな損失であった。葬儀はイギリス人監督のレスリー・リーブスリー (Leslie Lievesley) を含むクラブの犠牲者全員を悼む国葬としている。

優勝目前でトップチームを丸ごと失ったACトリノは、リーグ戦の残りの4試合をユースチームで戦うことになったが、"Grande Torino" に敬意を表した相手クラブも同様にユースチームで対抗。結局このシーズンはそのままACトリノがスクデットを獲得した。ACトリノはその後、クラブの建て直しが上手くいかずに成績も低迷。次のスクデット獲得までに実に27年を要した。そしてさらに、この1976年を最後にクラブは優勝から遠ざかり、2部リーグ(セリエB)を行き来するエレベーターチームとなっている。ちなみに同クラブは2006年から、クラブ名を「Torino Football Club」(トリノFC)に改称している。

また、事故の翌年に行なわれた第4回ワールドカップブラジル大会に参加したイタリア代表は、チームの再建が間に合わずグループリーグで敗退した(事故の痛ましい記憶から、ブラジルまでの移動に海路を選択したこともチームの不調に少なからず影響したと思われる)。

30歳でこの世を去った "Grande Torino" のエース、ヴァレンティーノ・マッツォーラには、事故当時まだ6歳の幼い愛息子・アレッサンドロがいた。少年はその後父と同じ道を歩み、ミラノの強豪クラブ・インテルに入団。1960~70年代のイタリアを代表するスタープレイヤー、サンドロ・マッツォーラとなった。




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